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戦国時代に「天下」の範囲が五畿内に限定されていたとする説に対する反証

1.戦国時代に「天下」という言葉の表す範囲が五畿内に限定されていたとする説

 拙著「河内の国飯盛山追想記」は、以前に書いた短編冊子の全面的な改稿となる。短編冊子では、依頼された通りに特定の学説を用いて話を書いた。その時には、最近歴史学で学説の対立がある「天下」という言葉の意味について、戦国時代の織田信長が活動した時期には天下の意味が五畿内に限定された地域を指した、とする説に従った記述をしたが、その説については執筆中から妥当なのかどうか疑問を抱いていた。その後調査し直した結果、信長の活動期においても天下という言葉はごく一般的な全国という意味であって、五畿内に限定される用法は無いとの結論に達したため、今回の作品では天下という言葉を、全国を指す一般的な意味で用いることにした。

 戦国期に天下という言葉の示す範囲が五畿内に限定されるという、天下五畿内説とでもいうべき学説は、もともと神田千里氏によって提唱され、『戦国時代の自力と秩序(神田千里著 吉川弘文館 2013)』に収録された論文「織田政権の支配の論理」「中世末の「天下」について」の内容を、金子拓氏が『織田信長〈天下人〉の実像 (金子拓著 講談社現代新書 2014)』の中で紹介して広まり、その後神田氏自身の一般向け著作や、説に賛同する他の研究者の著作などでも紹介されて広がった。長さが学術書籍60ページに及ぶ長さの論文であるためか、反対説の立場をとる研究者からの詳細な反論というものを目にしたことはないが、おおむね、この説を採用した記述をしないことで、わざわざ反対の立場を示すこともしないといった様子である。専門の学会や学術雑誌上で議論となった話ではなく、一般読者向けの本で広められたという経緯があるため、そもそも学者が取り上げて学術的な検討を加えることがしにくい、という事情があるのかもしれない。それ以前に、高校の日本史Bで使われる教科書、山川出版社の『詳説日本史 改訂版』(2021)p41「大宝律令と官僚制」の項目に、「地方組織としては、全国が畿内きない七道しちどうに行政区分され、こくぐん(のちごうと改められる)がおかれて、国司こくし郡司ぐんじ里長りちょう(さとおさ)が任じられた。」と書かれている通り、五畿七道は律令制で定められ、そのまま明治維新まで続いた。畿内の語義は「都の周辺」であるが、日本では具体的には奈良の藤原京周辺ということになり、京都の平安遷都より前に成立している制度である。戦国時代になってもそのまま変更無く続いたのであるから、戦国時代に「都の周辺」という言葉を使った場合には京都の周辺となり、畿内という律令制以来の行政区画とは別の話となる。高校日本史の知識があれば、戦国時代には京都の周辺と五畿内がそのまま同じ範囲を指すことにはならない程度の事は分かる訳で、学術的に論ずるまでもないという事になっているのかもしれない。

 私は以前の刊行物で五畿内説に従った記述をしたため、自身の問題として何らかの形で、採用した学説の変更を告知しておいた方がよいような気がするので、この場で少々検討しておきたいと思い、この記事を作成している。五畿内説に従って書いた後、神田氏の『戦国時代の自力と秩序』所収の論文を改めて読んでみた。主要な論旨は、外国人宣教師が「天下」という言葉を五畿内という意味で使っているというもの。しかしながら結論から言うと、『十六・七世紀イエズス会日本報告集 (松田毅一監訳 同朋舎出版)』から引用されている史料に、天下という言葉が五畿内という意味を表すと直接的に述べたり、言葉を定義づけている文章は無い。さらに、日本報告にせよ、いわゆるルイス・フロイスの日本史(『完訳フロイス日本史』中公文庫 松田毅一 川崎桃太 訳)にせよ、宣教師は、天下という言葉と五畿内という言葉を使い分けて文章を書いている。日本報告とほぼ同時期の1580年代頃に書かれたフロイス日本史など、ほかの文献も参照して注意しながら読んでみると、この論文は、理由付けにかなり無理をしている感がある。

