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【1/13更新】Twitter小説「桜の花びらを踏みしめて」のまとめ
【説明】Twitter連載小説「桜の花びらを踏みしめて」にてツイート投稿済みのものをまとめて順次アップしていきます。
※Twitterに投稿したものから若干書き直している部分があります。
【ここより本編のはじまりです】
1
父祐一の家はいつも通り綺麗に片付いていた。まるで永遠の旅立ちをおのずから知っていたかのようだった。
「いつも通り綺麗だね。お義父さんらしいよね」
芽愛も同じようなことを思っていたようだ。
紘人は芽愛を見つめてうなずいた。
芽愛の胸のあたりケープが揺れた。
「あっ」といって芽愛はケープの中を覗くと、
「いや、寝てる」といってケープの上から望愛の背中を撫でた。
ベランダの窓を開けるとふわりとカーテンが舞った。
テーブルには見覚えのあるクロスが椅子四脚と同じ数だけ敷いてあった。
「いつか紘人の家に持っていって使うといい」
望愛と一緒に初めて実家を訪れたとき父はそういっていたことを思い出した。
このテーブルがなくなったらどこで食事をするつもりなのかと訊き返すと、黙ってテレビの前にある小さなガラステーブルを指さした。
「俺にはあれで十分だ」
電話台の上に小さな額に入った絵が一枚とその隣には何も書き込みのないカレンダーが掛けられてあった。
キッチンを遠巻きに見ても皿一枚見当たらなかった。
2
祐一は極めて綺麗好きで几帳面な男であった。紘人の心の中にいる祐一はいつも家事に明け暮れていた。
会社で経理を担当していた祐一はほぼ毎日きっかり十八時半には家に帰ってきた。軽くシャワーを浴びると部屋着に着替えて朝の洗濯物を畳んで晩御飯の支度に取り掛かった。それと並行して洗濯機を回し、それらが一段落すると掃除を始めた。
紘人がいようがいまいが関係なく部屋に入って掃除機をかけたり、はたきをかけたり、本を本棚に戻したりした。何度かいないときは部屋に入らないでくれと怒鳴ったこともあったが、祐一は聞かなかった。いまから思うと、それが紘人にとってのささやかな反抗期だった。
紘人が結婚して家を出てしばらくすると、祐一は近所の畑を借りて家庭菜園を始めた。一人では食べきれないからと家に野菜を取りに来てくれと電話があった。それは祐一にとってたまに息子の顔を見るよい口実になっていた。
3
祐一が風呂上がりに心臓発作を起こして脱衣所で倒れたのが、ちょうど半年前の十一月だった。幸いしばらくして意識を取り戻した祐一は自力で電話をかけて救急車を呼んだ。
病院から電話があって紘人が夜中に駆けつけると、頭に白いネットを被った父がベッドに横たわっていた。紘人を見るとバツが悪そうに苦笑いした。
紘人はいましがた医師から聞いた説明をひととおり話した。
おそらく同じ説明を受けたのだろう。祐一は黙ってすべてを聞き終えると二回小さくうなずいた。
4
「ところでいつ生まれる」
「予定日は一月末だよ」
「そうかニューイヤーズベイビーだな」といって祐一はにんまり笑った。
それから、もしも自分に何かあったらと前置きをして通帳の置き場所について話し始めた。連絡先リストも作っておくようにするといった。
紘人がああわかったとうなずくと、祐一は手帳にメモするようにいった。
紘人はいわれたとおりに手帳に通帳の置き場所を書き記した。
「そこに他にも大事なものを入れておくから、何かあったら、真っ先にそこを見てくれ」と祐一はいった。
たしかにあのとき聞いていなければ自力で見つけ出すのは難しかっただろう。
洋服ダンスを開けたコートの下にあるシューズケースの中に三冊の銀行通帳と生命保険の証書が入っていた。
5
今日あらためて部屋を訪れて紘人は父の遺したものを見渡した。
そこには必要以上のものを置かないよう努めてきた父のつつましさが見て取れた。
とはいえ、冷蔵庫や食器棚といった大物は処分せざるをえない。それ以外に選択肢がないとはわかっていても、紘人には気が重たかった。
かつて紘人が使っていた部屋は相変わらずがらんとしていた。部屋の隅に扇風機と電気ストーブが置いてある以外は、自分が出て行ったときとほとんど何も変わっていないように見えた。
もっとこじんまりしたところへ引っ越そうかと思うと父がいっていたことを思い出した。できれば田舎に行って本格的に野菜づくりをしたいといっていた。
6
部屋にはまだ少し自分の物が残っていた。
卒業文集やアルバム、お菓子のおまけに付いてきた小さなフィギュアが本棚のそこかしこに散らばっていた。
小学校のときの卒業文集を手に取ってみた。自分のページを開いて見るまで何を書いたか思い出せなかったが、読み始めるとすぐに記憶はよみがえった。イラストを描いたり、アニメーションに関わる仕事がしたいと書かれてあった。そういえばもうかれこれ十年近くは絵を描いていないのではないか。
実は、本当になりたかったのはマンガ家だった。六年生のときの同じクラスにとびきりマンガを上手に描くクラスメイトがいて、紘人の絵をみんなの前でそいつからヘタクソだとこき下ろされて笑われた。だから卒業文集には本当のことが書けなかったのだ。
7
「紘人、絵うまいもんね」
文集を一緒にのぞき込んでいた芽愛がいった。
「俺の絵なんて見せたことあったっけ」
「ほら、結婚式のときのウエルカムボード。あれ、うちの父と母も褒めてたよ」
「ああ」
そういえばそんなこともあった。結婚式場の入り口に何もないのは寂しいのではないかという話になり、前日に色鉛筆と水彩絵の具を使ってウエルカムボードを作った。家にあったクマのぬいぐるみを描いたことをかろうじて憶えていた。
8
他の部屋を見て回った。父が遺していったそのほとんどの物を自分が始末しなければならないと思うとそれだけでやはり気が滅入った。
父が寝室兼書斎として使っていた和室に小机があった。机の上にはノートパソコンが一台と古びた国語辞典と英和辞典が二冊とペン立てが置いてあった。
引き出しを開けるとメモ帳やノートが入っていた。ノートを手に取って開いた。小さく角ばった文字が真っすぐ並んでいた。
9
学校の名札、ノート、道具箱、水筒、何でも最初に油性ペンで名前を書いてもらうのはこの字だった。
さすがに小学校高学年になると、父は自分で書いてみたらどうだといったが、失敗したくないからと紘人がいうと小さく笑って何もいわず書いてくれた。
ふと最後に名前を書いてもらったのはいつだったろうかと思い返したが、たしかな記憶はなかった。
父のノートにはやることリストのようなメモ書きが多かった。いくつか格言めいた気づきが記されていた。判読できない文字はなく、ここにも父の几帳面さはよく表れていた。
10
紘人は引き出しの中にあったノートと手帳の束をノートパソコンの上に乗せた。少し迷ってからその上に辞書を置いた。辞書は二冊とも小口が茶色く変色していた。
リビングの方から望愛の泣き声が聞こえてきた。
紘人は何か持ち運ぶのにちょうどよい箱はないかと周囲を見渡したが何もなかった。小机ごと持って帰りたかったが、どのみち置き場所に困ることは目に見えていた。それに、小机を抱えて電車に乗るわけにもいかないだろう。
11
和室を出ようとパソコンを持ち上げてたとき、背中から携帯の着信音が聞こえてきた。
紘人は急いで背中からリュックを下ろすとスマートフォンを取り出した。鳴っていたのは父のスマートフォンだった。
画面には番号が表示されていた。
「もしもし、あの……」といって、父の携帯です、というより早く、
「ひろくんか」
しゃがれた男の声だった。
紘人は、はいとだけ答えて黙っていると、
「篠原のこと聞いたから」といったきり男の言葉は途切れた。
12
相手からの続きを待つ間、紘人は声の主について考えを巡らせてみた。父しか使わない呼び名を知っているということは、遠い親戚の誰かだろうか。
「突然ごめんな、俺のことなんか覚えてへんわな」男の声に親しみが加わった。
「アリシマといいます」と今度は急に改まっていった。
アリシマと名乗る男は、祐一の大学時代からの友人だった。
アリシマの話によると、父とは大学では何度か飲みに行ったことがあるという程度の仲だった。大学卒業してから七年後にアリシマが父の会社に転職してきて再会した。
13
「篠原と違ってな、俺はふらふらしてんのよ」
アリシマは一方的に話し続けた。最初のうちは、紘人も適当に相槌を打っていたが、それもタイミングが難しくなってきたので止めた。
とうに望愛の泣き声は聞こえなくなっていた。静かな和室にアリシマの声だけが携帯から響いていた。
アリシマの話は父との思い出話から次第にお悔やみの言葉に変わりつつあった。
「酒もタバコもやらなかったのになあ、俺なんかよりよっぽど」といったところで唐突に言葉が途切れた。
紘人は、父の家で遺品の整理をしていることをアリシマに告げた。
「いやあ、実はな、いま篠原の家の近くまで来てるんよ」
14
聞けば、アリシマは家のすぐ近くのコンビニにいるのだという。
「ちょうどよかった。いまからすぐ行くよ」そういうと紘人の返事を待たずに電話はプツリと切れた。
アリシマはかなり大柄な身体つきをしていた。背丈は紘人とさして変わらならないが、分厚い胸板の下に丸い腹がせり出していた。黒いシャツをはおり、袖は肘まで捲り上げていた。濃いインディゴのジーンズを履いていた。全体的に黒っぽい姿は、アリシマの体格と相まって威圧感があった。
「いやあ、ホンマちょうどよかった」そういって後ろポケットからミニタオルを取り出すと額の汗を拭きとった。
15
紘人が妻と娘を紹介すると、アリシマは顔をクシャクシャにしてオーと高い声で望愛に笑いかけた。浅黒い顔に白い歯が浮いた。
アリシマの顔に刻まれた皺が父とは同年代であることを物語っていた。髪の毛は黒く艶やかだった。かすかにタバコの臭いがした。
「そういや篠原んちで何回か迷惑かけたんよな。ひろくんもまだ小さくて四、五歳とかやったかな。ほら俺がトイレ独り占めしちゃってさ」
その言葉で不意に紘人の記憶がよみがえった。
16
夜中にトイレに起きたときのことだった。真っ暗な廊下に細い灯りが見えた。
幼い紘人にとって一番の恐怖は夜の暗闇だった。たとえトイレから一筋の光が差し込んでいるだけでも心を落ち着けるには十分だった。
きっと父が消し忘れたに違いない。トイレの扉をこんな風にたとえ少しでも開けて用を足すようなことを父は決してしない。
だが、近づくにつれ何かの異変を紘人は感じ始めてもいた。
明確に何かを感じ取ったわけではなかったが、そのわずかに開かれた扉に妙な違和感があった。恐る恐る扉のノブに手をかけた。中をそっと見ると予感は的中した。
17
父の二倍はあろうかという巨体が便器を抱えるようにしてうずくまっていた。
紘人はさっとノブから手を放すと父の寝ている和室へと駆け込んだ。
父の名前を叫ぼうとしたが声にならなかった。代わりに蚊の鳴くような細長い悲鳴が漏れていた。
紘人が和室に飛び込むと同時に布団から跳ね起きた祐一は「なんだ」というや部屋を飛び出した。
そしてリビングにもぬけの殻となったソファーと毛布を見るとすべてを察した。
「おいアリシマ」祐一はそう叫ぶとトイレの扉を引きちぎらんばかりの勢いで開いた。ああともううともつかない小さなうめき声が小さく聞こえた。
祐一は中へ入るとおーいと呼びかけた。べしべしと身体をはたく鈍い音が聞こえてきた。
18
紘人は小便に起きたのも忘れていまや大きく開け放たれた扉をぼんやりと眺めていた。
しばらくすると黒々とした塊がトイレから吐き出されるように飛び出してきた。かと思うと廊下の床にべちゃっと這いつくばった。
「ひろくん、トイレ」
父の声で我に返った紘人は中に入って用を足した。床にじんわりとした湿り気を帯びたぬくもりを感じながら。
19
「ああ、あのときの」紘人はつぶやいた。
「その、ちょうど何というか、個人的にいろいろとな、抱えてたんよな」まるでその頃のことを懐かしむような口ぶりでアリシマはいった。
「ところで、ひろくんもお酒はダメなんや」
「いいえ」アリシマの断定的な問いに思わずムッとして紘人は答えた。
「へえ、じゃあこのあとどうですか?」アリシマは目をパッと見開いていった。
「えっと」といって紘人が目を合わせると、芽愛は目だけで小さくうなずいた。
「あの、父の荷物を家に持って帰りたいので」と紘人がいうと、
「よかったら車で送るよ」とアリシマはいった。
20
アリシマの白いハイエースは内装に手が込んでいた。
「キャンプが趣味でな」とアリシマがいったことに紘人はなるほどとうなずいた。
