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明日へ向かって 62
しばらくして、坂野医師が戻ってくると四人は周囲に集まった。
「ようこそ六甲の家へ」
先ほど挨拶したのを忘れたのか、再び坂野医師は四人ひとりひとりに丁寧にお辞儀をして回った。
「ほんま久しぶり」榎本の笑顔に、坂野も負けんばかりの笑顔で受け入れた。
「元気そうやな。薬作っとるんやろ」
「いや、しがないサラリーマンやで」
「今日は、皆さんせっかくいらっしゃったんですから我が医院を思う存分見学して回ってください。とは言っても、すごく狭苦しいところなんですぐに回り終えちゃいますけど」と言ってまた坂野医師は笑った。
とりあえず、一行は二階にある院長室と札の掛かった一室に連れられて入った。
院長室といってもアコーディオンカーテンで仕切っただけの空間に机と電話がひとつあるだけのほとんど何もない部屋であった。
部屋に入ると、さあさあとパイプ椅子を坂野医師が自ら広げて並べた。ほどなくして、エプロン姿の女性がお茶を持って現れた。「こちらが妻の一重です」
品のよい笑顔で会釈する女性は、エプロン姿にジーンズという軽装もあってか、とても院長夫人という雰囲気ではなかった。
二人が並んでいるところを見ても、病院経営者というよりかは、海水浴場で土産物屋を切り盛りする夫婦という方がイメージに合っていた。
「ほらこないだ話してた高校の同級生」
「榎本です」
「今日はよろしくお願いいたします」そう言い終えて、一重はお盆を持って部屋を出て行った。
「何だかここは病院やないみたいに見えたわ」
榎本がそう言うと、皆が一斉に頷いた。
「そうか、そう言われると何だか褒められてるような気がしてまうねえ」
なんで?という皆の反応を他所に坂野医師は言葉を継いだ。
「だって、ここはがん患者さんのホスピスなんでね」
声にこそ出さないが、一同がさっと息を呑むのが分かった。そうだったのか。ここが人生の最期を迎える場所というのか。
「ここがホスピス」
長原が呟きに近い声を漏らした。名前は聞いたことがあるが、実際に訪れたのは初めてだった。
ホスピスといえば、終末期を迎えた患者を受け入れる病院や施設のことであり、がん患者を対象に施されるのは、痛みを和らげる緩和ケアが中心となる。一般的な病院ががんを治療して治すことを目的としているのに対し、ホスピスでは患者にできるだけ充実した最期を迎えてもらうための施設であるというところが大きく異なっていた。死を迎えることを前提とした施設であるため、患者が充実した生活を営むことが何よりも優先されている場所、それがホスピスであった。
「お前が病院経営者になってるとはな」
「俺にもそれは不思議や」
それから坂野医師はおもむろに、ここ六甲の家設立の経緯を説明し始めた。六甲の家は、いまから三年前に、がん患者専用のホスピスとして、開設された。
きっかけは妻一重の母とちが膵臓がんを患い、余命幾ばくもないと診断されたことだった。
坂野医師は、当時名古屋の病院に勤務していたが、独り身で暮らすとちのことを心配し、夫婦でとちの住む六甲に移り住むことを決意した。そして、とちの何気ない一言がこの六甲でホスピスを始めるきっかけとなった。
「六甲の街並みが見たい」
幼少期を神戸の須磨で暮らし、結婚してからは家族とともに六甲で暮らしてきたとちが、神戸の街並みを山から見たいのだという。
坂野夫婦は、六甲のケーブル下付近のロッジを借りると、三人でそこへ移り住んだ。夫妻には子どもがいなかった。それから一年半が過ぎた頃、とちは坂野夫妻に見守られて静かに息を引き取った。六甲の街並みはロッジのベランダからよく見え、とちの何よりのお気に入りだった。
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