2.端緒となった論文の根拠とされる、宣教師フロイスが書いた文書

 論文の内容を検討してみると、五畿内説の論拠の中心となる部分である『戦国時代の自力と秩序』p146以下の記述は次の通り。
「さて「天下」とは具体的にどういう地域を指すのであろうか、結論的に言えば、畿内を指す用法がかなり多い。まずはこの事例の多いイエズス会関係の史料をみることにする。最初に『日本史』の著者として有名なルイス=フロイスの報告書である。
 K 一五八二年十一月五日ルイス=フロイス書翰(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』Ⅲ六、一一九頁、CEV Ⅱ f.6lv.)
……また、戦さにおいては恐れを知らず、気質は寛大で策略に長け、生来の知慮を備えているので絶えず日本人の心を掴み、後には公方さえも都から放逐して日本の君主国、すなわち天下と称する近隣諸国の征服に乗り出した。……
 L 一五八四年一月二日ルイス=フロイス書翰(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』Ⅲ六・二〇五頁、CEV Ⅱ f.92)
 ……本(書簡)と共に巡察師アレシャンドゥロ=ヴァリニャーノに宛てた別の書簡においては……信長の死後、日本で生じた戦さと諸事の状況、ならびに天下、すなわち、都に隣接する諸国からなる君主国の支配と政治を誰が手にしたかを記してある。……
 史料Kは、本能寺の変の後に織田信長の人となりを回想したものである。この史料は松本和也氏がすでに引用されているが、ここに信長が「天下と称する近隣諸国」の征服を行い、その「天下」が「君主国」であると記されている。君主国の意味は今一つ不明瞭であるが、少なくとも、「近隣諸国」との表現から京都の周辺諸国が「天下」と称する地域であることがうかがわれる。
 史料Lも同様である。「天下、すなわち、都に隣接する諸国からなる君主国の支配と政治を誰が手にしたか」を記したとあるように、これも「天下」を「都に隣接する諸国からなる」領域であるとしている。」

 主要な部分は以上のようになるが、まず、「史料K」に対する考察部分について検討してみる。信長が「公方さえも都から放逐して日本の君主国、すなわち天下と称する近隣諸国の征服に乗り出した」ことについて考察している部分で、「都の近隣諸国」というだけでそれが畿内であるとするのは短絡的であるように思われる。確かに信長は公方の足利義昭を追放した後、京都の近隣諸国の征服に乗り出した。よく知られている通り、近江の浅井氏と越前の朝倉氏を攻め滅ぼして自らの領土とした。ただ五畿内限定説にとって残念なことに、近江や越前は五畿内に含まれてはいない。そもそも天下についての説明は「日本の君主国、すなわち天下と称する近隣諸国」と書かれている。まず「日本の君主国」というのが何を示しているのかを検討すべきところ、論文で「君主国の意味は今一つ不明瞭であるが」としてしまっているのは、論証が雑すぎるのではないか。宣教師の言う日本の君主国というのが、室町幕府や織豊政権といった日本の中央政府、あるいは日本全国を指していることは、次に述べるように、少し調べれば容易に分かることである。

3.引用史料「史料K」に書かれた織田政権期に関する記述の検討

 論文が引用する『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第6巻』の、他の部分に何か書かれていないか調べてみると、色々な所に天下や畿内という言葉が出てくる。「史料K」を読み進むと、織田信長による将軍追放、安土築城、本能寺の変までが記され、締め括りの近くに次のような記述がある。

p145「結局、地上のみならず天においても己れに勝る主はないと考えた者はこのように不幸で悲惨な最期を遂げ、明智もまた彼に劣らず傲慢であったために同じく惨めな死に方をした。しかし、既述の通り、信長は稀有な才能を持ち、大いに賢明に天下を治めたことは否めないし、彼の傲慢さが身を滅ぼしたこともまたしかりである。」

