【1/13更新】Twitter小説「桜の花びらを踏みしめて」のまとめ
【説明】Twitter連載小説「桜の花びらを踏みしめて」にてツイート投稿済みのものをまとめて順次アップしていきます。
※Twitterに投稿したものから若干書き直している部分があります。
【ここより本編のはじまりです】
1
父祐一の家はいつも通り綺麗に片付いていた。まるで永遠の旅立ちをおのずから知っていたかのようだった。
「いつも通り綺麗だね。お義父さんらしいよね」
芽愛も同じようなことを思っていたようだ。
紘人は芽愛を見つめてうなずいた。
芽愛の胸のあたりケープが揺れた。
「あっ」といって芽愛はケープの中を覗くと、
「いや、寝てる」といってケープの上から望愛の背中を撫でた。
ベランダの窓を開けるとふわりとカーテンが舞った。
テーブルには見覚えのあるクロスが椅子四脚と同じ数だけ敷いてあった。
「いつか紘人の家に持っていって使うといい」
望愛と一緒に初めて実家を訪れたとき父はそういっていたことを思い出した。
このテーブルがなくなったらどこで食事をするつもりなのかと訊き返すと、黙ってテレビの前にある小さなガラステーブルを指さした。
「俺にはあれで十分だ」
電話台の上に小さな額に入った絵が一枚とその隣には何も書き込みのないカレンダーが掛けられてあった。
キッチンを遠巻きに見ても皿一枚見当たらなかった。
2
祐一は極めて綺麗好きで几帳面な男であった。紘人の心の中にいる祐一はいつも家事に明け暮れていた。
会社で経理を担当していた祐一はほぼ毎日きっかり十八時半には家に帰ってきた。軽くシャワーを浴びると部屋着に着替えて朝の洗濯物を畳んで晩御飯の支度に取り掛かった。それと並行して洗濯機を回し、それらが一段落すると掃除を始めた。
紘人がいようがいまいが関係なく部屋に入って掃除機をかけたり、はたきをかけたり、本を本棚に戻したりした。何度かいないときは部屋に入らないでくれと怒鳴ったこともあったが、祐一は聞かなかった。いまから思うと、それが紘人にとってのささやかな反抗期だった。
紘人が結婚して家を出てしばらくすると、祐一は近所の畑を借りて家庭菜園を始めた。一人では食べきれないからと家に野菜を取りに来てくれと電話があった。それは祐一にとってたまに息子の顔を見るよい口実になっていた。
3
祐一が風呂上がりに心臓発作を起こして脱衣所で倒れたのが、ちょうど半年前の十一月だった。幸いしばらくして意識を取り戻した祐一は自力で電話をかけて救急車を呼んだ。
病院から電話があって紘人が夜中に駆けつけると、頭に白いネットを被った父がベッドに横たわっていた。紘人を見るとバツが悪そうに苦笑いした。
紘人はいましがた医師から聞いた説明をひととおり話した。
おそらく同じ説明を受けたのだろう。祐一は黙ってすべてを聞き終えると二回小さくうなずいた。
4
「ところでいつ生まれる」
「予定日は一月末だよ」
「そうかニューイヤーズベイビーだな」といって祐一はにんまり笑った。
それから、もしも自分に何かあったらと前置きをして通帳の置き場所について話し始めた。連絡先リストも作っておくようにするといった。
紘人がああわかったとうなずくと、祐一は手帳にメモするようにいった。
紘人はいわれたとおりに手帳に通帳の置き場所を書き記した。
「そこに他にも大事なものを入れておくから、何かあったら、真っ先にそこを見てくれ」と祐一はいった。
たしかにあのとき聞いていなければ自力で見つけ出すのは難しかっただろう。
洋服ダンスを開けたコートの下にあるシューズケースの中に三冊の銀行通帳と生命保険の証書が入っていた。
5
今日あらためて部屋を訪れて紘人は父の遺したものを見渡した。
そこには必要以上のものを置かないよう努めてきた父のつつましさが見て取れた。
とはいえ、冷蔵庫や食器棚といった大物は処分せざるをえない。それ以外に選択肢がないとはわかっていても、紘人には気が重たかった。
かつて紘人が使っていた部屋は相変わらずがらんとしていた。部屋の隅に扇風機と電気ストーブが置いてある以外は、自分が出て行ったときとほとんど何も変わっていないように見えた。
もっとこじんまりしたところへ引っ越そうかと思うと父がいっていたことを思い出した。できれば田舎に行って本格的に野菜づくりをしたいといっていた。
6
部屋にはまだ少し自分の物が残っていた。