後方部に座席はなく、木の板が載せられてフラットになっていた。ベッドとして使えるほどのスペースがしつらえてあった。そこへ父のパソコンと辞書類を置いた。車で送ってもらえるのなら小机を持って帰ることもできたのかと紘人は今更ながら思った。
車内にタバコの臭いはなかった。代わりに芳香剤のキンモクセイの香りが充満していた。紘人が芽愛に微笑んだ。芽愛も微笑むと望愛の頭をケープの上から撫でた。
紘人と芽愛は運転席のすぐ後ろのシートに座った。
21
紘人がアリシマに家の住所を伝えると、ああと答えながらしばらく上を向いていたが、念のためといってカーナビをセットした。電子音の後に目的地までおよそ二十分ですとカーナビが答えた。
車の中でもアリシマの話は続いた。大学時代の父のこと、紘人がまだ幼かった頃のことをバラバラと思いつくままに話した。
「ここの次の信号を右に曲がったらすぐ近くです」紘人がいうとアリシマは右へ車線変更した。
次の信号で右折レーンに入ると、ウインカーを出してサイドブレーキを引いて後ろを振り向いた。
「今晩は、ちょっとお父さん貸してな」
アリシマはそういうと小さく手を振りながら目尻に皺を寄せた。
22
マンションに着いて荷物を部屋に運び入れてから車に戻ると紘人は助手席に座った。芽愛と望愛に手を振って見送られながらハイエースは出発した。
二人きりになるとアリシマは急に無口になった。ハイエースの走る音に埋もれてニルヴァーナのオール・アポロジーズが聴こえてきた。MTVアンプラグドのライブだった。マンションのほど近くにある国道からすぐに高速道路へ入った。
何か話題はないかと紘人が考えていると、
「もうすぐそこやから」とアリシマがいった。
紘人はハイとだけ答えると口をつぐんだ。
23
車を運転しない紘人には車がどこに向かっているのかよくわからなかった。フロントガラスから見える青い看板を目で追いかけていた。間もなくして車は埼玉へ入った。
アリシマのいった通り、高速を下りてから十分も経たないうちに、車はハザードランプを点けてマンションらしき建物の前で一旦停止した。アリシマは、一階ピロティの駐車場へハイエースを頭から突っ込んで入れるとサイドブレーキを引いた。
アリシマはちょっと待っててなといい残すと車を降りていった。ハザードランプが点けっぱなしになっているのが紘人には気になった。
24
アリシマはすぐに戻ってきた。片手に小さなウエストポーチと一箱のタバコを持っていた。ドアを開けるとハザードランプを消してエンジンを止めると、焼鳥屋でいい? と訊いた。紘人はええとうなずいた。
駐車場は三方をコンクリートの打ちっ放しに囲まれていた。天井は低くハイエースのルーフと二十センチくらいしか空いていなかった。
バタンと車のドアを閉める音が大きく響いた。
焼鳥屋は駅前にあった。
「ここやと帰りも楽やろ」そういってアリシマが指差す先に南浦和の駅があった。
25
焼鳥屋の中に入ると、時間が早いからなのか、ひとりも客はいなかった。
「よお毎度」とアリシマが厨房の方へ向かって声をかけると、
「おお、シマちゃんお久しぶり、いらっしゃい」と親しげな男性の声が返ってきた。
アリシマは一番奥に進むとテーブルにウエストポーチを置いて、手前にあった椅子を引いて紘人に座るよう促した。
アリシマはカウンター席の方へ行くとガラスのショーケースからビール瓶とグラスを二つ持って戻ってきた。
「ビールでええか」と聞きながら、自分に近いグラスにビールを注いだ。
紘人は、ええはいと答えてグラスを持った。本当はハイボールが飲みたかったのだが。
26
アリシマは紘人とグラスを合わせるとビールを一口飲んで席を立った。店の奥にある厨房に向かって一言二言いってすぐ戻ってきた。
「ひろくんとこうして飲むなんてなあ」ポツリとアリシマがつぶやいてから、
「篠原は飲めんかった」といい足した。
「はい、父は下戸でした」
紘人は大学生になってもほとんどアルコールを口にしたことがなかった。父に飲めないものが自分に飲めるわけがないと思い込んでいた。
27
しばらくするとキュウリとトマトの入ったボウルとキムチが運ばれてきた。
「あと串を五本たのんだから他に食べたいもんあったら適当にいってな」といった後、納豆以外な、とアリシマは付け足した。
「ひろくんはいま何してんの?」
「ITエンジニアです」
「そっか、プログラミングとか?」といってアリシマは肩をすぼめて机をタイプする手まねをした。
「ええ、それもやります」アリシマのジェスチャーに小さく笑って紘人は答えた。
「ふうん」と口を尖らせてアリシマは紘人と自分のグラスにビールを注いだ。
アリシマはグラスを一気に飲み干すと立ち上がり、二本目の瓶ビールを持って帰ってきた。
「あの、僕ハイボールにします」
「ああ、ええよ」といってアリシマは奥に向かってハイボールひとつちょうだいと叫んだ。
28
「篠原がツイッターやってたの知ってるか?」アリシマがそう切り出したのは、二杯目のハイボールがテーブルに運ばれてきたときだった。
「えっ、父が?」そういうのと同時に紘人は首を横に振った。
アリシマは黙ってうなずくとスマホの画面を開いて紘人に見せた。
「ひがけん?」画面に映し出されたツイッターのアカウント名を紘人が読み上げた。
「最初はさ、ニルヴァーナとかメタリカとか投稿してるから懐かしいなと思って見始めたんやけど」
「そのう、ひろくんのお母さんの名前って」
「里実です」紘人が答えると、
「古里の里に真実の実やよなあ」と間を空けずにアリシマが続けた。
「母のこと知ってるんですか?」
アリシマは小さくうなずいた。
もちろん父の大学の同級生であるなら、母と面識があっても不思議ではなかった。
29
「もちろん、会ったことはある」
アリシマはそういうや、顎を人差し指で擦りながら、
「飲みに行ったこともあるな」といい足した。
何度か父祐一と母里実とその当時アリシマが付き合っていた彼女との四人で飲みに行ったことがあるといった。大学近くの居酒屋で祐一から里実を紹介された。サークルの先輩とかだったか。二人のぎこちない様子からアリシマは、まだ付き合って間もないのだろうと思った。
アリシマの記憶の中にある里実は大人しい女性だった。
軽く耳にかかる黒髪のショートカットに、いつも白いブラウスかベージュのカットソーにスリムなジーンズを合わせていた。いつも祐一が二口くらい飲んだビールの残りを里実が飲んでいた。
30
三十を過ぎて二度目の転職をしたアリシマは、会社の休憩室で祐一と再会した。大学卒業から九年が経っていた。そのまま休憩室で昔話に湧いた。卒業から今日にいたるまでの互いの歩みを話し、共通の知人の現在について、まるでポケットの中身をテーブルにさらけ出すようにして共有した。
ある夜、会社から一駅ほど離れた場所に位置した一軒家の居酒屋に二人はいた。
アリシマはあえて里実のことには触れずにいた。話し始めたのは祐一からだった。
「ほら、何度か飲みに行っただろ」
「ああ、覚えているよ」とアリシマがいうと、
「よかった」とほっとしたように祐一はいった。
安堵した祐一の表情を見て、アリシマの脳裏にわるい予感がさっと流れた。
春先の店内は客でごたがえしていて騒がしかった。二人の座るカウンターにだけ、静けさが満ちていた。
祐一は大学を卒業してから里実と結婚したこと、ほどなくして息子を授かったことを話した。
31
「妻はもういないんだ。いまは息子と二人きりさ」
そこで祐一の話はぷっつり途絶えた。まるでブレーカーが落ちたように時が止まった。
なんといってよいのかわからずアリシマはコップに口をつけた。だが、飲まずにすぐ離すとコップをテーブルに置いた。
「死んでしまったわけじゃない。いまもきっと彼女はこの地球上のどこかで生きている」
そういうと祐一はぎこちなく笑みを浮かべた。口の右端に八重歯がのぞいていた。アリシマは何もいわなかった。
その日は、二人して終電時間のぎりぎりまでその店にいた。
店を出ると川沿いの桜並木の道を通って駅へ向かった。
夜の闇を照らすように桜が咲きこぼれていた。風が吹くと花びらが舞った。
「わあ、きれいやなあ」アリシマは立ち止まると見上げていった。
祐一は地面に落ちた花びらをじっと見つめていた。
「いくで」とアリシマがいうと祐一が小さくうなずいた。
32
紘人はアリシマから差し出されたスマホの画面に見入っていた。
これが本当に父のツイッターなのか。
プロフィールには「1990年代の思い出についてつぶやいていきます」とだけ書かれてあった。
「もちろんそのアカウントが篠原なのか、確証なんてどこにもない」
でもな、といってアリシマはコップのビールを一口飲むと、紘人から自分のスマホを取った。
そして画面を遠ざけて眉根を寄せて見ると、親指と人差し指で画面をピンチアウトした。
「最近、老眼が出てきてな」そういいながらアリシマはスマホの画面を紘人に向けて渡した。
「そのほら、@マークから始まる何だっけ」と親指で額をトントン突きながらアリシマがいった。
「ツイッターのユーザー名ですか?」と紘人が答えた。
「ああそれや」
紘人はそれを見た瞬間はっと息を呑んだ。
33
ひがけんのユーザー名は、「@Sato3Yu1」だった。
「あのこれって母と父の名前じゃあ……」と紘人がいうと、アリシマがああといってうなずいてコップにビールを注いだ。きめの荒い泡は一瞬にしてビールに吸い込まれるように消えた。
「俺もそれにはしばらく気づかなかった」とアリシマがいった。
「アリシマさんはいつこのアカウントを見つけたんですか?」紘人は訊ねた。
「ほん最近やな。たしか数か月前やった」
アリシマはひがけんのツイッターを見つけたときのことを話し始めた。アリシマが気づいたきっかけは、九十年代の音楽についてのツイートだった。
紘人はアリシマの車の中でニルヴァーナのオール・アポロジーズが流れていたことを思い返した。父もあの曲をよく聴いていた。
「篠原ってさ、見た目はまじめだったけど、結構激しいやつを聴いてたんよ」というと、アリシマは小さく拳を突き出して頭を前後に振った。
34
「大学んときは、篠原からよくCDをダビングしてもろたんよ。ニルヴァーナ……メタリカとかな」
「父もたまに休みの日とか、家で聴いてました」と紘人がいうと、
「そっかあ、俺が聴く音楽もあのときからずっと止まったままや」とアリシマが笑った。
紘人はスマホをアリシマに返した。
アリシマはスマホの画面をスクロールしながらいった。
「九十年代の音楽についてといいながら、古いツイートを読み返すとな、すぐに本当の目的がわかった」
紘人は黙ってアリシマの続きを待った。
「このツイートは、昔のことを打ち明けている。そのう、告白なんよ……ひろくんに対する」
告白? 父から僕への告白?
「ひとつ奇妙なのがな」といってアリシマはややいい淀んだ。
それから、再び口を開いた。
「篠原が亡くなってからもツイートが続いてるんや」
35
「じゃあ、父のアカウントじゃないってことですね」と紘人がいったが、アリシマはゆっくり首を振った。
「だって」といいかけて、紘人はハッとして目を見開いた。
「予約ツイートをすれば不可能ではない」とアリシマがうなずきながらいった。
紘人は口を一文字に閉じて鼻から小さく息を吐いた。
紘人は、アリシマと別れて南浦和駅のホームにひとり立っていた。心地よい風を頬に感じながら、頭の中でゆっくりと今日の出来事を整理した。
父の家で遺品を整理していると父の携帯が鳴った。電話の主はアリシマと名乗る父の大学の同級生だった。
アリシマさんは近くまで来ているといって父の家にやって来た。一緒に家を出て、アリシマさんの車で家まで送ってもらった。家で妻と娘を下ろした。そこからアリシマさんの家まで行って、車を止めて、南浦和の駅前の焼鳥屋に二人で入った。そこで父らしきツイッターのアカウントを教えてもらった。
36
紘人はスマホの画面をタップするとツイッターを開いた。検索ウインドウに「@Sato3Yu1」と入力するとエンターキーを押した。
ユーザー名は「ひがけん」だった。柴犬のアイコンを見て、紘人はいつも祖母が連れていた犬のことを思い出した。
祖母の家は、かつては紘人も一緒に暮らしていた父の家から南に歩いて十五分くらいのところにあった。父と暮らした家は京王線沿線で、祖母の家は小田急線が近かった。そのため、互いの家の距離は近くても何となく住んでいるエリアが違うという印象があった。
紘人が物心つく前に祖父はすでに鬼籍のひととなっていた。祖母は柴犬と一緒に間口の狭い二階建ての家に住んでいた。駅から近く、小さな商店街があった。いまは駅周辺の区画整理で家もなくなり、紘人の記憶にある祖母の家の風景は跡形もなく消えてしまった。
37