 この段階まで来ると、フロイスは五畿内に限定される範囲の話として天下という言葉を使ってはいない。織田信長が安土城を拠点に支配した範囲を指していることは明白で、日本の大部分あるいは織田信長政権の事を指している。

 追加として、フロイス日本史にある、同じ時期についての記述を見てみると、『完訳フロイス日本史③ 安土城と本能寺の変-織田信長篇Ⅲ 2000年 中公文庫』p131には次のように書かれている。

「彼は戦争においては大胆であり、寛大、かつ才略に長け、生来の叡知によって日本の人心を支配する術を心得ており、後には公方まで都から追放し、日本王国を意味する、天下テンカと称せられる諸国を征服し始めた。」

 こちらでは、天下とは日本王国を意味すると書かれている。五畿内に範囲を限定するという話はしていない。この時期は信長が天下統一事業を本格化させた、元亀から天正年間に入った頃なので、信長の上洛時期の前後であるもう少し前の記述も見てみると、元亀の前の永禄年間に関する記述がある。

 『完訳フロイス日本史① 将軍義輝の最期および自由都市堺-織田信長篇Ⅰ 2000年 中公文庫』からピックアップしてみると、次のような話がある。

p122「仏僧たちは眠ってはおらず、彼らは悪魔の道具であったから、事実その手先となり、法華宗の下総殿シモサドノという貴人のところに赴き、〔当時公方様に代って天下テンカを統治していた〕やはり法華宗徒の松永霜台マツナガソウダイ(松永久秀)の許で、伴天連を都から追放するよう働きかけてもらいたい、とあとう限りの弁舌をふるって説得した。下総殿は、まるで自分がデウスに奉仕するかのように歓喜してその用件を引き受けた。彼が仕えていた霜台は、仏僧に劣らず伴天連の追放を望んでいたが、公方様は伴天連に允許状を下付しており、それによって彼は都に居住することが許されているし、彼を妨げる者は誰でも処罰されることになっているのに鑑みて、あえて公然と独断でもって伴天連を追放することはできなかった。そのうえ司祭は、当時五畿内で大いなる勢力をもっていた河内国の君主、三好(長慶)殿からも、もう一通同じ内容の允許状を貰い受けていた。霜台自身は三好殿の家臣であったが、彼から裁判権と統治権を奪ってしまっていた。」(〔〕は原著者フロイスの補足文()は訳者の補足文)」

 松永久秀が天下の統治者で三好長慶が五畿内に勢力を持つ河内の君主であったという、松永久秀の下克上イメージを追認してしまうかのような内容についてはさておき、フロイスは一つの段落の中で、天下と五畿内という言葉を書き分けている。三好長慶の家臣として松永久秀が室町幕府に出仕していたことは、三好氏について調べていればすぐに分かることで、ここに出てくる天下は室町幕府のことを指しており、五畿内は地理的な範囲を指す言葉として使われている。

p196「都の統治は、この頃、次の三人に依存していた。第一は公方様クボウサマで、内裏に次ぐ全日本の絶対君主である。ただし内裏は国家を支配せず、その名称とほどほどの規模の宮廷エスタードを持っているだけで、それ以上の領地を有しない。第二は三好殿で、河内国の国主レイであり、公方様の家臣である。第三は松永霜台で、大和国の領主セニョールであるとともにまた三好殿の家臣にあたり、知識、賢明さ、統治能力において秀でた人物で、法華宗の宗徒である。彼は老人で、経験にも富んでいたので、天下テンカすなわち「都の君主国モナルキア」においては、彼が絶対命令を下す以外何事も行われぬ有様であった。」