卒業文集やアルバム、お菓子のおまけに付いてきた小さなフィギュアが本棚のそこかしこに散らばっていた。
小学校のときの卒業文集を手に取ってみた。自分のページを開いて見るまで何を書いたか思い出せなかったが、読み始めるとすぐに記憶はよみがえった。イラストを描いたり、アニメーションに関わる仕事がしたいと書かれてあった。そういえばもうかれこれ十年近くは絵を描いていないのではないか。
実は、本当になりたかったのはマンガ家だった。六年生のときの同じクラスにとびきりマンガを上手に描くクラスメイトがいて、紘人の絵をみんなの前でそいつからヘタクソだとこき下ろされて笑われた。だから卒業文集には本当のことが書けなかったのだ。
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「紘人、絵うまいもんね」
文集を一緒にのぞき込んでいた芽愛がいった。
「俺の絵なんて見せたことあったっけ」
「ほら、結婚式のときのウエルカムボード。あれ、うちの父と母も褒めてたよ」
「ああ」
そういえばそんなこともあった。結婚式場の入り口に何もないのは寂しいのではないかという話になり、前日に色鉛筆と水彩絵の具を使ってウエルカムボードを作った。家にあったクマのぬいぐるみを描いたことをかろうじて憶えていた。
8
他の部屋を見て回った。父が遺していったそのほとんどの物を自分が始末しなければならないと思うとそれだけでやはり気が滅入った。
父が寝室兼書斎として使っていた和室に小机があった。机の上にはノートパソコンが一台と古びた国語辞典と英和辞典が二冊とペン立てが置いてあった。
引き出しを開けるとメモ帳やノートが入っていた。ノートを手に取って開いた。小さく角ばった文字が真っすぐ並んでいた。
9
学校の名札、ノート、道具箱、水筒、何でも最初に油性ペンで名前を書いてもらうのはこの字だった。
さすがに小学校高学年になると、父は自分で書いてみたらどうだといったが、失敗したくないからと紘人がいうと小さく笑って何もいわず書いてくれた。
ふと最後に名前を書いてもらったのはいつだったろうかと思い返したが、たしかな記憶はなかった。
父のノートにはやることリストのようなメモ書きが多かった。いくつか格言めいた気づきが記されていた。判読できない文字はなく、ここにも父の几帳面さはよく表れていた。
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紘人は引き出しの中にあったノートと手帳の束をノートパソコンの上に乗せた。少し迷ってからその上に辞書を置いた。辞書は二冊とも小口が茶色く変色していた。
リビングの方から望愛の泣き声が聞こえてきた。
紘人は何か持ち運ぶのにちょうどよい箱はないかと周囲を見渡したが何もなかった。小机ごと持って帰りたかったが、どのみち置き場所に困ることは目に見えていた。それに、小机を抱えて電車に乗るわけにもいかないだろう。
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和室を出ようとパソコンを持ち上げてたとき、背中から携帯の着信音が聞こえてきた。
紘人は急いで背中からリュックを下ろすとスマートフォンを取り出した。鳴っていたのは父のスマートフォンだった。
画面には番号が表示されていた。
「もしもし、あの……」といって、父の携帯です、というより早く、
「ひろくんか」
しゃがれた男の声だった。
紘人は、はいとだけ答えて黙っていると、
「篠原のこと聞いたから」といったきり男の言葉は途切れた。
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相手からの続きを待つ間、紘人は声の主について考えを巡らせてみた。父しか使わない呼び名を知っているということは、遠い親戚の誰かだろうか。
「突然ごめんな、俺のことなんか覚えてへんわな」男の声に親しみが加わった。
「アリシマといいます」と今度は急に改まっていった。
アリシマと名乗る男は、祐一の大学時代からの友人だった。
アリシマの話によると、父とは大学では何度か飲みに行ったことがあるという程度の仲だった。大学卒業してから七年後にアリシマが父の会社に転職してきて再会した。
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「篠原と違ってな、俺はふらふらしてんのよ」
