「私ときどきレッサーパンダ」という「この社会に生きる子どものための物語」
というわけで、ディズニープラスで「私ときどきレッサーパンダ」を見ました。
最初、まあいつものディズニー作品みたいな感じかな。『ズートピア』ぐらい興味深い部分があればまあいいかな、ぐらいに思っていたんですが、見てみると、結構挑戦的な話でびっくりしました。
今までのディズニー作品と結構違うという点については、Webメディアでも以下の記事で触れられているのですが
この記事では、この映画が一体どういう立ち位置から、何に対して「挑戦状」をたたきつけているように見えたか、僕の考察を述べていきたいと考えています。
「母=家の支配」から独立しようとする、全ての子どもたちの物語
この映画のストーリを示す重要な要素は
「子どもを自分の所有物とみなす毒親的価値観」の克服
といえます。
今まで、母親の理想通りに生きてきた少女が、その理想とは違う自我を獲得する、その自我こそがまさしく「レッサーパンダ」として現れ、その自我をいかに、自分、そして家族が受け入れていくかが、この映画のストーリーの肝と言えます。
そして、その自我を抑え込むものとして、母の支配があるわけですが、母の支配の背後には、「一族の名誉」を守るという前近代的価値観があり、そして冒頭に示されるとおり、それはこの映画において「アジアの儒教的価値観」として描かれているわけです。
これを、まさしくサイードが批判したようなオリエンタリズム的な視点
として批判するのは容易いですし、多分これまでのディズニーやピクサーだったら、そのような批判を防ぐために、対立する価値観を特定の文化に結びつけることはしなかったと思います。
しかしこの映画は、上記で挙げた記事で述べられているように、監督の個人的な経験を、誤魔化すこと無くそのまま描くために、敢えて実在の文化・価値観を映画の俎上に上げたわけです。
これによって、この映画は良くも悪くも「いつにでもどこにでも当てはまる普遍的寓話」ではない、「この社会に生きる子どものための物語」となっているわけですね。実際、この映画と同じように、「家」に縛られる経験をしている子どもたちは多いでしょうし、そういう子どもたちに直接元気を与える映画となっています。
また、更に言えば、実在の文化を俎上に上げることによって、「問題をただ個人化するのではなく、社会構造全体の問題として描く」という可能性も持っています。ただこれに関しては、やはり「個人の心の持ちようが世界を変える」という、ディズニーの自己啓発から抜け出すのは難しかったのか(あるいは、そこに踏み込むと本格的に文化帝国主義が隠せなくなると思ったのか)、ちょっと中途半端ではありましたが。
「野蛮人」のアジア的文化をやっつける、「文明人」の西欧的文化
ただ一方で、そのようなアクチュアリティを持つがゆえ、この映画はサイードが『オリエンタリズム』で批判した様式をそのまま持つことになります。
つまり
アジアの野蛮な文化に虐げられた人たちを、自由な西欧が救う
という図式です。
この映画では、過去の想像上の中国文化は割と美化されますが、現実にチャイナタウンにある、寺院やお経といった現代の中国文化はとにかくダサいものとして描かれます。そして、そういう「ダサいもの」に囲まれた主人公の憧れとなるのは、アメリカ文化を体現するような、バックストリートボーイズをオマージュした、ボーイズアイドルグループなわけです。
そして、物語の重要な場面でも、このボーイズアイドルグループの歌が、中国のお経では果たせなかった、重要な役割を果たします。
もちろん、このような図式も、移民の家族に生まれた監督の個人的経験からすれば、ごく当たり前に子どもたちが抱く感覚といえます。
しかし一方で、そこで描かれるあまりに素朴な西欧的文化の称揚には、やはり文化侵略の匂いを感じてしまうわけです。結局、アジア的文化になじんだ私たちは、文化的には二流で、時代の先端であるアメリカ文化の後塵を拝するしか、彼らに追いつく方法は無いのかと。
そこで、中国文化内部の要素から、古い中国的価値観を内破するような物語を描ければ、よりすんなり物語に入り込むことができたのかなと思う一方で、それは「優れたアメリカ文化をそのまま外国に持ち込む」ことによって成り立っている、ディズニー自体を自己否定することになるから、無理なのかなと思ったりします。
「混乱して間違う気持ち」も私の一部なんだと認めること
一方で、そういった文化固有の問題とも違う、普遍的対立の問題も、この映画は描いています。
それは
「社会的に正しくあろうとする気持ち」v.s.「心の赴くままに混乱して間違う気持ち」
という、人間の心の二面性です。そして、この映画は明確に後者の立場に立つ訳です。
そして僕は、この内容こそ、真に重要な部分じゃないかと思う訳です。
この映画は、まあだいたいの部分においてリベラルの価値観に親和的な映画なわけですが、しかしだからこそ、「かわいい」を売り物にし、性的に扇情的な振り付けを好んで踊る少女と、それを叱りつける母親を見て、今の自分がどちら側になっているか、反省してみる必要があるわけではないでしょうか。
まあ、逆に言えば、叱りつける母親の視点に立つと、「かわいい」を売り物にして寺院に人を集めるレッサーパンダの姿は、まさしく「心の赴くままに混乱して間違う気持ち」を社会に利用されて、性的搾取の対象となる可哀想な子どもとなってしまうのかもしれませんが……
しかし、例え社会に利用されているとしても、子どもたちが望んだものを否定するのでは無く、認め、見守る。そこで失敗するとしても、その失敗も成長の糧になるのだから……というメッセージが、この映画のラストにはあると思います。
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