 大和国の領主松永霜台が天下すなわち「都の君主国」に絶対命令を下すというのも、松永久秀が室町幕府に出仕しているということに他ならない。公方様が内裏に次ぐ全日本の絶対君主とされているのであるから、都の君主国が意味するところは室町幕府である。天下という言葉について論文で検討する以上、「君主国の意味は今一つ不明瞭であるが」で済まさず、検討されるべき問題であると思われる。

p219「翌日、ガスパル・ヴィレラ師は、三好殿を訪ねるために、ただちに河内国へ出発した。三好殿は飯盛城に住み、そこにはこの河内国主の家臣である約二百名のキリシタンの貴人がおり、司祭はそれらの人たちの告白を聴くためにも出かけたのであった。彼らは都の隣接諸国を意味する五畿内ゴキナイにおけるもっとも高貴なキリシタンたちであった。」

 ここでは天下の話は出てこず、五畿内という言葉は五畿七道の制で定められた範囲で使っている。堺にも拠点を持っていたフロイスは、和泉国が山城に隣接していないこと位は知っていたはずであり、単に都の隣接諸国という言葉を使う場合、訪問したことのある信長の安土城が建っていた近江国が山城国の隣国であることも当然知っていたはずである。

p231「しかるに時が経つうちに、天下テンカ、すなわち日本人の君主国を支配した権力者たちが、彼らの偶像の祭祀に関心を示さず、その信用を失墜せしめ、しかも都および日本の他の諸国において仏僧から寺院の収入を徴したので、東福寺の屋舎や寺院の建築は崩壊し、またひどく腐朽して、すでに多くはまったく見る影もなくなり、少数だけが新たに再建されたのである。」

 ここでは、天下が日本人の君主国であると書かれている。五畿内に限定された話はしておらず、日本全体のことである。日本全体の君主国といえば当時の室町幕府ということになる。

 結局のところ、ルイス・フロイスの書き残した文章では、天下という言葉は室町幕府といった当時の政治体制や中央政府を示す言葉として使われている。また、五畿内という言葉は一般的な五畿七道の行政区域に従った範囲を示す言葉として使われている。五畿内という言葉は、天下という言葉の定義付けに使われてはいないのである。

4.引用史料「史料L」に書かれた豊臣政権期に関する記述の検討

 論文が『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第6巻』p205から引用する史料Lには、「天下、すなわち、都に隣接する諸国からなる君主国の支配と政治を誰が手にしたか」と書かれている。フロイス日本史の中で、これに対応する文章は、『完訳フロイス日本史④ 秀吉の天下統一と高山右近の追放-豊臣秀吉篇Ⅰ 2000年 中公文庫』の次の部分になる。

p17「信長の死後、その家臣で羽柴筑前殿と称する者が天下テンカの政治を司ることになった。」

 こちらはこれ以上詳しい記述が無いため、イエズス会日本報告集から本能寺の変後の記述を探してみると、論文に引用された「史料L」が含まれている書簡の次の書簡、「一五八四年一月二十日付、長崎発信、ルイス・フロイス師のインド管区長アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ宛書簡」p216からp217にかけて、本能寺の変後に行なわれた清須会議と、それ以降のことについての記述がある。

「これを整えた後、彼は柴田(勝家)殿、池田(信輝)ならびに丹羽ニワノ五郎左衛門と共に諸国と俸禄を意のままに分け合い、信長の第三子三七殿(信孝)には従前の俸禄に加えて美濃国を与えたが、彼は天下テンカの主君となることを望んでいたのでこれに満足しなかった。羽柴はただちに山崎および都から三里の八幡ヤワタにきわめて強固な城を築いたが、柴田(勝家)と三七殿はこの築城を大いに懸念し、彼の許へ使者を送り、当初の協定では(三七が)対等であったのが、(その後)見るところ彼は天下の絶対君主となる素振りを見せている。ただちに二城を破壊させなければ、冬を過ぎた後、彼を滅ぼすであろうと伝えた。これに対して彼は、もし(右の通りに)得るならば、望むところであり、誰が天下の君となるかは各自の腕によって定まるであろうと答えた。この返答によって三七殿が羽柴(秀吉)の敵として名乗りを上げたので、羽柴は十二月、多数の軍勢を率いて五畿内を発ち、美濃に向かい、ついには岐阜のまちを包囲するに至った。」
 織田信孝が天下の主になりたがったというのは、織田信長の後継者になることであって、五畿内に領地を持ちたいということではない。ここでも、フロイスは天下という言葉と五畿内という言葉を、別の概念を表す言葉として使っている。