紘人は、新しいツイートをいくつか読んだ。たしかにアリシマさんのいう通り、何かを伝えようとしている内容であることは見て取れた。昔あった出来事がぽつぽつと呟くようにツイートされていた。アリシマさんは、このツイートは父からの告白だといった。
だが、ツイッターという性質上、それは細切れな情報にも思えた。アリシマさんがいうような父からの告白めいたものは感じられなかった。おそらくまとめて書いたものをツイッターの制限文字数に収まるように分けて順番に投稿していったのだろうか。
帰りの電車に揺られながら、なぜ父はツイッターを始めたのだろうかと紘人は考えを巡らせた。父があてどなくツイッターを始めるわけがなかった。きっとそこには父なりの明確な目的があったはずだ。だが、それを知るには古い投稿から順に読んでみるしかない。
紘人は画面を一気に下へスクロールした。
38
紘人はプロフィールの一番下、最初のツイートを見た。たしかにそれは父からの告白だった。
君がこれを見つけて読んでいるときに、ひょっとすると僕はもうこの世にいないのかもしれない。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 4, 2022
本当は君の顔を見て、直接話すべきことだと思うが、何からどう話せばよいのか僕にはわからない。今まで何も話してこなかったこと、またこんな形でしか伝えられなくて申し訳ないと思う。
そして、そのひとつ上、二番目のツイートを読んだ。それは、娘の望愛が産まれたときに書かれたものだった。
きっと父は、望愛が産まれたのをきっかけにこれを書き始めたに違いないと紘人は思った。
まずはおめでとう。いま君は父親になった。その知らせを受け、僕が君の父親になったときのことを書き記さなければと思った。いつ君がこれを読むのかは分からない。もしかしたら、君の目に触れることはないのかもしれない。だが、そうであるなら、それはそれで構わないと思っている。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 5, 2022
半年前に父が心臓発作で倒れて病院に駆けつけたときのことを思い出した。父はベッドの上で、頭に白いネットを被っていて、バツが悪そうに苦笑いした。そのとき父は通帳の置き場所を紘人に伝えた。まるで半年後の自分の死を知っていたかのようだった。
39
紘人は父のツイートを下から上へと読み進めていった。
僕は、君(あるいは、これを読んでくれた誰か)に生命が誕生するということの尊さを知ってほしい。そのために君の誕生にまつわる話を僕は書き残さなければならないと思った。またこれまでに僕が人生において学んだことについて書き記しておきたかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 8, 2022
人生なんてまた大げさなと思ったかもしれないね。いまの僕が人生から学んだ一番伝えたいことは、あらゆる局面において人生にはそれなりにちゃんとした幸せがあるということだ。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 8, 2022
人生には、うれしいこと、楽しいこと、よかったと思えることもたくさんあるが、嫌なこと、悲しいこと、つらいことも同じくらい山ほどある。でもいまあるところから過去を振り返るといいこともわるいこともすべて同じように輝いて見えることがある。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 9, 2022
過去が輝いて見えるのは、いまが幸せであるかどうかには一切影響されない。どんなことも過去になれば分け隔てなく懐かしくなる。いいこともわるいこともすべて過去が懐かしく、ときには尊いものとなる。なぜなら、それは二度と戻ってこないものだとわかっているからだ。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 10, 2022
40
まず息子である君に謝りたい。実は、僕は君のお母さんのことについて、君に本当のことを話してはいない。そのことをずっと申し訳ないと思ってきた。だが、隠してきたわけではないということだけは信じてほしい。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 11, 2022
なぜなら、僕自身だって長い間ほとんど何も分からないままだったからだ。三十年近い歳月がたってようやく分かってきた。もちろん、まだ本当の真実を僕でさえ知らない。でも本当の意味で真実なんて誰にも分かりっこないのかもしれない。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 14, 2022
ただ、少なくとも言えることは、いまになって僕自身が納得できるような説明を君にすることができるところまでようやく漕ぎ着けることができたということだ。紛れもない真実として。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 15, 2022
41
すでに何度か話したことがあるように、僕は里実と大学のサークルで出会った。一九九一年、#ニルバーナ がネヴァーマインドをリリースしたのと同じ年だ。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 16, 2022
そのサークルとは、一風変わったところだった。文字や文章で表現できることなら何でもありで、小説のようなものから詩や短歌などあらゆる創作活動ができる場となっていた。白紙のノートを開いて即興で文章やセリフを読み上げる強者もいた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 17, 2022
とにかく音楽や楽器、映像や絵、動作などを使わず、文字や言葉だけを使うのであればあとは何でも自由。僕も里実も子どもの頃から本が好きだったから、この奇妙なサークルに吸い寄せられるようにして入った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 17, 2022
42
僕は里実を一目見てすぐ気に入った。だが、当時、僕には高校のときから付き合っていた彼女がいた。結局その子とは、大学一年の夏休みが終わると同時に別れてしまったのだけど。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 18, 2022
里実にも出会ったとき付き合っている相手がいた。実は、里実がその彼氏と歩いているのを一度だけ見たことがある。正直、その男性を見たとき、僕はあまりいい気持ちがしなかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 19, 2022
自分が思いを寄せる女性だからその相手に嫉妬をしたという単純な気持ちなんかではない。里実の彼はおそらく十歳以上は年上かと思われた。たしかに容姿は整っていて背も高く、ファッションセンスもよかった。しかし、どことなく偉そうで、いじのわるそうなタイプに見えた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 20, 2022
里実は、こちらが見ていることにも気づかないで、それまで見たこともないような満面の笑みを浮かべながら男性の腕に寄り添うようにして歩いていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 22, 2022
43
大学一年の夏に高校から付き合っていた彼女と別れてから、次はバイト先で知り合った女性と付き合った。けれども、いつも頭の中は里実のことでいっぱいだった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 23, 2022
サークルにはいろんな奴がいた。風変わりなサークルなだけに、変わり者が多かった。一番仲の良かった友だち(彼の名を仮にKとしておく)は、大学が休みになる度に海外でバックパッカーのような暮らしをしながら、東南アジアやアフリカといった国を旅していた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 24, 2022
男なら誰だってKのような生き方を羨ましいと思うだろう。Kとはそういう男だった。だが、多くの男がはそんな勇気を持っていない。僕もその一人だった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 25, 2022
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サークルでは、毎月一回だけメンバー全員の前で作品を披露する場があった。ルールはいたって単純で、メンバー全員が何かひとつ作品を提出し、みんなの前で読み上げて発表をする。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 25, 2022
その場に来られない者も、誰か代理を立てて作品を読み上げてもらうこともできるが、自分の作品は自分で発表をし、その場にいるみんなからアドバイスをもらうというのがそのサークルの習わしだった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 27, 2022
サークルでは、他人の作品を頭ごなしに否定しないというルールはあったものの、個性的な奴も多かったから、議論が白熱しすぎてあわや殴り合いに発展したこともあった。議論の最中に泣き出した女性もいた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 27, 2022
僕はそこではよく詩を披露した。詩であれば短くて済むし、いかようにでも受け取れると思った。それ故、議論の的にもなりにくいだろうというまったく浅はかな動機が僕にあった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 29, 2022
里実は、よく短編を披露した。彼女の書く短編はエッセイ風のものが多く、自身の体験から派生したものが多い印象だった。彼女の作品は、とくに女性のメンバーから人気があったように思う。発表会は、たいてい一年生や新しく加わったひとから始めて、最後に四年生が発表するという順番だった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 29, 2022
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僕は、あるときサークルの発表会で里実の身に起きていたある危険を知ることとなった。里実が三年生で僕が二年生のときのことだ。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 30, 2022
その日、いつもと里実の様子が違うことに気づいた。いつもなら発表会が始まる前に仲のいい友達の隣にいて何かを話していたりするはずが、彼女はわざと友達から離れるようにしてポツンと一人で座ってた。僕は里実の様子が気になって仕方がなかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 30, 2022
里実がその日発表した短編は、恋人から暴力を受けている女性の話だった。里実の話を聞きながら、彼女が満面の笑みを浮かべる隣にいた男の顔を僕は思い浮かべていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 30, 2022
彼女が読み上げる短編の女性は、繰り返し彼氏から乱暴を受けていた。それでも別れられない女性の心理を生々しく描いた作品だった。内容が内容だけに、彼女の話を聞いているメンバーの表情は硬く、ハンカチで口を押えている女性もいた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 31, 2022
彼女の短編を聞きながら、これはまさに彼女の身に起きていることだとすぐに思った。あの彼に対して僕が抱いた印象は、そのまま現実のものになってしまったのだと。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 1, 2022