アリシマは一方的に話し続けた。最初のうちは、紘人も適当に相槌を打っていたが、それもタイミングが難しくなってきたので止めた。
とうに望愛の泣き声は聞こえなくなっていた。静かな和室にアリシマの声だけが携帯から響いていた。
アリシマの話は父との思い出話から次第にお悔やみの言葉に変わりつつあった。
「酒もタバコもやらなかったのになあ、俺なんかよりよっぽど」といったところで唐突に言葉が途切れた。
紘人は、父の家で遺品の整理をしていることをアリシマに告げた。
「いやあ、実はな、いま篠原の家の近くまで来てるんよ」
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聞けば、アリシマは家のすぐ近くのコンビニにいるのだという。
「ちょうどよかった。いまからすぐ行くよ」そういうと紘人の返事を待たずに電話はプツリと切れた。
アリシマはかなり大柄な身体つきをしていた。背丈は紘人とさして変わらならないが、分厚い胸板の下に丸い腹がせり出していた。黒いシャツをはおり、袖は肘まで捲り上げていた。濃いインディゴのジーンズを履いていた。全体的に黒っぽい姿は、アリシマの体格と相まって威圧感があった。
「いやあ、ホンマちょうどよかった」そういって後ろポケットからミニタオルを取り出すと額の汗を拭きとった。
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紘人が妻と娘を紹介すると、アリシマは顔をクシャクシャにしてオーと高い声で望愛に笑いかけた。浅黒い顔に白い歯が浮いた。
アリシマの顔に刻まれた皺が父とは同年代であることを物語っていた。髪の毛は黒く艶やかだった。かすかにタバコの臭いがした。
「そういや篠原んちで何回か迷惑かけたんよな。ひろくんもまだ小さくて四、五歳とかやったかな。ほら俺がトイレ独り占めしちゃってさ」
その言葉で不意に紘人の記憶がよみがえった。
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夜中にトイレに起きたときのことだった。真っ暗な廊下に細い灯りが見えた。
幼い紘人にとって一番の恐怖は夜の暗闇だった。たとえトイレから一筋の光が差し込んでいるだけでも心を落ち着けるには十分だった。
きっと父が消し忘れたに違いない。トイレの扉をこんな風にたとえ少しでも開けて用を足すようなことを父は決してしない。
だが、近づくにつれ何かの異変を紘人は感じ始めてもいた。
明確に何かを感じ取ったわけではなかったが、そのわずかに開かれた扉に妙な違和感があった。恐る恐る扉のノブに手をかけた。中をそっと見ると予感は的中した。
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父の二倍はあろうかという巨体が便器を抱えるようにしてうずくまっていた。
紘人はさっとノブから手を放すと父の寝ている和室へと駆け込んだ。
父の名前を叫ぼうとしたが声にならなかった。代わりに蚊の鳴くような細長い悲鳴が漏れていた。
紘人が和室に飛び込むと同時に布団から跳ね起きた祐一は「なんだ」というや部屋を飛び出した。
そしてリビングにもぬけの殻となったソファーと毛布を見るとすべてを察した。
「おいアリシマ」祐一はそう叫ぶとトイレの扉を引きちぎらんばかりの勢いで開いた。ああともううともつかない小さなうめき声が小さく聞こえた。
祐一は中へ入るとおーいと呼びかけた。べしべしと身体をはたく鈍い音が聞こえてきた。
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紘人は小便に起きたのも忘れていまや大きく開け放たれた扉をぼんやりと眺めていた。
しばらくすると黒々とした塊がトイレから吐き出されるように飛び出してきた。かと思うと廊下の床にべちゃっと這いつくばった。
「ひろくん、トイレ」
父の声で我に返った紘人は中に入って用を足した。床にじんわりとした湿り気を帯びたぬくもりを感じながら。
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「ああ、あのときの」紘人はつぶやいた。
「その、ちょうど何というか、個人的にいろいろとな、抱えてたんよな」まるでその頃のことを懐かしむような口ぶりでアリシマはいった。