 ここまで、宣教師による記録を調べてきたが、そこには五畿内という言葉が都の周辺を意味するという記述はあるが、天下という言葉が五畿内を意味すると定義付けている表現は無い。天下という言葉を幕府あるいは中央政府や最高権力機関を示す意味で使っている記述が大半である。五畿内という言葉は五畿七道の制における行政区域を示しているにすぎない。宣教師が残した記録に天下という言葉が五畿内という意味で使われているとする論文の内容には、賛成することが出来ない。

4.日本の史料にみられる「天下」という言葉

 そもそも、宣教師云々以前に、織田信長が発した文書において、全国の意味で天下という言葉が使われている例がある。

 信長公記巻六の初めに、松永久秀の話に続いて、信長が将軍足利義昭に示した十七ヶ條御異見(いわゆる異見十七ヶ条)が書き写されている。そこに書かれている文章は次の通り。

「一 元龜の年號不吉候間改元可然の由天下之沙汰に付て申上候 禁中にも御催の由候處聊の雑用不被仰付于今延々候是ハ天下の御為候處御油斷不可然存候事」

 国立国会図書館所蔵、改定史籍集覧第十九冊、P83後半部分の、国立国会図書館デジタルコレクションの該当ページ

 改元について「天下之沙汰」「天下の御為」という言葉が使われているが、使用される範囲が五畿内に限定される年号などはあり得ないため、織田信長および周辺の人々が用いた「天下」という言葉の意味は全国を指すのであって、五畿内に範囲が限定されることはない。

 さらに、最近の歴史学で重視される一次資料について検討してみると、『大日本史料』10編18冊35頁天正1年9月7日1条「織田信長、毛利輝元・小早川隆景に答へて、畿内等の情勢を報じ、但馬に出兵せんことを諾す」所収の乃美文書正写と小早川家文書がある。

 乃美文書正写の天正1年9月7日付毛利輝元・小早川隆景宛て織田信長書状写しの冒頭にはこうある。

「一書之趣永々敷候へ共、東國邊之躰、其方へ不相聞由候條、大形有姿申展候、別紙之趣令被閲候、京都之躰先書申舊候、公儀眞木嶋江御移候、御逗留不實之由申候キ、無相違於時宜者、不可有其隠之條、不能重説候、仍江州北郡之浅井、近年對信長構不儀候、卽時可退治之處、天下之儀取紛送日候、殊越前之朝倉義景、城裏ニ有て令荷擔之條、何かと此節至而遅々候、」

 ここでは、将軍義昭や室町幕府を相手にした中央政界の話を天下の儀と書き、地域や場所を表す場合には具体的に地名を挙げている。

 小早川家文書の天正1年9月7日付小早川隆景宛て織田信長書状

「就天下之儀示承候、祝著之至候、殊太刀一腰・馬一疋送給候、御懇情候、近日可為上洛之儀、其節可申述候、」

 将軍義昭の追放に関するやり取りであることから、ここに書かれた天下之儀は五畿内や特定の地域の話をしているのではない。

 小早川家文書の天正1年9月7日付小早川隆景宛て羽柴秀吉書状

「東北国之躰幷五畿内之趣、信長直ニ申入之間、」「就因・但間之儀、蒙仰趣申聞候、」「近日可為上洛候間、畿内之躰被見合、但州ヘ働之日限、」

 羽柴秀吉の書状は地域ごとの情勢について具体的な話をしており、五畿内とは場所を表す言葉として使われている。以上いずれの書状でも、天下は政治の話、畿内は地域の話をする場合に使われる言葉で、同じ意味の言葉としては使われていない。

