地元でサブカルチャーのはなしを聞く2


ちょっと前に記事で感想を書いた、この講演の続編が、2月11日・24日に行われたので、行ってきました。

80年代編&90年代編もご好評いただいた『TVODのサブカルチャー講座』、2000年代編&2010年代編を開催します! よろしければ是非! 2000年代編 2/11(火祝)13:30~ sgc.shizuokacity.jp/event/view.a... 2010年代編 2/24(月振休)13:30~ sgc.shizuokacity.jp/event/view.a... 各回1人1,000円

コメカ (@comecaml.bsky.social) 2025-02-10T09:39:30.066Z

イベントの概要

今回は2000年代〜2010年代の音楽を振り返る内容となっておりまして、実際に流された曲としては、00年代が

  • 「NUM-AMI-DABUTZ」NUMBER GIRL

  • 「時計の針」降神

  • 「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」サンボマスター

  • 「ADEPRESSIVE CANNOT GOTO THECEREMONY PART2」imoutoid

  • 「The city of Light」HASYMO

  • 「女々しくて」ゴールデンボンバー

  • 「スマトラ警備隊」相対性理論

で、10年代が

  • 「ぺんてる」神聖かまってちゃん

  • 「絶対彼女」大森靖子

  • 「Phonon Belt」平沢進

  • 「アジアの汗」寺尾紗穂

  • 「メルヘン」ゆるめるモ!

  • 「でんでんぱっしょん」でんぱ組.inc

  • 「Yogee New Waves」CLIMAX NIGHT

  • 「ボカロはダサい」ピノキオピー

  • 「夜に駆ける」YOASOBI

  • 「Cho Wavy De Gomenne」JP THW WAVY

というプレイリストになりました。

上記のプレイリストからもわかる通り、「本当に流行した曲」から「マイナーだけど、実は結構重要な曲」まで幅広く取り上げられていました。

そして、00年代と10年代における変化の主な要因としては「インターネットの登場とその普及」などが挙げられました。

そして、その変化の帰結として、(新人類・センスエリート的な)サブカルや、そのバックボーンにあった教養主義が衰退していき、代わりに再生数といった数値こそが音楽を評価する指標として重視されるようになって、「ダサくても大衆に受ければいい」というポピュリズム的状況が生まれてきた。

本当はもっと、そのように単純に解釈できない部分もあるということが、イベントでは語られていたのですが、とりあえず僕が乱暴に、自分の解釈も入れてようやくすると、そういう内容だったと思います。

ちなみに、僕自身は、まさしくこの00年代ごろから、音楽を聴き始めたので、「ああ、ここらへんの曲好きなんだよな」とベタに思ったりしていました。

ただ、TVODのお二人はどっちかというと、現代に近づき、特に10年代に入ると「時代を象徴するかもしれないけど……」とか「自分は面白いと思うけど、時代全体を象徴するかと言われると……」という風に言い淀む姿が見られて、そこらへんの感覚の違いも面白かったりしました。

「ダサくて何が悪い」と言うことが、80年代と10年代でどういう意味の違いを持つか

で、話の中で特に印象に残ったのが、「10年代以降は、センスエリート的サブカルが衰退し、『ダサくて何が悪い』という態度が文化全体で全面化したのではないか」というテーマです。

そこで例に出されたのが、ピノキオピー氏の「ボカロはダサい」という曲だったわけです。

ピノキオピー氏は、筋肉少女帯や、筋肉少女帯が属していたナゴムレコードなどに影響を受けたことを公言しています。ネガティブなことをあえて俯瞰的に歌う態度とかは、まさしく大槻ケンヂ氏の歌詞から影響を受けているということを、対談で述べていたりもします。

しかし、80〜90年代に、オルタナティブな立場から、センスエリートに対抗する言葉として歌われていた言葉と同じ言葉を、10年代に、もはやメインストリームになったといってもいいボカロ文化において歌っても、その二つの意味合いは全く異なってくるわけです。