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彼女が短編を読み終えるとその場は沈黙に包まれた。話の終わりに救いはなかった。やり場のない気まずさや怒りといった感情が僕たちを支配していた。いつもならすぐに何か意見を言い始めるメンバーさえ何も言わなかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 1, 2022
最初に口を開いたのは里実だった。みんなどうしたんですか? これはフィクションですよ、と。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 2, 2022
彼女の言葉にほぼ全員が安堵の声を漏らした。小さなざわめきが起こる中、ハハッと短く笑う男の声が聞こえた。
それから少しずつみんなにいつもの表情が戻り、感想がちらほらと出始めた。すごくリアルで生々しくて息が詰まりそうだったとか、このままでは救いがなさすぎるのでラストにもう少し希望が見える何かがほしいといった意見が上がった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 4, 2022
彼らの感想を聞きながら、これは彼女の言うように本当に作り話なのかどうかを知りたくて、僕はずっと彼女の表情を観察していた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 5, 2022
彼女は悲しんでいるように見えた。その奥にあるのは、怯えなのか怒りなのか、メンバーの言葉に反応する彼女の表情を読み取ろとしたが、それ以上は何も分からなかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 6, 2022
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その日、何とか彼女と話がしたかったが叶わなかった。実は、それまで里実とは発表会で彼女から声かけてをもらった一度を除いて、ほんの挨拶程度にしか話したことがなかった。大学構内で偶然すれ違ったときも会釈をする程度で、サークルで会って話すときも二人きりで話したことはなかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 6, 2022
彼女の周りにはいつも誰かがいた。その日も彼女の隣には友達がいた。結局、僕は彼女に話しかけることはおろか、ほとんど近づくことさえできなかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 8, 2022
それから、里実はサークルに顔を出さなくなった。発表会も欠席が続くようになり、短編の続きとも思える彼女の作品を友達が代理で読み上げた。僕は彼女が心配でならなかった。もしも本当に彼女が彼氏から暴力を受けているのであれば、すぐにでも何とかして救い出さなくてはならないと思った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 9, 2022
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僕は意を決して、もっとも信用していた友人に相談することにした。そう、海外をバックパッカーで旅する友人Kだ。彼は、高校ではラグビーをしていた。大学生になってもそのたくましさは見て取れた。暇さえあれば東南アジアやアフリカといった熱帯地域に行っていたせいか一年中肌の色は褐色だった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 11, 2022
Kは身なりにはほとんど構わないわりにはどことなく清潔感があった。ひとに好印象を与える白い歯を持っていた。僕は彼から海外で遭遇した話を聞くのが好きだった。僕がとくにお気に入りだったのは、彼がアフリカで二回もマラリアにかかったという話だ。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 11, 2022
僕が里実を心配しているということを打ち明けると、それを聞いたKは考えすぎだと言って笑った。僕が里実の彼氏を一回しか見ておらず、自分が勝手に作り上げた印象とあの短編が符合したというだけで全て鵜呑みにするなんて馬鹿げていると彼は言った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 13, 2022
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たしかに彼の言うことにも一理あると思ったが、それでも自分の中にある悪い予感は払拭しきれない。何とか真実を確かめるすべはないかと僕は思案した。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 13, 2022
Kは、俺なら彼女と話してみて、それとなく様子を探ってみると言った。それと、もしも彼女が本当に暴行を受けているのなら身体のどこかに傷とか痣なんかがあるかもしれないと彼は付け加えた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 16, 2022
第一に、彼女のようなタイプが男の暴行から逃れられないようなことはないのではないかというのがKの見立てだった。第二に、仮に彼から受けた暴行をあのような公の場で話すことはあまりに不自然だと彼は言った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 19, 2022
「いずれにしても彼女に確認してみるしかない、それ以外にしようがないねえ」そう言うとKはにんまり笑った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 19, 2022
それからいつもの音楽の話になった。
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僕とKは、音楽の好みがよく似ていた。一九九二年は、#ニルヴァーナ が音楽シーンを席巻した年だった。前年に発表した #ネヴァーマインド は文字通り #グランジ の幕明けを象徴するアルバムとなった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) March 15, 2022
当時、僕は #スラッシュメタル に傾倒していた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) April 10, 2022
グランジブームの到来をいち早くキャッチした #メタリカ がそれまでの方向性をがらりと変えた #ブラックアルバム を一九九一年リリースした。
一九九一年、深夜ラジオから #エンターサンドマン が流れてきたときの衝撃は、二十年以上が過ぎたいまも鮮明に憶えいている。DJはあえて曲名を告げなかった。粋な計らいだった。CMに入ったと見せかけて曲が始まった。イントロを聴いて僕はもしやと思い、ラジカセに齧りつくように耳を傾けた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) April 15, 2022
曲のトーンはライトであったが、ドラムのリズムとギターの響きは、もしかして #メタリカ の新曲ではないかというほのかな期待を僕にもたらした。だが歌が始まると、その期待は確信へと変わった。それは紛れもなく #ジェームズ の声だった。僕はラジオから流れてくる新しい音の風に吹かれていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) May 1, 2022
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音楽はいつも僕の人生とシンクロしていた。#メタリカ の #エンターサンドマン を初めて聴いたときに目まぐるしくこの身体を駆け巡った衝動は、大学生だった僕のエネルギーとまっすぐにつながっていった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) May 5, 2022
#メタリカ の #ブラックアルバム は賛否両論だった。たしかに #マスター・オブ・パペッツ や #…アンド・ジャスティス・フォー・オール までの流れはぷっつり途切れたアルバムだったから。#スレイヤー は、#メタリカ は死んだと言った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) May 20, 2022
僕は #メタリカ をむさぼるように聴いた。#ブラックアルバムは、まさにあのときの若者を吸い込んで巻き上げてしまう竜巻のようなものだった。#ニルヴァーナ と双璧を成して、それはあの時代が生んだ、極めて若者だけに特異的なウイルスだった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) June 8, 2022
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Kに相談して数日たったある日、里実に会うチャンスはすぐに巡ってきた。サークルのメンバーで彼女のことが話題に上がった。里実と親しくしていた友人から彼女の近況を知った。里実はほとんど毎日のようにバイトで店にいるという話を聞いて、じゃあみんなで行ってみようということになったのだ。
— ひがけん (@Sato3Yu1) June 14, 2022
里実は当時親戚が経営する居酒屋で働いていた。里実はその親戚の家に下宿して大学に通っていたのだった。居酒屋は繁華街の中心から二ブロックほど離れた少し静かな場所にあった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) June 22, 2022
里実は、サークルのみんなを見ると恥ずかしそうに笑った。里実はハッピを羽織っていた。急に大勢で押し掛けたにもかかわらず、お店の店長は、いろいろとサービスをしてくれた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) June 23, 2022
その日は酔った勢いもあって、また来ますと彼女に直接言ったのを憶えている。里実は、いつでも来てと微笑んでくれた。その笑顔と言葉にすっかり舞い上がってしまった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) June 27, 2022
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それから僕は一人で里実がいる居酒屋に通うようになった。食事をして、お酒を一杯か半分くらい飲んで帰るという程度だったが、それでも里実に一目会えるというだけで嬉しかった。お店で彼女と話すことはほとんどできなかった。たまにお店が空いているときや帰りのレジで少し話す程度だった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) June 28, 2022
里実の働く居酒屋に通ううち、僕は彼女を食事に誘おうと決心をした。その日は、断られたらどうしようという不安で食事もうまく喉を通らなかった。断られたらもうお店には来られないだろうなどと考え、お店の座席でひとり悶々としながら彼女に話しかけるタイミングを見計らっていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 1, 2022
いつものように帰りのレジで近くに誰も近くにいないときに、僕は里実を食事に誘った。お店が終わったら電話してもいい? というのが彼女からの返事だった。当時はまだ携帯電話は持っていなかった。僕は差し出された紙に家の電話番号を書いた。そして、何時になっても構わないと言ってそれを渡した。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 4, 2022