東京大学史料編纂所大日本史料総合データベースの該当ページはこちら。

 フロイスの記録についてみたように、もう少し前の時期に書かれた書状も検討してみると、大日本史料10編6冊54頁元亀2年3月20日1条「織田信長、上杉謙信に、畿内在陣の見舞を謝し、且鷹を求む」の上杉家文書にある、織田信長の書状がある。冒頭部分は次の通り。

「去年幾内所々就在陣尋承候、本望之至候、天下之儀無異子細候、」

東京大学史料編纂所大日本史料総合データベースの該当ページはこちら。

 この文書では、信長が在陣した場所について畿内という言葉を使っており、天下という言葉を使った続きは、鷹のお礼に続いて上杉謙信が帰属させた隣国の処遇について異議の無い旨が書かれている。上杉謙信が越中富山城を攻略した事についてのことかとおもわれるが、畿内は場所を示す言葉、天下は政治に関連した言葉として使われている。

大日本史料10編6冊923頁元亀2年9月25日2条「 織田信長、上杉謙信の鷹を贈れるを謝し、畿内の情況を報ず」の上杉家文書にある、織田信長の書状に次のような記述がある。

「頓以使者御禮可申展之處、就上意之趣、去月中旬令上洛候、幾内之躰無別條候間、一両日以前納馬之式候、依之御禮延引之條、先染一翰、以飛脚申候、」

東京大学史料編纂所大日本史料総合データベースの該当ページはこちら。

 元亀2年9月25日頃は、5月に信長が伊勢長島の一向一揆に敗れ、畿内では足利義昭が三好三人衆・松永久秀らの三好勢と交戦状態となり、8月に信長が近江出陣、続いて9月に比叡山延暦寺の焼き討ちをした後で岐阜に帰った、という出来事があった頃である。9月頃に畿内で三好勢との大きな戦闘は起きず、岐阜に帰ったということであり、畿内は戦闘区域となっている場所を示している。

 以上見てきた通り、一般に公開されていてすぐに調べがつく文書を見れば、織田信長が「天下」という言葉を五畿内に範囲を限定して使っていたという事実は無いことが明らかであるといえよう。しかも、ルイス・フロイスと織田信長の言葉の使い方には共通するところがあるのが興味深い。いずれも、天下という言葉を中央政府を表す場合、五畿内という言葉を近畿地方の一部についての地域を表す場合に使っている。織田信長上洛以前から都や堺で日本語を学んでいたルイス・フロイスと尾張出身の織田信長、この二人が、天下と五畿内という言葉を別の概念を表す言葉として使っていることは史料上明らかであるため、天下という言葉が五畿内を指すという説には賛成出来ない。

5.結局「天下」の範囲は日本全国だった

 以上述べてきた理由から、天下の五畿内限定説については、異見十七ヶ条など、織田信長について元亀から天正にかけての研究をする際に大抵の場合言及されるであろう文書の文言について、検討がなされていない説であるため、私自身としては採用することは出来ない、というのが結論である。

 論文によると、天下を五畿内に限定する説を出したのは、織田信長が用いた「天下布武」の印章に疑問を抱いたことが発端であるとのことである。織田信長が美濃を手に入れて間もなく、足利義昭を奉じて上洛する頃から用い始めた天下布武の印章について、全国に武を布くという意味であるとする従来の説では、諸大名に敵対宣言をすることになりかねないので、信長の目的が、実は将軍支配下の五畿内のみに範囲が限定された静謐状態を目指していたので、天下とは五畿内を意味するはずであるから史料を検討した、ということのようである。しかしながら、そもそも日本史の文献学で、史実が覆される場合には、新たに発見され本物と判定された史料に書かれた内容を検討した結果、従来考えられてきたのとは違う事実が判明した、というのが基本的な話の流れとなるはずである。結論が先に作り出され、それに一致する史料がこれであるとして従来用いられてきた史料に新たな説明を付けて提示するのは、文学部史学科出身者ではない私ですら、変な話なのではないかという疑問を抱かざるを得ない。