「ところで、ひろくんもお酒はダメなんや」
「いいえ」アリシマの断定的な問いに思わずムッとして紘人は答えた。
「へえ、じゃあこのあとどうですか?」アリシマは目をパッと見開いていった。
「えっと」といって紘人が目を合わせると、芽愛は目だけで小さくうなずいた。
「あの、父の荷物を家に持って帰りたいので」と紘人がいうと、
「よかったら車で送るよ」とアリシマはいった。
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アリシマの白いハイエースは内装に手が込んでいた。
「キャンプが趣味でな」とアリシマがいったことに紘人はなるほどとうなずいた。
後方部に座席はなく、木の板が載せられてフラットになっていた。ベッドとして使えるほどのスペースがしつらえてあった。そこへ父のパソコンと辞書類を置いた。車で送ってもらえるのなら小机を持って帰ることもできたのかと紘人は今更ながら思った。
車内にタバコの臭いはなかった。代わりに芳香剤のキンモクセイの香りが充満していた。紘人が芽愛に微笑んだ。芽愛も微笑むと望愛の頭をケープの上から撫でた。
紘人と芽愛は運転席のすぐ後ろのシートに座った。
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紘人がアリシマに家の住所を伝えると、ああと答えながらしばらく上を向いていたが、念のためといってカーナビをセットした。電子音の後に目的地までおよそ二十分ですとカーナビが答えた。
車の中でもアリシマの話は続いた。大学時代の父のこと、紘人がまだ幼かった頃のことをバラバラと思いつくままに話した。
「ここの次の信号を右に曲がったらすぐ近くです」紘人がいうとアリシマは右へ車線変更した。
次の信号で右折レーンに入ると、ウインカーを出してサイドブレーキを引いて後ろを振り向いた。
「今晩は、ちょっとお父さん貸してな」
アリシマはそういうと小さく手を振りながら目尻に皺を寄せた。
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マンションに着いて荷物を部屋に運び入れてから車に戻ると紘人は助手席に座った。芽愛と望愛に手を振って見送られながらハイエースは出発した。
二人きりになるとアリシマは急に無口になった。ハイエースの走る音に埋もれてニルヴァーナのオール・アポロジーズが聴こえてきた。MTVアンプラグドのライブだった。マンションのほど近くにある国道からすぐに高速道路へ入った。
何か話題はないかと紘人が考えていると、
「もうすぐそこやから」とアリシマがいった。
紘人はハイとだけ答えると口をつぐんだ。
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車を運転しない紘人には車がどこに向かっているのかよくわからなかった。フロントガラスから見える青い看板を目で追いかけていた。間もなくして車は埼玉へ入った。
アリシマのいった通り、高速を下りてから十分も経たないうちに、車はハザードランプを点けてマンションらしき建物の前で一旦停止した。アリシマは、一階ピロティの駐車場へハイエースを頭から突っ込んで入れるとサイドブレーキを引いた。
アリシマはちょっと待っててなといい残すと車を降りていった。ハザードランプが点けっぱなしになっているのが紘人には気になった。
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アリシマはすぐに戻ってきた。片手に小さなウエストポーチと一箱のタバコを持っていた。ドアを開けるとハザードランプを消してエンジンを止めると、焼鳥屋でいい? と訊いた。紘人はええとうなずいた。
駐車場は三方をコンクリートの打ちっ放しに囲まれていた。天井は低くハイエースのルーフと二十センチくらいしか空いていなかった。
バタンと車のドアを閉める音が大きく響いた。
焼鳥屋は駅前にあった。
「ここやと帰りも楽やろ」そういってアリシマが指差す先に南浦和の駅があった。
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焼鳥屋の中に入ると、時間が早いからなのか、ひとりも客はいなかった。