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里実から電話があったのは深夜だった。お店では話しにくいからと彼女は言った。彼女の部屋には電話がないので、彼女は公衆電話からかけてきた。彼女と電話で話すだけでも緊張した。彼女の声がぽつりぽつりと耳元に届いた。それだけで十分に私は幸せだった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 12, 2022
その日は夜も遅かったので電話はたった数分だった。それでも里実を食事に誘い出すことができた。天にも昇るような気持ちだった。僕は電話を切ってから、しばらく喜びの余韻に浸っていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 12, 2022
里実と初めて食事をした夜のことはいまでもよく憶えている。それは東日本を中心に日本各地が大雪に見舞われてから数日たった日のことだった。雪は二日ほどで降り止んだが、冷気が日本列島全体を包み込んでいて、道端のそこかしこに氷の塊が残っていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 14, 2022
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僕は大学から二駅ほど離れたところにあるスペインバルを予約した。少し洒落た店構えのわりには値段も高くないお店だった。里実は、いつもと同じ青いスリムのデニムパンツに茶色のブーツを履いていた。インナーは薄手の赤いタートルネックで上にカーキーのミリタリーコート着ていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 15, 2022
お店はとても混んでいて、僕たちはカウンターに座った。最初はとても緊張していたけど、好きな本について話していると意外に共通点が多く、好きな音楽のジャンルも僕らはよく似ていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 16, 2022
結局、その日は彼女にサークルで披露した彼から暴力を受ける女性について書いた短編のことを聞き出すことはできなかった。静かに笑みを浮かべる彼女の横顔を見ていると、そんな話をする気にはなれなかったのだ。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 19, 2022
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その日の帰り道で里実とまた次に会う約束をすることができた。路面に張った氷で滑らないようにしずしず歩きながら、僕の心はふわふわ浮かれていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 20, 2022
それから、僕は里実と定期的に会うようになった。本と音楽の話から、やがて少しずつ互いの生い立ちを話すようになった。里実は自分の故郷とそこでの家族との暮らしについて話した。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 21, 2022
里実が中学生のときにお父さんが亡くなり、お母さんと病弱な妹との三人の生活がとても窮屈になったこと、お父さんと妹と一緒に三人でよく行った図書館のことなんかを昔を懐かしむように話してくれた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 22, 2022
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いまはインターネットがあって何でもすぐに調べられるけど、昔は何かを調べるといえば図書館しかなかった。里実のお父さんは、何か困ったことがあったら図書館の本棚の間を本の背表紙を見ながら歩きなさいと言ったそうだ。そうすれば、本の方から話しかけてくれるのだと。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 25, 2022
彼女と会うようになってしばらくして、彼から暴力を受ける女性のことを書いたあの短編のことを話題にしたことがあった。あれが彼女の実体験なのかどうかが知りたかった。だが、結局何もわからなかった。例の小説について話そうとすると彼女は笑った。あんな話は忘れてくれと言わんばかりに。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 26, 2022
もちろん、彼女はおかしくて笑っているのではなかった。それ以上は触れてほしくなかったからだ。もういいからやめて、彼女の目がそう訴えていた。だから、僕はそれ以上は何も言えなかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 27, 2022
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そんなあるとき、当時付き合っていた彼女から話があるといわれた。たしか大学三年生になる前の二月だった。彼女は、他に好きな人ができたから別れてほしいといった。きっと相手は同じバイト先の男だとそのときになって気づいた。思い直すと二人が怪しいところはいくつもあった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 2, 2022
付き合っていた彼女と別れたことを僕はすぐ里実に打ち明けた。そして別れるにいたった経緯について話すうち、自然と里実への想いを口にしていた。僕の話を聞き終えると彼女も話したいことがあると言った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 3, 2022
ついに真実を知るときがきたと思ったが、彼女から聞いた話は意外にもこちらの想像とはまったく異なるものだった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 11, 2022
「彼がエイズになったみたいなの」
彼女の短編に登場した女性に暴力を振るう男のことを僕は思い出した。
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いまでこそエイズは薬が発達したおかげで死と直結した病気ではなくなった。しかし当時はエイズといえば、死を宣告されたにも等しいものだった。がんは手術をして切除すれば治るかもしれない。だが、エイズはひとたび発症したら最後、数年後には日和見感染で死にいたる病いだ。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 13, 2022
当時のエイズはがんよりも怖ろしい病気だった。いまだエイズを完治する薬はこの世に存在しない。エイズの発症を半永久的に遅らせることが可能とする薬があるだけだ。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 14, 2022
エイズはHIVウイルスに感染することで発症する病気だ。だから、里実がそのとき言ったことを正確に表現するなら、彼がエイズになったのではなく、HIV感染者になったということであるはずだ。ただ、そのとき僕にはそのような知識はなかった。あるのは、エイズ=死という概念のみだった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 16, 2022
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里実の話を聞いて、たいへんなことになったと思う一方で、自業自得という言葉が頭に浮かんだ。エイズという病気は、アメリカで広く知れ渡ったとき男性同性愛者の感染率が異様に高かったことから、男性同性愛者がかかる特別な病気という間違った認識が当初は流布されていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 17, 2022
もちろんHIVウイルスは、異性間でも感染する。主な感染原因はコンドームを着用しない性交渉によるものだ。他に注射針の使い回しや、非加熱血液製剤に紛れ込んでいたウイルスに感染してしまった血友病患者のように、薬害や医療行為によってHIVウイルスに感染してしまった人々もいる。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 18, 2022
しかし、僕のイメージの中にある里実の彼であれば、十中八九セックスによる感染に違いないと確信した。つまり彼の乱れた性生活が彼自身を破滅に追いやったのだ、そう思った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 23, 2022
次に浮かんだ疑問は、彼女は大丈夫なのかということであった。だが、感染していないかなんて面と向かっては聞けなかった。するとそれを察したのか、
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 29, 2022
「私はいまのところ大丈夫」と里実はいった。
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ほっとしたのも束の間、でもまだ分からないのだと彼女は付け加えた。HIVウイルスは感染すると数週間以内に急性の初期症状が現れる。発熱や下痢などの風邪に似た症状が一週間から十日程度続く。自分にはいまのところそうした急性症状は表れていないのだと。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 31, 2022
だが、本当に感染していないことを確かめるには三か月以上経ってから検査しないと最終的な判断はできない。さらに、里実は彼とは別れることになるだろうと僕に打ち明けた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) September 1, 2022
僕はいますぐにでも里実と付き合いたいと思った。だが、彼がHIVに感染したという事実が我々の前に重たく横たわっていた。山道を車でドライブしていたら、急に大木が道に横たわっていてそこから先に進めなくなってしまったかのようだった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) September 14, 2022
その日はそれ以上何を話したかはあまり憶えていない。だが、そこから二人は頻繁に会うようになった。二人の間にはエイズという誰にも言えない黒い秘密があって、でもそれを互いに口にすることはせず、僕らはその黒い秘密から一緒に遠ざかろうとしていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) October 7, 2022
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里実と僕は公園に行ったり、図書館に行ったりして過ごした。二人の間で話題は尽きなかった。いくら話してもいくら一緒にいても時間が足りなかった。このときの僕たちを見れば、周りはほとんど恋人のように見えただろう。だが、僕たちは手はつなぎこそしたものの、キスはしていなかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) November 7, 2022
そして(これがもっとも重要なことだったが)、僕らのどちらからもはっきりと言葉にして交際しようと決めていたわけではなかった。僕の気持ちは彼女に伝えた。彼女も彼とは別れようとしている。ただ、そこから先に進めることを怖れていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) November 8, 2022
里実と毎日のように会っていたから、僕は二人の交際について何度か切り出そうとしたが、言い出せないうちに時間だけが過ぎていった。だが、本当のことをひとつここで白状しなければなるまい。僕が怖れていたのは、彼女がもしもHIVに感染していたら、ということだった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) November 19, 2022
