言霊
高校3年生の時のことだ。1年生の男の子が自殺した。当時それなりに話題となり、学校には記者が押し寄せた。教師たちは、学生をメディアから守るという大義を抱え、その実、野球部内の「いじめ」が原因で死人がでた情報を外部に漏らさないようにと躍起になり、駅から校舎まで、まるで人で道を作るかのように教師たちが連なって両腕を広げ、学生と大人の間の壁となった。良い歳した、それも普段、教壇に立って偉そうにしている彼らの必死な表情は、浅ましく滑稽に映った。
自殺者を出した責任は重かった。学校のアイドル的存在だった女性の校長は見る見るうちに衰弱していった。野球部や死んだ生徒のクラスとは直接関係のない教師の間にも緊張感が張り詰めていた。自殺の話題はタブー視され、情報の流出、もしくは事実の歪曲を恐れた学校側によってHR(ホームルーム)では統制活動が度々行われた。
野球部に誰も所属しておらず、対極の学年にある私のクラスにおいても不穏な空気が流れていた。それを感じ取ってか、普段は教室の後ろに控え、静かに授業を見守っている副担が牽引して緊急のHRが開かれた。副担は情報学を受け持っており、情報という言葉から連想されるなよなよとしたイメージとは違い、バランスのとれた体格と、若干のユーモアと、落ち着きを併せ持っていた。
副担という性質もあって、彼から直接話を聞く機会はこれまでほとんどなかった。誰もがこれから始める演説に興味を抱いて、静かに着座をしていたが、期待に反してその内容はありふれたものだった。しかし、台本が無いことは明確で、心に浮かんだ言葉をそのまま発しているというふうだった。
HRも佳境に入り、いよいよ話すことも無くなったという頃。副担は教壇に両手をつき、顔を上げ、前を向き、一言、「お前ら 死ぬなよ」と言った。
「うおっ!」という声の後に鈍い音が響いた。おちゃらけもので、普段は教室のムードメーカー的存在だったクラスメイトが、椅子から転がり落ちたのだ。私は瞬間的に察した、「副担に突き落とされた」のだと。そして同時に、クラスに居る誰もが、全く同じ心境であることも分かった。
落下した彼を除き、誰一人、身動きが取れなかった。言葉を発することも叶わなかった。「言葉によって突き落とされる」、通常考えてあり得ないことが、しかしこの空間においてそれが起こっているということを、誰も疑わなかった。副担の、静かでいて力強い言葉の力によって、彼はその圧力を食らい、ついぞ敵わず態勢を崩したのだ。
HRが終わり、気づけば身体が動くようになっていた。誰も彼の落下には言及しなかった。教師の言葉と、彼が転がり落ちた事実は、教室に神聖を齎すには十分すぎた。後にも先にも、私が明確に『言霊』の力を感じた経験はこのHRの一度きりしかない。
あれから9年、私も常々、自殺ということを考える。死にたいと思うことも度々ある。他人の自殺を止めるだけの度量も持ち合わせていないし、各個人の生の決定権は完全に彼らに委ねられていると信じている。しかし、母校の生徒の自殺、そして、直接の友人の自殺をも経験して、折に触れて副担の言葉を思い出す。
死ぬのか、生きるのか、それは全く人の自由だ。しかし、少なくとも今、私が、あなたが、彼に死んでほしくないと少しでも願っているのならば、道理も責任も投げ捨てて、何度でも言わなければならない。「死ぬなよ」、その言霊を、突き動かす、曖昧な力だけを信じて。