「よお毎度」とアリシマが厨房の方へ向かって声をかけると、
「おお、シマちゃんお久しぶり、いらっしゃい」と親しげな男性の声が返ってきた。
アリシマは一番奥に進むとテーブルにウエストポーチを置いて、手前にあった椅子を引いて紘人に座るよう促した。
アリシマはカウンター席の方へ行くとガラスのショーケースからビール瓶とグラスを二つ持って戻ってきた。
「ビールでええか」と聞きながら、自分に近いグラスにビールを注いだ。
紘人は、ええはいと答えてグラスを持った。本当はハイボールが飲みたかったのだが。
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アリシマは紘人とグラスを合わせるとビールを一口飲んで席を立った。店の奥にある厨房に向かって一言二言いってすぐ戻ってきた。
「ひろくんとこうして飲むなんてなあ」ポツリとアリシマがつぶやいてから、
「篠原は飲めんかった」といい足した。
「はい、父は下戸でした」
紘人は大学生になってもほとんどアルコールを口にしたことがなかった。父に飲めないものが自分に飲めるわけがないと思い込んでいた。
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しばらくするとキュウリとトマトの入ったボウルとキムチが運ばれてきた。
「あと串を五本たのんだから他に食べたいもんあったら適当にいってな」といった後、納豆以外な、とアリシマは付け足した。
「ひろくんはいま何してんの?」
「ITエンジニアです」
「そっか、プログラミングとか?」といってアリシマは肩をすぼめて机をタイプする手まねをした。
「ええ、それもやります」アリシマのジェスチャーに小さく笑って紘人は答えた。
「ふうん」と口を尖らせてアリシマは紘人と自分のグラスにビールを注いだ。
アリシマはグラスを一気に飲み干すと立ち上がり、二本目の瓶ビールを持って帰ってきた。
「あの、僕ハイボールにします」
「ああ、ええよ」といってアリシマは奥に向かってハイボールひとつちょうだいと叫んだ。
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「篠原がツイッターやってたの知ってるか?」アリシマがそう切り出したのは、二杯目のハイボールがテーブルに運ばれてきたときだった。
「えっ、父が?」そういうのと同時に紘人は首を横に振った。
アリシマは黙ってうなずくとスマホの画面を開いて紘人に見せた。
「ひがけん?」画面に映し出されたツイッターのアカウント名を紘人が読み上げた。
「最初はさ、ニルヴァーナとかメタリカとか投稿してるから懐かしいなと思って見始めたんやけど」
「そのう、ひろくんのお母さんの名前って」
「里実です」紘人が答えると、
「古里の里に真実の実やよなあ」と間を空けずにアリシマが続けた。
「母のこと知ってるんですか?」
アリシマは小さくうなずいた。
もちろん父の大学の同級生であるなら、母と面識があっても不思議ではなかった。
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「もちろん、会ったことはある」
アリシマはそういうや、顎を人差し指で擦りながら、
「飲みに行ったこともあるな」といい足した。
何度か父祐一と母里実とその当時アリシマが付き合っていた彼女との四人で飲みに行ったことがあるといった。大学近くの居酒屋で祐一から里実を紹介された。サークルの先輩とかだったか。二人のぎこちない様子からアリシマは、まだ付き合って間もないのだろうと思った。
アリシマの記憶の中にある里実は大人しい女性だった。
軽く耳にかかる黒髪のショートカットに、いつも白いブラウスかベージュのカットソーにスリムなジーンズを合わせていた。いつも祐一が二口くらい飲んだビールの残りを里実が飲んでいた。
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三十を過ぎて二度目の転職をしたアリシマは、会社の休憩室で祐一と再会した。大学卒業から九年が経っていた。そのまま休憩室で昔話に湧いた。卒業から今日にいたるまでの互いの歩みを話し、共通の知人の現在について、まるでポケットの中身をテーブルにさらけ出すようにして共有した。
ある夜、会社から一駅ほど離れた場所に位置した一軒家の居酒屋に二人はいた。