もしものときのことを思うと、自分からはっきりしたことを言う勇気が持てなかったのだ。かといって、もし仮に彼女がHIVに感染していたとしてもきっぱり自分から彼女との別れを言い出すこともできる自信がなかった。彼女に会えなくなるということを想像しただけでも怖ろしかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) December 13, 2022
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里実は、僕にとってかけがえのないひととなっていた。どうか彼女がHIVに感染していませんようにと願っていた。次に会ったときに彼女の口からもう大丈夫だからという報告がされるのをただじっと待っていた。悪魔の病気エイズを前に僕はすっかり怖気づいていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) December 14, 2022
だが、二人で過ごす楽しい時間はそう長く続かなかった。三月も半ばを過ぎた頃、里実との連絡がぷっつり途切れてしまった。そう、僕にとって幸せだった日々はたったの一か月で幕を閉じた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 1, 2023
もちろん、里実に会うためバイト先の居酒屋にも行った。勇気を振り絞って、彼女の叔父さんにあたる店主に里実の所在について聞いてみたが、露骨に不審がられた挙句、実家に帰ってると素っ気なく言われた。いまで言うストーカーのように思われたに違いない。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 8, 2023
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嫌な予感がした。彼女がHIVに感染してしまったのかもしれない。それで僕の前から立ち去ったのか。最悪な妄想は風船のようにどんどん膨らんでいった。絶望とはまさにこのことだと思った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 16, 2023
ところが、しばらくしてKから里実の近況を知らされた。Kの話はさらに僕を不幸のどん底へ叩き落とした。
その日、大学でKが僕を探していると友人から聞いた。話したいことがある。大学近くの喫茶店にいるからもし見かけたら僕に来てほしいということだった。僕は授業を終えたその足でKの待つ喫茶店に入った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 21, 2023
彼は喫茶店の隅っこのテーブルでナップザックを脇に置いてじっと天井を見つめたまま煙草をくゆらせていた。僕は彼の向かいに座り、アメリカンを注文すると、話があるんだって? と切り出した。うむ、彼は低く唸るように言うと、煙草をもみ消した。灰皿は吸い殻でいっぱいになっていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 21, 2023
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彼の話は、一昨日の夜、里実が例の彼と一緒にいるところをKが目撃したというものだった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 21, 2023
「たしかにお前の言うとおりかもしれない。それはもうひどい男だった」
Kが目にしたのは、気でも狂ったように怒鳴り散らす彼を前にして、涙ながらにそれをなだめようとしている里実の姿だった。Kは黙って通り過ぎることができなかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) January 22, 2023
「あのままほうっておいたらきっと彼女は殴られるに違いないと思った」
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 22, 2023
Kは、自分が里実の知り合いであることを彼に打ち明け、仲裁に入ろうとした。当然、彼の怒りの矛先はKに向けられた。彼は胸ぐらを掴むとKの顔に唾を吐きかけた。彼はかなり酔っていた。
おそらくKほどの腕っぷしがあれば彼を力づくでねじ伏せることもできたに違いなかった。次第に彼らがもみ合っているところに人だかりができ始め、最後は駆けつけた警官によって騒ぎは抑えられた。警官が帰っていくと、彼はKと里実に何か捨て台詞を吐くとひとりその場を去って行った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) February 26, 2023
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正直、ショックだった。連絡がない間に何をしているかと思えば、彼と会っていたとは。自分よりも彼を優先したのかと思うと悲しかった。そんなことは知りたくなかった。そのまま彼女と二度と会うことがなかったとしても、何も知らなければ心の傷は少しずつ癒えていったに違いなかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) March 6, 2023
しかし、Kの話を聞いて、心の傷はさらにえぐり抜かれてぽっかり大きな穴になってしまった。この穴がふさがるにはかなりの時間がかかるだろう。空気が薄くなったような息苦しさを感じた。だが、すべてが悪い話ばかりではなかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) March 8, 2023
「彼女はお前を必要としているよ」とKが言った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) March 21, 2023
もちろん、里実とのことは誰にも話していなかった。
「そう彼女が言ったのか?」僕が聞くと、彼は黙ってうなずいた。
ますます混乱した。僕はもうお手上げだというように首を横に振った。
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Kは続けた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) April 14, 2023
「俺は二人になってから、彼女を家まで送ることにした。しばらくは何も話さなかったが、彼女の口からお前の名前が出てきた。たしか篠原くんと仲がよかったよね、と俺に聞いた。そうだと俺が答えると、彼女はお前とよく会っているということを話し始めた。あらかたの話は聞いたよ」
「彼の病気のことも聞いたのか?」
— ひがけん (@Sato3Yu1) April 14, 2023
Kはうなずいた。僕はそうかとだけ言って、話の続きを待った。
「彼女は彼と別れることは決意したようだが、彼が自暴自棄になっていることを見ていられないのだそうだ」とKはぼそり呟くようにい言った。
Kの話を聞いて、僕には、どうして彼女があのような男のことを心配しているのかが分からなかった。いや、理解したくなかったという方が正しいだろう。
— ひがけん (@Sato3Yu1) April 22, 2023
「彼女は、彼がちゃんと治療を受けるのを見届けたいのだそうだ」
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僕は頭を殴れたような衝撃を受けた。自業自得だと叫び出したい気持ちを何とかこらえた。それを言ったら最後、怒りがとめどなく噴出してしまうような気がしたからだ。
— ひがけん (@Sato3Yu1) April 22, 2023
「僕はどうしたらいいと思う?」やっと口から出た言葉がそれだった。
「待つしかないな。なるようになるまで」とKは言った。
僕は深いため息をついた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) May 6, 2023
Kが煙草に火をつけた。左手で煙草を持つ右手の肘を抱えた。足を小刻み揺らせて貧乏ゆすりをしていた。その振動がテーブルに伝わってカップとソーサーがカタカタと小さな音を立てていた。
ひとりになってKから聞いた話を頭の中でゆっくり整理してみた。たしかにKの言う通り、僕には待つということ以外に何もできることはないと分かった。問題はどれほど待てばよいのかということだった。いや、いつまで待てばよいのか、分からないままでどのように待てばよいのかが問題だった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) May 10, 2023
69
元々大学にもK以外に親しい友人もあまりいなかった。大学の講義に出て、バイトに行ってほとんど一日中誰とも話をしない日々をしばらく過ごした。それはいかなる音階も色彩も存在しないような毎日だった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) May 13, 2023
Kから話を聞いた三日後にまた同じ喫茶店に呼び出された。喫茶店に入るとKの向かいに里実が座っていた。彼女に会えた喜びよりも、凍えた心が軋むように痛かった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) May 27, 2023
僕はKの隣に座って斜め向かいに座る里実の顔を見た。里実も僕を見たが、伏し目がちにほんの少し顔を上げただけだった。彼女からは絶望というメッセージ以外に何も受け取れそうになかった。ここには自分の居場所はないような気がした。
— ひがけん (@Sato3Yu1) May 27, 2023
70
「彼が病院での治療を受けることに納得したそうだ」その場にふさわしくないほどの清々しい表情をしてKが言った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) May 31, 2023
僕は一切反応を示さなかった。そんな知らせに耳を貸すことすら嫌だと思った。
「というわけでね。あとは二人で話したらいいから、俺は行くよ」そう言うと、Kは椅子から立ち上がり、ナップザックをひょいと肩に担いだ。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 17, 2023
僕はそのとき、彼が里実と僕を引き合わせてくれたことに礼を言うべきなのかもしれないということに気づいたが、素直になれなかった。どちらも何も言わないまま、彼はひとり喫茶店を出て行った。彼が出て行ったことをドアチャイムの音で聞いた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 17, 2023
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二人ともしばらく黙ったままだった。何を話したらいいのか分からなかった。僕は灰皿に残されたKの吸い殻をぼんやりと見つめていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 17, 2023
「ごめんね」小さな声だった。顔を上げると彼女は泣いていた。
僕は、うんと言ったきり、何も言えなかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 17, 2023
それから僕らは喫茶店を出て、行く当てもなく歩いた。少し行くとお寺の五重塔の隣にある桜が満開に咲きこぼれているのが見えた。桜の花びらに吸い寄せられるように僕らは公園の中に入った。
平日の昼間ということもあって、ベビーカーを押した親子連れや学生がまばらにいるだけだった。みなにまじって桜を眺めた。彼女が僕の手を握った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 17, 2023
「ウイルス検査、陰性だった」里実が言った。
