エッセイ:人生は親が9割
「人生は親が9割」これはもう疑いようのない事実だと僕は思うんです。
というと間違いなく「毒親の家庭に産まれてもその後の努力で勝ち組になった人はいる」「何者でもないことの言い訳に親を利用しているだけ」というような反論を至極簡単に想定することができるわけですけども、これについては、運が良かったとしか言いようがない。
努力でどうこうという反論を用いる論者は、結局当人の運がよかったか、実情を舐めているかの二択です。実際のところ、「努力をすることができる環境」なんてものはハナから与えられていないのですよ。
というと、「図書館で本を読んだりするだけでも努力、そういう努力を怠った側にこそ責任がある」とこれまた至極簡単に反論を想定できるわけですけど、それは、議論が前のめりになっている。実際はもっと前の段階で詰んでいる。
なぜなら、オワっている親のもとに産み落とされた人間には、そもそも読書という習慣がないどころか「知識を得ることを善とする価値観」自体が存在していない。例えば、子育てをすることも叶わないような経済状況の中で子供を産むといった過ちを犯す親は、そもそも「知識をつけて向上すること」に価値を見出していない。彼らがなにを考えているかというと、「身体は資本であり、つまりそれは体力であり、身体はイコール労働で金を生むための装置であり、肉体労働は生命を繋ぎ止めるという事実で善である」即ち、環境を変革しようなどといった考えなど毛頭ない、肉体を用いて、賃金を生み、現状を維持しながら生きていく、それこそが善、大学に行くことや、なにかを研究することなど微塵も価値がない。労働が問題なくできるだけの学力(=高卒)を備えて、肉体労働に従事し、ただ生きる。それだけが重要で、それ以外は枝葉末節。そういった価値観の中で彼らは生きている。
だから、家に本があるわけがない。大学を目指すわけがない。勉強を応援するわけがない。変革を許すわけがない。
そういった、あまりに旧態依然とした環境で、それを善とする教育を受ける。それを善とする価値観を植え付けられる。もはや、環境の変革はほとんど悪と見做され、貶される対象とすら捉えられる。この、あまりに視野の狭い価値観を抱えることを余儀なくされる。
なにかの拍子か、はたまた突然変異かで、自身の視野の狭さ、環境の異常さに仮令気づけたとしても、それが応援されることはありえない。参考書なんて買ってもらえるはずがない。それは、家庭内に不和を齎す歪んだ思想でしかなく、真っ先に排斥、摘んでしまわなければならない思想だから。
それほどまでに劣悪な環境を人々は想定しない。いや、想定できない。生まれた時に本が一冊もない、もしくは新興宗教のバイブルしか家に置かれていない家庭で育ったことがない人間は、当たり前に本棚が置かれていて、当たり前に知識を得ることを正しいことだと信じてきた人間は、そもそも劣悪の可能性に至ることができない。彼らは、結局、自分が生まれ育った環境で作り上げた価値観の物差しで、「人生は親が9割」の論説を測り、「それは努力の欠如だ」「言い訳だ」と喝破してみせる。
実際はそんなレベルじゃない。そもそも「努力することを許されない環境」がそこにはある。もうどうやったって「努力することが正しくない」環境が構築されている。
ここから、ようやく、論者たちと同じような「努力の欠如」それ即ち「悪である」と、彼らが当たり前だと思っている思想のステージに至ることができる人間は、本当に本当にわずかばかりで、その、当たり前とされているステージに歩みを進められるかどうかといったことすらも、ほとんど運でしかない。
つまるところ論者は、「運が良かった」か、「実情を舐めている」この二択でしかない。実際は、もっと問題は後ろの、深くの方にある。そもそもの価値観、それを修正しない限り、人生は親(=環境)の呪縛からは解き放たれない。そして万が一呪縛から解き放たれたとしても、気づいた時には歳を重ね、どうしようもない、何者でもない恐怖感だけが重くのしかかり、向上心と劣等感の間で板挟みになって、ただ、苦しく、この呪縛に苦しめられる。ただそれだけ。
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