 ついでに論文の前提について検討してみると、まず、足利義昭上洛の頃の織田信長が天下に武を布くと宣言しても差し支えないことは、当時の信長が置かれた状況を見れば分かる。足利将軍の支配領域が畿内周辺に限られていたという話は、今では学術的に一般的とは言えない。足利将軍家の権威が全国の大名に利用され、将軍は自らの権威を上手く使っていたとするのが現在は有力な説ではないだろうか。室町幕府は京都周辺の地方勢力ではなく、全国の大名を統制し天下の沙汰を行う中央政府であり、朝廷や公家が足利将軍のことを指す場合に「武家」という言葉で表現するなど、足利将軍家は全国の武士の代表者であった。そもそも、天下という言葉が全国の事を示すことに疑問を抱く必要が無いのである。

 史料綜覧や大日本史料に出ている範囲で信長自身の状況を見ると、永禄2年に足利13代将軍義輝に拝謁し、尾張の支配権を認められた。斯波管領家の尾張守護代である織田家の代表者として認められ、不在の斯波家に代わる地位を認められることになった。

 足利義昭が15代将軍になった時には、斯波家の家督を継ぐことを勧められて断っている。

 信長が自分の野望のために将軍の権威を利用したのか、将軍の権威を重んじていたのかを問わず、幕府の権威誇示であれ実力行使であれ、全国支配を目指す行動をしても、もともと、将軍を補佐して幕府権力の行使を行う役目の斯波管領家が持つ権限の代行者、という立場がある。天下に武を布くと宣言したとしても、諸大名から苦情を言われることは、制度的に気遣いは無いと言ってよい。それ故に、旧来の不仲な勢力であったとはいえ、義昭上洛に非協力的であった越前の朝倉氏に対しては、将軍に敵対行動をとったという理由で直ちに武力行使を行い得たのである。結局のところ、信長の意図がどうであれ、天下布武の印章を用いることで何か不都合が起きるものではなく、天下の範囲が畿内に限定されるかどうかということを問題にする必要が全く無いのである。問題提起する必要のない話であったと言ってもよい程である。論文の中では、天下という言葉の意味が、信長上洛期に範囲が狭くなり、その後に天下統一事業が進むとまた広がった、とされているが、ここまで検討してきた通り、史料上、天下という言葉の意味が二転三転した形跡は無いと言ってよいであろう。結局「天下」という言葉は、ずっと全国規模の範囲を指す言葉のままであった。

 ここに書いた内容は、歴史学に関わる問題であるとはいうものの、私個人の事情から生じたことが理由になっていることもあり、小説家が意見を書いているに過ぎなくなってしまうことは仕方のないところである。一般向けの本によって広まった説であるため、学術論争では扱いにくいかもしれない。そもそも問題にする必要のない事として扱われているなら、反論を述べたり反証を挙げたりする必要すら無いのかもしれない。とはいえ、学術論文集に収録されている論文が元になっている話である以上、日本史学者のどなたかに学術論文の形で反論して頂きたいものである。

最後に

 反証を挙げるだけのことに、色々と話を追加したため長い文章になってしまいました。ここまでお付き合い下さった読者の皆様に感謝申し上げます。

 最後になりますが、戦国時代全般の中央政治史を扱った拙著「河内の国飯盛山追想記」に出てくる織田信長は、新しいとされるイメージの人物とはなっていません。この点、従来のイメージの信長が好きな方々にも安心して読んで頂ける、と言うと妙な感じになりますが、それ程違和感を抱かずに読んで頂けるものと思っている次第であります。

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阿牧次郎
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