その言葉と彼女の手の温もりはゆっくりと僕の凍えた心を溶かしていった。
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それからすぐに、僕は里実と正式に付き合うことにした。今度こそちゃんと交際を申し入れ、里実もそれを受け入れてくれた。里実は四年生になるとサークルを辞めた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 19, 2023
里実は親戚の家に下宿していることもあって、外泊はできなかったが、僕の部屋で晩御飯を食べたりして夜まで過ごした。
大学三年の夏にKが大学の休学を決めた。青年海外協力隊に参加するためだった。海外に派遣される二年間を休学するのだと言う。大学を卒業してから行くよりも卒業前に経験したいというのが彼の考えだった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 19, 2023
二年間であれば、彼が復学してきた頃には、僕はもう卒業して大学にはいない。Kともう大学で会うことはないのだと思うとやはり淋しかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 22, 2023
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サークルでKの送迎会をやろうということになった。大学近くのお馴染みの居酒屋にサークルメンバーが集まった。酒には強かったKもさすがにこの日はベロンベロンに酔っぱらっていた。深夜をすぎて、ひとりの後輩の手を借りて彼を下宿まで送った。そしてKの部屋で一夜を過ごした。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 23, 2023
Kは部屋に入るとすぐにシャワーを浴びに行った。彼の部屋は、お世辞にも綺麗とはいえなかった。殺風景なホテルの一室のように、ほとんど何もなかった。Kはシャワーから出ると冷蔵庫から瓶を取り出した。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 26, 2023
「お前も飲むか」僕がうなずくとKはペリエを二本取り出して一本を床に寝かせて転がしした。ゴロゴロと床が鳴った。僕の隣に座って壁に濡れた頭をくっつけた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 26, 2023
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瓶を床から拾い、スクリューを開いた。シュッという音ともに清涼感が目の前に広がった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 28, 2023
「大丈夫か?」
「ああ、シャワー浴びたら少し冷めたよ」
Kは来月から青年海外協力隊の派遣前訓練に行くことになっていた。二か月ほどの訓練を受けた後、二年間の海外派遣へと旅立つ。彼の希望通りアフリカのシエラレオネへの派遣が決まっていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) July 28, 2023
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僕は、なぜシエラレオネを選んだのかと聞いた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 2, 2023
「黙って通り過ぎることができない場所だった」
それが彼の答えだった。僕は里実と例の彼とのことを思い出した。あのときもKは黙って彼らの前を通り過ぎたりはしなかった。
Kはアフリカで見たことを話した。アフリカで目の当たりにした貧困と病気について。彼自身も二度マラリアにかかり、現地の病院で治療を受けたのだ。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 2, 2023
病院は人で溢れかえっていた。建物の外にも待っているひとの列はあった。
彼らがどんな問題を抱えてそこにいるのかはよく分からなかった。ただ、少なくとも問題を解決するスピードよりも問題が起きるスピードの方がずっと速くて、問題を抱える人を解決に導いてくれるものがほとんどまったくといっていいほど足りていないのは明らかなことだった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 2, 2023
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Kは人差し指で宙に大きな円を描いた。その円の中に世界中のすべての人類がすっぽりと収まっているとしたら、我々日本人は、ほとんど円の中心に近いところにいると言ってKは真ん中に拳を置いた。シエラレオネ人は円の端っこなのだと彼は言った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 4, 2023
「ドッジボールってあるだろ。あれと同じじゃないかってあるとき気づいた。ボールに当たりやすいのは、コートの端にいるひと、つまり貧困や病気といった災難に遭うのは円の端にいるひとたちってことなんじゃないかと思う」
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 4, 2023
日本というひとつの国として考えたときも同じだとKは言った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 4, 2023
「完全なる平等というものは存在しないのかもしれない。けれども、円の端っこにいるひとたちを少しでもこっちへおいでって円の中心へ呼ぶことはできる。それがシエラレオネに行って俺がやるべきことなんだ」
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彼の言わんとすることは分かった。だが、分かっていることとそれを実際に行動に移すこととの間には果てしない隔たりがあるように僕は思った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 12, 2023
「俺は、あのときのカートみたいになりたいんだよ」といって彼は笑った。
Kがいったあのときのカートとは、僕たち二人で行った#ニルヴァーナ の初来日講演のことだ。#クラブチッタ川崎 でのライブは、その後、日本で二度目の来日を果たせなかった彼らの伝説のライブとなった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 12, 2023
スタンディングの会場は、入ったときから異様な熱気に包まれていた。#ニルヴァーナ
Kと僕は、バーでドリンクを受け取ると、できるだけステージに近いところまで詰め寄った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 12, 2023
会場の照明が落ちて、三人がステージに登場するとステージに向かって人が押し寄せていった。Kと僕も人の波に押されるがまま前へ前へと行った。
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カートが歌い始めると一気に鳥肌が立った。彼らの轟音に突き動かされるように勝手に身体が動いた。激しいモッシュに会場が揺れた。一曲終わるごとに叫び声が上がり、曲が始まると歓声とともに会場は波打った。#Breed で僕らのボルテージは一気に頂点に達した。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 26, 2023
モッシュからダイヴへと次第に変わりつつあったそのとき、ステージの脇から光が放たれた。最初は彼らの演出かと思ったが、すぐに違うと分かった。ダイヴを試みようと人垣をよじ登ろうとした観客を警備員がライトの光を照射して警告していたのだった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 26, 2023
警備員のライトを浴びせられた観客は、執拗に照らされるライトに屈するように大人しくなった。中には、それでも人垣の上で光を逃れるようにジタバタする者もいたが、そうした観客に警備員はフラッシュのように光を瞬かせて強い警告を発した。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 26, 2023
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そうして観客を鎮めることに一定の効果を出していたライト照射の警備だったが、カートの言動で一変した。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 26, 2023
MCの途中でカートが会場にいた警備員にライトをこちらへよこすに言った。そして、ライトを手渡されたカートは、警備員に光を浴びせてこう言い放った。
「いいか、ここは俺たちの場所なんだ」
カートの言動に観客は拍手喝采し、ブラボーだのスゲえといった声援を送った。会場全体が彼という強力な味方の登場に震えていた。Kが声を上げながら拳を突き上げた。僕も同じように拳を上げた。あの日のカートの言動が、僕らの勇気の象徴になった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 26, 2023
Kが言うように、僕らはコートの真ん中にいて、そこで押し合いへし合いしながらいがみ合って生きている。だけど、本当の意味で生死に直結する恐怖と接して生きているひとたちはもっとずっと円の外側にいる。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 26, 2023
その夜、僕たちは、文字通り、朝が来るまで話し続けた。
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Kとはそれっきり会っていない。いまどこで何をしているのか、帰国してから大学に復学したのかすら知らない。彼との仲だから、日本に帰ってきたなら何らかの形で連絡をくれるだろうと思っていたが、ついにそれはなかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 26, 2023
誰しも経験のあることかもしれないが、友人を失うということは、恋人とは少し違って、いつの間に失ったのかも分からぬままに終わってしまうものだと知った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 26, 2023
僕と里実が正式に交際を始めたちょうど一年後、里実はある大手出版社に就職を決めた。ちょうどバブルが崩壊した直後だった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) August 26, 2023
そして、ちょうどその年の四月、#ニルヴァーナ の #カート・コバーン が自殺した。人気絶頂のさなかにあった彼の死は、僕に大きな衝撃と得体のしれない不安感を与えた。
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僕が就職活動をし始めた翌年になると、バブルの影響はすでに決定的なものとなっていた。就職活動は困難を極めた。大手企業はどこも一次面接すら受け付けてくれなかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) September 16, 2023
何十社と受けた中で、何とか内定を手にしたのは、社員十五名ほどのとある小さな会社だった。
当時はインターネットもまだ一般的でなければ、ITという言葉もなかった。僕が初めて就職した会社は、いわゆる通信サービスを提供する会社だった。不況の真っ只中にあって僕が通信業界に携わることができたのは、いまから思えばラッキーだったのかもしれない。