アリシマはあえて里実のことには触れずにいた。話し始めたのは祐一からだった。
「ほら、何度か飲みに行っただろ」
「ああ、覚えているよ」とアリシマがいうと、
「よかった」とほっとしたように祐一はいった。
安堵した祐一の表情を見て、アリシマの脳裏にわるい予感がさっと流れた。
春先の店内は客でごたがえしていて騒がしかった。二人の座るカウンターにだけ、静けさが満ちていた。
祐一は大学を卒業してから里実と結婚したこと、ほどなくして息子を授かったことを話した。
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「妻はもういないんだ。いまは息子と二人きりさ」
そこで祐一の話はぷっつり途絶えた。まるでブレーカーが落ちたように時が止まった。
なんといってよいのかわからずアリシマはコップに口をつけた。だが、飲まずにすぐ離すとコップをテーブルに置いた。
「死んでしまったわけじゃない。いまもきっと彼女はこの地球上のどこかで生きている」
そういうと祐一はぎこちなく笑みを浮かべた。口の右端に八重歯がのぞいていた。アリシマは何もいわなかった。
その日は、二人して終電時間のぎりぎりまでその店にいた。
店を出ると川沿いの桜並木の道を通って駅へ向かった。
夜の闇を照らすように桜が咲きこぼれていた。風が吹くと花びらが舞った。
「わあ、きれいやなあ」アリシマは立ち止まると見上げていった。
祐一は地面に落ちた花びらをじっと見つめていた。
「いくで」とアリシマがいうと祐一が小さくうなずいた。
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紘人はアリシマから差し出されたスマホの画面に見入っていた。
これが本当に父のツイッターなのか。
プロフィールには「1990年代の思い出についてつぶやいていきます」とだけ書かれてあった。
「もちろんそのアカウントが篠原なのか、確証なんてどこにもない」
でもな、といってアリシマはコップのビールを一口飲むと、紘人から自分のスマホを取った。
そして画面を遠ざけて眉根を寄せて見ると、親指と人差し指で画面をピンチアウトした。
「最近、老眼が出てきてな」そういいながらアリシマはスマホの画面を紘人に向けて渡した。
「そのほら、@マークから始まる何だっけ」と親指で額をトントン突きながらアリシマがいった。
「ツイッターのユーザー名ですか?」と紘人が答えた。
「ああそれや」
紘人はそれを見た瞬間はっと息を呑んだ。
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ひがけんのユーザー名は、「@Sato3Yu1」だった。
「あのこれって母と父の名前じゃあ……」と紘人がいうと、アリシマがああといってうなずいてコップにビールを注いだ。きめの荒い泡は一瞬にしてビールに吸い込まれるように消えた。
「俺もそれにはしばらく気づかなかった」とアリシマがいった。
「アリシマさんはいつこのアカウントを見つけたんですか?」紘人は訊ねた。
「ほん最近やな。たしか数か月前やった」
アリシマはひがけんのツイッターを見つけたときのことを話し始めた。アリシマが気づいたきっかけは、九十年代の音楽についてのツイートだった。
紘人はアリシマの車の中でニルヴァーナのオール・アポロジーズが流れていたことを思い返した。父もあの曲をよく聴いていた。
「篠原ってさ、見た目はまじめだったけど、結構激しいやつを聴いてたんよ」というと、アリシマは小さく拳を突き出して頭を前後に振った。
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「大学んときは、篠原からよくCDをダビングしてもろたんよ。ニルヴァーナ……メタリカとかな」
「父もたまに休みの日とか、家で聴いてました」と紘人がいうと、
「そっかあ、俺が聴く音楽もあのときからずっと止まったままや」とアリシマが笑った。
紘人はスマホをアリシマに返した。
アリシマはスマホの画面をスクロールしながらいった。
「九十年代の音楽についてといいながら、古いツイートを読み返すとな、すぐに本当の目的がわかった」
紘人は黙ってアリシマの続きを待った。
「このツイートは、昔のことを打ち明けている。そのう、告白なんよ……ひろくんに対する」
告白? 父から僕への告白?