80〜90年代には「(センスエリートの)抑圧に対する反抗」としての意味を持った「ダサくて何が悪い」という言葉も、10年代にメインストリームになった存在から歌われたら、単純な、自分たちのパワーの誇示にしかならないのではないか、そんな指摘です。

ぼくは、筋肉少女帯とかが大好きな人間でありながら、その筋肉少女帯などに影響を受け、実際に歌詞を見てもそう感じるような、ピノキオピー氏の曲はどうにも素直に受け止められなかったのですが、その指摘を聞いて「まさにそういう違いがあるのかもしれないな」と、思ったりしました。

誰もがみんな「私たちこそが抑圧された被害者だ」と思っているのでは?

ただ、そのように思う一方で、僕はこうも思うのですね。

「でも、多分ボカロ文化に属する人たちは、自分たちにメインストリームの自覚はなく、『抑圧された被害者』だという自意識があるのではないか?」と。

そして、この「自分たちこそが抑圧された被害者だ」という意識は、ある文化固有の問題というよりは、固有の文化を超えた社会全体において、「勝ち残るために必要な意識」として、存在するようになっているのではないかとも、いえるわけです。

社会学者の鈴木謙介氏は「奪い合いと分かち合い」というブログ記事の中で、「自分たちは奪われているという感情」が、先進国各国で蔓延しているということを指摘しています。

そのような意識のもとでは、ある文化圏の表現に対して、その文化圏の外から批判がされた場合には、即「自分たちの文化が抑圧されようとしている!」と解釈され、対話の回路は閉ざされるわけです。

サブカルチャーと被害者意識の共犯関係

そしてさらに言うと、このような「自分たちこそが抑圧された被害者だ」という被害者意識と、「社会に馴染めない人間たちに寄り添う」というサブカルチャーの姿勢は、相性が良すぎるのではないかとも、感じるわけです。

例えばイベントでは「アイドルに集って、集団で何か一つの対象を押し上げる推し活と、政治におけるポピュリズムは、形式的には実は同じなのではないか」というようなことも言われていました。

精神科医の熊代亨氏は『「推し」で心はみたされる?』という著書

(下段は自分が書いた書評記事)

の中で、自らが推す対象を中心に、共同性を築き、そのなかで所属欲求を満たすことが、推し活の重要な機能であると述べています。

さらに遡れば、社会学者の宮台真司氏は『終わりなき日常を生きろ』という1995年に出版された本の中で、「家や学校・地域とは違う、クラブみたいな場所で、『社会を変える』とかあきらめて、一緒にまったり過ごしていれば、それで幸せじゃないか」と、「まったり革命」というものを提唱したりしました。

ただ、上記であげた議論というのは、少なくとも「社会からハブられても、疎外感はあるけど、ある程度の豊かさはある」という、自分がこの先も中間層にいられるだろうという、余裕がないと、成り立たないでしょう。

「社会から疎外されてしまう」ということが、そのまま「負けて何かを奪われてしまう」という剥奪感に繋がってしまうとき、サブカルチャーの「社会に馴染めない人間に寄り添う」という姿勢は、「自分たちが生き残るために、団結して勝ち、奪う側に回るんだ」という(当事者から見たら)抵抗を支える物語となるわけです。

というかむしろ、現在起きているのは、政治が、サブカルチャー的な寄り添いを模倣しているという現象なのかもしれません。社会学者の伊藤昌亮氏は、「石丸現象とTikTok」という記事の中で、石丸伸二氏への支持が、まさしくTikTokで石丸氏が「推し」としてアイドル的人気を得ていくことで生み出されていったと分析しています。

「被害者意識」ではないサブカルチャーの可能性

ただ一方で、「社会に馴染めない人間たちへの寄り添い」ではない可能性というのも、サブカルチャーには存在するのではないかということも、今回の講演では示唆されているように思います。

