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なぜ私は福島の原発が爆発するさなか東京へ戻ったのか
2011年3月11日金曜日14時46分
卒業式を間近に控えた大学4年の私は実家のある三重県で運転免許更新のため免許センターに来ていた。
「ん?ゆれている?」
カラダを揺らしながら講習をする先生は全く気がついていなかった模様。
だけど講習生はその揺れに気がついて、
「先生、地震です」その直後、東京の友達から、「みんな大丈夫?」というメールが届いて、コレは何かただ事ではないことが起こったのではないかと感じた。
帰宅してTVをつけるとそれはそれは目を疑う光景。地震、津波、東京の帰宅困難者。そして福島原発の事故。
私は当時原発に関する知識はあまりなかったのだけれど、エンジニアの父が、「これはとんでもないことになる」と言っていて、枝野さんの会見の度に飛び起きてテレビを見ていた。
とにかく私は何かできることはないかと考えていた。20年前の阪神淡路大震災の時、私は物心付く前の小学1年生。
でも今は数週間後には社会人となるれっきとした大人だ。
そうこうしている間にはじめの原発の水素爆発が起きた。
同じ頃、私は、NHKが24時間放送していた安否情報を流す応援を募集していることを知った。応募したら、即日曜日の夕方からでも来てくれと言われた。
日曜日の新幹線で東京へ帰ることを伝えると親は猛反対した。
また爆発が起きたら、東京の方も安全じゃない。
正直原発の深刻さはよくわかっていなかった。それよりも、津波で被害を受け、今も助けを待っている人がいる中、ただただテレビを見ているだけという気分にはなれなかった。
私は親の反対をを押し切って、地震から2日後の日曜日に東京へ戻った。
品川へ着き、その足で渋谷の放送センターへ向かった。
NHKでの仕事は、電話でかかってくる安否情報を受け、対応するというものだった。全部で20人位集まっていた。殆どが、被災地以外からの入電で、「南三陸町の〇〇、無事ならば〜まで連絡を」というような内容だった。
放送時間には限りがあったので、逆に被災地からの貴重な入電は優先放送をすることになった。
「陸前高田の〇〇です。家族皆無事」このような電話をかけてくる人たちの心情はいかばかりかと電話を受けているだけで涙が出た。
言わずもがな私語が出来るような雰囲気もなく、鳴り止まない電話をひたすら取り続けた。不思議と全く疲れを感じなかった。1件1件の電話が、大切な人に送るメッセージだと思うと、ものすごく重要な仕事を任されていると感じていた。
日曜日から、金曜日まで毎日NHKへ行き、電話を受けた。皆が取った電話の中から実際に放送へ出すテロップへの打ち込み作業まで任せられた。緊急報道体制時のNHKは猫の手も借りたい状況なのだなと思った。
一週間もすると入電数はかなり減ったので、私達はお役御免となった。私が受けた電話が、一体何人の人の助けになったのかは全くわからなかったが、「なにかできることがしたい」という気持ちを拾ってくれたNHKには感謝した。
なぜ私は福島の原発が爆発するさなか東京へ戻ったのか
理由は、被災地で苦しんでいる人の力になりたかった、ではない。
表面的な理由はそうかもしれないけれど、そんな綺麗な言葉だけで私は動いたわけではない。
理由は、今、動かないと後で絶対に後悔すると思ったからだ。
私は「動きたい」と思った時に「動かない」のが一番苦手だ。
特に、「動けたはずなのに動かなかった」時はまず自分を責めてしまう。
被災地の人のためではない。自分のために東京へ戻ったのだ。
社会の役に立ちたい。世のため人のため。
そうした「想い」は昔から強い方だと思っていたし、今もそうだ。
けれど、それは突き詰めていくと、結局は自分がただそうしたいから。
シンプルすぎるけれど、それが「わたし」だから。
5年という節目に「書く」ことによってあの日と自分を振り返るこのnoteという場があったことは良かったと思う。
最後に、東日本大震災から丸5年。震災で被害に合われた方のご冥福をお祈りするとともに、被災者の皆様が、ご自分を大切に、前を向いていけるそんな日本になればいいと切に願います。
lica