— ひがけん (@Sato3Yu1) September 16, 2023
僕が就職した当時は通信といえばインターネットではなく、パソコン通信の時代だった。電話回線を通じて自分のパソコンからクローズドなネットワーク内でメールやチャットができるといういまのインターネットの前身のような存在だった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) September 16, 2023
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パソコン通信は、いまのインターネットのように一般的なものではなく、ある限られたメンバーしか使っていなかった。いまのインターネット世界ではすでに当たり前となってしまったが、一度も会ったこともないひととコミュニケーションできるというのは当時としては画期的な出来事だった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) September 30, 2023
僕が就職したその翌年の春に里実と僕は結婚した。その翌年の夏に、君が里実のお腹の中にいることが分かった。だが、そのとき念のためと受けた血液検査で里実がHIVに感染していたことが分かった。医師から真っ先に奨められたのは、堕胎することだった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) September 30, 2023
HIVの母子感染率は、三〇パーセント以上と非常に高く、もしも生まれた子どもにもウイルスが感染していた場合、おそらく五歳までに死亡する。そんな説明を受けた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) September 30, 2023
病院の帰りに二人で公園を歩いた。公園には桜が咲いていた。風が吹くと花びらは舞い落ちた。その花びらを踏みしめて僕らは歩いた。
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僕らは悩んだ。里実は毎日のように泣いた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) October 13, 2023
実は、たった一度だけ僕は彼女をひどく傷つけてしまったことがあった。彼女が検査結果を故意に偽ったのではないかと疑ったのだ。付き合い始める前に陰性だと嘘ついたのかと彼女に言ってしまった。もちろん言ってすぐに後悔した。
彼女は蒼白の顔をしたまま何も言わなかった。それから自室に閉じこもってしまった。そのときは知らなかったのだが、当時の検査技術ではまだ十分にウイルス陽性の判定ができない場合があった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) October 13, 2023
通常であれば感染してから陽性抗体(HIVウイルスに対する抗体が体内に存在することが確認された場合、HIV陽性と判定される)を認めるまでに三か月から六か月かかると言われていたが、中には数年以上かかるようなサイレント・インフェクションというケースがあるといわれていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) October 13, 2023
いまでは検査技術が向上したこともあり、サイレント・インフェクションの存在は否定されているが、検査技術がまだ未熟だった時代では陽性抗体をうまく検出しきれないことがどうやらあったらしい。
— ひがけん (@Sato3Yu1) October 13, 2023
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その日以来、彼女は食べものをほとんど口にしなくなった。ついには会社も辞めてしまい、家に閉じこもるようになった。僕はいつも会社へ行く朝が不安だった。夜帰ると朝に作った朝ごはんがほとんど手つかずのまま冷蔵庫の中に残っていた。それを見るのがとてもつらかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) October 13, 2023
薬を飲んで治療をすることで母子感染をかなり低くおさえることができる。いまであれば、そんなことはインターネットで調べればたちどころに分かる。現在では薬の種類も増え、HIVは死ぬ病気ではなくなった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) October 13, 2023
だが、当時はまだHIVウイルス薬といえば逆転写酵素阻害剤の一種類しかなかった。それにHIV感染者が出産をするということを受け入れてくれる病院は、日本にはほとんどなかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) October 13, 2023
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ある朝、僕よりも早く里実が起きていた。彼女は台所に立っていた。料理をしていた。たまご焼きのいい匂いがした。僕の顔を見て彼女が小さく笑った。久しぶりに見た笑顔にほっとしたことを憶えている。
— ひがけん (@Sato3Yu1) November 11, 2023
「私、この子を産みたい」
彼女がフライパンをコンロから下ろして、たまご焼きを白い皿にのせた。たまご三個を使った大きさだった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) November 11, 2023
その彼女の言葉が、僕らの希望になった。そう、君に会うことが。
もちろん一筋縄ではいかなかった。僕らが子どもを産みたいと医師に伝えると病院を追い出された。ここでは対応できないのだと。それから僕は病院を探して回った。僕は彼女がHIV感染者であることを正直に打ち明け、出産を受け入れてくれる病院を探していると話した。
— ひがけん (@Sato3Yu1) November 11, 2023
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だが、HIVという言葉が出た途端、彼らの表情はさっと変わった。それからあとは話すらまともに聞いてもらえなかった。話している途中で遮られ、当院では無理ですので、お帰りくださいと言われた。感染した血液を扱うマニュアルがまだ整っていないということが理由だった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) November 17, 2023
あとから知ったことだが、血友病患者の間でHIV感染被害が起きたとき、医師の中には、感染を広げないためという理由でHIV感染した血友病患者をセックスさせないという趣旨の会を作った者がいたそうだ。
— ひがけん (@Sato3Yu1) November 17, 2023
当時は医師のような専門家でもHIVに関する知識とはそのようなものだった。世間と同様、医師たちの考えもまた偏見に満ちたものだった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) November 17, 2023
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市内はおろか隣の市に行っても、病院も助産院もずいぶん回ったが、彼女の出産を受け入れてくれるところはどこもなかった。そんな絶望的な中、やっと話をまともに聞いてくれたところが一軒だけあった。家から車で四十五分ほど南にいったところにその助産院はあった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) December 2, 2023
入り口がどこかも分からないほど木々が生い茂っていた。黄色い小さな花が、まるで僕らを出迎えているかのように咲き乱れていた。季節はすっかり秋になっていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) December 2, 2023
助産師さんは初老の女性だった。彼女のお腹を服の上から触った。最初の病院から追い出されて以来、彼女の身体に触れたのは、その助産師さんが初めてだった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) December 2, 2023
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「出産をするときは大量の出血を伴います。そのとき赤ちゃんが病気に感染してしまう可能性があります」
— ひがけん (@Sato3Yu1) December 2, 2023
助産師さんが、とても落ち着いて説明してくれたおかげで、僕らはこれから起きることをひとつずつ確認することができた。
でも、本当の意味では自分たちがどんなことに挑もうとしているのか分かっていなかったのだと思う。
— ひがけん (@Sato3Yu1) December 2, 2023
親になったいまの君なら分かるだろう。
自分たちの初めての出産だ。それだけでも何をどうしたらいいのかも分からなくて戸惑って当たり前なのだから。
そわそわとして落ち着かない。とくに男には居場所がない。出産については何の役にも立たないからね。
— ひがけん (@Sato3Yu1) December 2, 2023
ただでさえ落ち着かないのに、僕たちの初出産は普通ではなかった。けれども僕らにとってはどこが普通とは違うのかは分からなかった。とにかく必死だったから。
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君が生まれた日のことは忘れられない。それはピンと水のように透き通った空の広がる冬の日。夕方に始まった陣痛は深夜になっても収まらなかった。君が生まれてきたのは、ほとんど夜明け前だった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) December 16, 2023
元気な産声を上げた君は、へその緒がお母さんとつながっていた。
みんな無事に生まれてきたことに安心してほっとして皆が笑う中、君だけが目をつぶって大声で泣いていた。
— ひがけん (@Sato3Yu1) December 16, 2023
君が生まれた朝靄の中を僕はひとり歩いて家に帰った。澄み切った青空と吐く息の白さが祝福してくれているようだった。僕は目の前に広がるすべてのものに感謝しながら歩いた。
歩きながら、社会人になって初めて手にした携帯電話で君が無事に生まれたことを報告した。みんなからのお祝いの言葉を聞きながら、まだ終わっていないのだと考えていた。君がウイルスに感染していないことを知るまでは。
— ひがけん (@Sato3Yu1) December 16, 2023
90
里実の病気のことは誰にも知らせていなかった。誰にも言えなかった。未来について語る言葉も勇気も僕らにはなかった。
— ひがけん (@Sato3Yu1) December 30, 2023
君が生まれて五日後に里実と君は一緒に退院した。助産院を出ると空に小さな雪が舞っていた。
二人が退院した日に僕は君の出生届を出した。
子どもの頃に話したことがあった通り、君の名を決めたのは、里実だった。僕がいくつか考えた名前の中でヒロという響きが気に入ったと彼女が言った。
— ひがけん (@Sato3Yu1) December 30, 2023
紘という字には太い綱という意味があって、そこから世界をつなぐという意味で使われるのだそうだ。そこで紘に人を付けてはどうかと僕が言った。
世界をつなぐ人、それが君の名だ。でも、それは僕たちが考えていたことだから、君は自分の思うように生きなさい。誰にも気兼ねすることなく。健康で生き続けてくれたら、それだけでいい。君が生まれたときに僕らが願っていたように。
— ひがけん (@Sato3Yu1) December 30, 2023
<つづく>
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