「ひとつ奇妙なのがな」といってアリシマはややいい淀んだ。
それから、再び口を開いた。
「篠原が亡くなってからもツイートが続いてるんや」
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「じゃあ、父のアカウントじゃないってことですね」と紘人がいったが、アリシマはゆっくり首を振った。
「だって」といいかけて、紘人はハッとして目を見開いた。
「予約ツイートをすれば不可能ではない」とアリシマがうなずきながらいった。
紘人は口を一文字に閉じて鼻から小さく息を吐いた。
紘人は、アリシマと別れて南浦和駅のホームにひとり立っていた。心地よい風を頬に感じながら、頭の中でゆっくりと今日の出来事を整理した。
父の家で遺品を整理していると父の携帯が鳴った。電話の主はアリシマと名乗る父の大学の同級生だった。
アリシマさんは近くまで来ているといって父の家にやって来た。一緒に家を出て、アリシマさんの車で家まで送ってもらった。家で妻と娘を下ろした。そこからアリシマさんの家まで行って、車を止めて、南浦和の駅前の焼鳥屋に二人で入った。そこで父らしきツイッターのアカウントを教えてもらった。
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紘人はスマホの画面をタップするとツイッターを開いた。検索ウインドウに「@Sato3Yu1」と入力するとエンターキーを押した。
ユーザー名は「ひがけん」だった。柴犬のアイコンを見て、紘人はいつも祖母が連れていた犬のことを思い出した。
祖母の家は、かつては紘人も一緒に暮らしていた父の家から南に歩いて十五分くらいのところにあった。父と暮らした家は京王線沿線で、祖母の家は小田急線が近かった。そのため、互いの家の距離は近くても何となく住んでいるエリアが違うという印象があった。
紘人が物心つく前に祖父はすでに鬼籍のひととなっていた。祖母は柴犬と一緒に間口の狭い二階建ての家に住んでいた。駅から近く、小さな商店街があった。いまは駅周辺の区画整理で家もなくなり、紘人の記憶にある祖母の家の風景は跡形もなく消えてしまった。
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紘人は、新しいツイートをいくつか読んだ。たしかにアリシマさんのいう通り、何かを伝えようとしている内容であることは見て取れた。昔あった出来事がぽつぽつと呟くようにツイートされていた。アリシマさんは、このツイートは父からの告白だといった。
だが、ツイッターという性質上、それは細切れな情報にも思えた。アリシマさんがいうような父からの告白めいたものは感じられなかった。おそらくまとめて書いたものをツイッターの制限文字数に収まるように分けて順番に投稿していったのだろうか。
帰りの電車に揺られながら、なぜ父はツイッターを始めたのだろうかと紘人は考えを巡らせた。父があてどなくツイッターを始めるわけがなかった。きっとそこには父なりの明確な目的があったはずだ。だが、それを知るには古い投稿から順に読んでみるしかない。
紘人は画面を一気に下へスクロールした。
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紘人はプロフィールの一番下、最初のツイートを見た。たしかにそれは父からの告白だった。
そして、そのひとつ上、二番目のツイートを読んだ。それは、娘の望愛が産まれたときに書かれたものだった。
きっと父は、望愛が産まれたのをきっかけにこれを書き始めたに違いないと紘人は思った。
半年前に父が心臓発作で倒れて病院に駆けつけたときのことを思い出した。父はベッドの上で、頭に白いネットを被っていて、バツが悪そうに苦笑いした。そのとき父は通帳の置き場所を紘人に伝えた。まるで半年後の自分の死を知っていたかのようだった。
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紘人は父のツイートを下から上へと読み進めていった。
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<つづく>