思考停止人の方が大多数なのではと思った話
最近良く聞く「思考停止」って言葉。
この言葉が顕在化してくるまでは、自分ってなんて考える力がない人間なんだろうと自己嫌悪に陥ることがほんとーーに多かった。
考える力って要は、「自分で決める力」のこと。
そして、自分で決める力が無いのは、今まで親が私の代わりに決めてくれていたからだとずっと思ってた。自分の環境が特別だからなんだと。でも違うなって最近思うことのほうが多い。
親によると、私は、言葉を話し始める頃には、既になんでも自分でできたらしい。言われたことには素直に「分かった」と言って、だいたい問題なくこなせたという。手のかからない子だったと、今でもよく言われる。
そんな素直さもあってか、物心つく頃には中学受験をすることが決まっていて、(今でこそ当たり前だけど当時はクラスに一人いるかいないかだった)目標を与えられると、がむしゃらに頑張れる性格だった。
受験で決まった中高一貫の学校は、自宅から片道2時間かかる場所にあって、まず、通うということに必死にならなきゃいけなかった。
中2の時には親の仕事の都合でアメリカに転校し、2年で元いた中高一貫の高等部へ戻ってからは、受験が中心の学校生活。
実質一年の浪人生活を経て都内の私大に入学、大学2年からの留学が必須だったので、1年生の時には留学のための勉強、2年の夏から1年間アメリカに交換留学をして。
帰国した3年生の夏には、周りは就活一色になっていた。足掛け1年以上をかけ、みっちり「就活」とやらをして、その後5年務める会社の内定が決まったのは大学4年の9月。
新卒で入社した会社はガチガチの日本企業で、頑張っても昇進できる時期は決して早まらないけど、ただ、もくもくと頑張る。それだけ。
考える時間なんてなかった。物理的に時間がなかったのではなく。考えようとしたことがなった。考えようとしても、めまぐるしくやってくる出来事をこなしていくことにそれなりの「やっている感」を感じられていたので、真剣に考える必要がなかったんだと思う。
私の経歴は、一見特別なように見える部分もあるかもしれないけど、
実際自分ではそんなに考えていないし、環境に流されているだけです。
これが、言語化されてきた、「思考停止」だと気が付いたのはホントに最近。
親が教育熱心だったから
学生という身分に甘えきっていたから
食うのに困ったことがないから
不安に思うことがあっても、周りの「すごいね。よくやってるね」という声に安心させてもらっていたから
これまで結構、自分ってこんな理由で考えることをやめているなんて最悪とかおもってたんだけど、実質的には、今日本人の大多数がこういう生活をしてるんじゃないか?
言語化されるってことは、自分だけだと思っていた今までの環境がマジョリティだったってことなんじゃ?
今の働く環境に「やっている感」を感じられなくなった時に、自分にとっての目標設定だったり、次々やってくる何かが重要だったんだなあということに初めて気が付きました。
自分で決めるって、すんごいパワーのいることだけど、遅いかもしれないけど、明日より、今日のほうがはやいんだから、
もうちょっとあがいて考えてみようと思う。
会社を辞めようと思ったのも、その第1歩。
社会人は、「思考停止」を続けていくには長すぎるよ・・