例えばパンス氏は寺尾紗穂氏の「アジアの汗」について、当時主流だった「郊外の何もない風景を描く」、ドメスティックな視点や中流階級意識に基づくサブカルチャーとは違う、サブカルチャーがあったと指摘しています。

その指摘を僕なりに解釈すると、以下のようになります。

10年代前半のサブカルチャーの主流は、郊外に暮らす人々が、その郊外に生きることを内省する、ある種セカイ系的とも言える、内に籠るサブカルチャーだったといえます。

けれど、一方でそれとは違う、世界の多様性に目を向かせる、外に向かうサブカルチャーもあり、そっちの方にサブカルチャーの可能性はあるのではないか、というわけです。

大森靖子の可能性と限界

さらに言うと、僕はTVODの二人が執筆した『ポスト・サブカル焼け跡派』という本の第5章で、コメカ氏が大森靖子氏に見出した可能性も、有効性を失ってはいないのではないかと思うわけです。

コメカ 「GIRL'S GIRL」的な在り方、「かわいいは正義に殴られた私が いまにみてろと無理矢理つくった このかわいいは剥がれない 絶対誰にも剥がせない」「他人の承認欲求否定して てめえの平穏守ってんなよ 私は私が認めた私を認めさせたい 何が悪い」というスタンスの中には。「私が認めた私」までで止まるのではなくて、それをさらに「認めさせたい」という意思がある。自意識をセルフ。チューニングして世界の見方を変える、のではなくて、自己を改変し肯定した上でさらに、それを「認めさせたい」=社会に切り込んでいく、という姿勢がここにはある。自己の書き換えに留まらず、共同性が持つ抑圧そのものをねじ伏せようとしているというか。
(中略)
そういう意味で、僕は大森のような表現者が日本のサブカルチャーのシーンから出てきていることに希望を感じているんだよね。どういう出自の人間だろうが、どういう性自認の人間だろうが、自分が思う自分のカタチ=「キャラクター」を追求して、それを社会に表明していいんですよ。空気なんて読まなくていいし、覆いかぶさってくる冷笑やマウントは破り捨てればいい。大森のような人も出てきているから、サブカルチャーにもまだ可能性はあると僕は思えているんです。

TVOD、2020『ポスト・サブカル焼け跡派』百万年書房 p234-236

ただ一方で、じゃあ大森靖子以降に、こういう表現がサブカルチャーにおいて広がっていったかというと、微妙であることもまた事実なわけです。「可愛いまま子育てして何が悪い」「全てを犠牲にする美徳なんて今すぐ終われ」と歌っても、相変わらず世の中では「アイドルは隠さなきゃいけないらしい!」という作品が人気を得るわけで。

さらに言えば、このような、サブカルチャーとフェミニズム的エンパワーメントが融合しうる環境というのは、女性のサブカルチャーでは成立しうるけど、じゃあ、それに対応する男性のサブカルチャーがあるかといえば、未だに「オトコノコの(被害者としての)自意識」から抜け出せずにいるように、思うわけです。

言葉としては「有害な男らしさ」のようなものがあるけれど、それをサブカルチャーの領域にまで落とし込めたものはなかなかない。

ただ、その限界を認めた上で、やっぱり大森靖子氏はサブカルチャーの可能性を切り拓いたし、さらに言えば、大森氏や、そこから派生する女性サブカルチャーに影響された表現者から、限界を突き破る表現が生まれうるのではないかとー自分がファンだから贔屓目に見るというのもあるかもしれませんがー思ったりしました。

最後に

こういう講演、自分が東京に居た時はロフトプラスワンとかに行って聞いてたりしたんですけど、地元に戻ってきてからはほぼ縁がなかったので、とても楽しかったです。

あと、講演のあとの交流会で「批評というものへの魅力を感じられなくなっている」というテーマの話とかもされていて、それもとても興味深かったので、また自分で考えて、記事にしてみたいと、思ったり。

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あままこ(天原誠)
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