エッセイ:秋葉原駅前で『涼宮ハルヒの憂鬱』の歌を歌い続けた
『涼宮ハルヒの憂鬱』(以下、ハルヒ)は俺のオタクとしての原点といっても過言ではありません。たしかにハルヒ以前に『遊戯王』にのめりこんでいたり、『カードキャプターさくら』で初めて戦う女の子像に惹かれて親に「あんたそれ女の子が見るアニメよ!」と怒られたりはしていましたが、まだ「昼のアニメ」と「夜のアニメ」に明確にカルチャーが二分されて、前者を健常者が、そして後者を非-健常者、反社会性力、パブリックエネミーであるところの“オタク”が視聴するものと定義さられていた時代に、初めて触れたアングラ、それこそが『涼宮ハルヒの憂鬱』でした。
ハルヒについてはまたいつか別の機会に語るとして、12月18日は映画『涼宮ハルヒの消失』で長門有希が世界改変を起こしたXdayです。そしてあろうもことか涼宮ハルヒ公式はこのXdayに『涼宮ハルヒの消失』の上映を決定し、そして私は見事にチケットに落選しました。
『涼宮ハルヒの消失』はそれこそ、もはや「一番好きな映画」と言ってしまっても過言ではないほどに熱中しました。「涼宮ハルヒ」が「消失」したからこそ「長門有希」がヒロインたり得るその映画は、ハルヒファン、とりわけ長門有希という女に狂わされたオタクの心をダイレクトに揺さぶる内容で、その感傷は『涼宮ハルヒの追想』をクリアしたオタクにとって一生消えることのない“痕”として今でも胸の奥に根付いています。
時を同じくして、私はそのXdayに用事があって東京にいました。物理的な距離というのは心的な距離に直結します。つまるところ、関東で上映される『涼宮ハルヒの消失』の上映館との近さは、『涼宮ハルヒの消失』との心の、内的な距離の近さとなって現れてきます。
にもかかわらず、私は『涼宮ハルヒの消失』を見ることができない。この悲哀をどうしてくれよう。
私は一度も『涼宮ハルヒの消失』を劇場で観れたことがありません。上映当時、私はまだ中学生。所持金というものを持っておらず、校区外に出れば教師によって補導されていた時分の彼にとって、一人で映画を観に行くなど考えられないことでした。実際、『涼宮ハルヒの消失』を観ることができたのは、高校生になって、初めて所持金というものを手にして、中古でBDを買ってからでした。
今回の上映が、人生最初で最後の劇場で観る消失になるかもしれない。その想いが、自分の中で巨大であると自覚しているからこそ、普段からは考えられないほど距離的に『涼宮ハルヒの消失』と近くあるにも関わらず、長門有希に出会うことができない哀しさに耐え得ることができませんでした。
目を閉じると、病院の屋上で一身に雪を受け止める長門の姿が、そしてエンドロールと同時にアカペラで流れ出す『優しい忘却』が聴こえてくるのです。私はそれを、映画館の座席に座って、この美しさに打ちのめされて、長門の、「disk error」として消費されていた想いを受けて涙しているのです。そんな、未来が、あった、はずなのに。
「私が『涼宮ハルヒの消失』を観ることができない」、極限まで利己的な怒りが他の一切を無価値にさせる。この怒りに対するデモを行わなければ、私は、私でなくなる。自分が『涼宮ハルヒの消失』を観ることができない世界など、破壊しなくてはならない、変革しなくてはならない!
涼宮ハルヒや長門有希なら、ここで世界を改変して小泉やキョンの仕事を増やすことができるだろう、しかし、俺にできるのは、世界の誰にも見向きされない、100%自分のための、自分に向けたデモ活動。その程度のことを、いや、その程度のことしかできないからこそ、やるしかない。やって、やるしかない。
湧き上がる熱情は私の足を秋葉原へと向かわせた。早朝、夜行バスで東京に到着し、ネカフェにこもって涼宮ハルヒの憂鬱の関連楽曲の歌詞を5時間書き続ける。その後に渋谷に向かいアンプをレンタルしようとするが、事前予約が必要だったと知りすぐさま楽器店に移動し約2万円でアンプを購入、持参したマイクを繋いで秋葉原駅前で設営するもマイクを認識しなかったのでラジオ会館でマイクを購入。改めて看板を2枚立てて、歌詞を立てて、涼宮ハルヒの主題歌、キャラソン、ゲームソングを警察が来るまで歌い続ける。
クオリティも観客もなにもあったものではない。これは、俺の為のデモで、俺に許された唯一の選択肢なんだ。誰が聴こうが、何を言われようが知ったことではない。ただ、俺が、『涼宮ハルヒの消失』を観ることができないというこの世界のおかしさ、涼宮ハルヒが世界の平常に異を唱えたように、“個人 to 世界”への抗議。この広大すぎる世界に対してなんら意味をもたない個人の、激情の発露。その、端的な事実としての存在が、在るだけ。
最後は警察に注意されて撤収しました。俺はハルヒじゃないのでやっぱりこんなことしてもなにも変わりません。長門がいないので、無理難題を通すことはできません。朝比奈さんがいないので、今を変えることができません。小泉がいないので、俺の心のわだかまりを制することができません。キョンがいないので、どこにも向かうことができません。
SOS団がいないと、なにをやってもうまくいかない。