未完成人

 目の前にフッと浮かぶ、そして消えた。原稿用紙を前に、これは言葉で表せるのだろうかと不安になる。さっきまで浮かんでいた「それ」をもう忘れてしまったようだ。
 思い返してみると「それ」は幽霊のような幻覚のような天使のような、影のような。さっきまで見ていた僕にも、実在するのか証明できないもの。もう一度思い返してみる。パワーは一瞬で、これもすぐに忘れてしまう。本当は何もないかもしれない。
 何故僕がこのようなことを勇気を出して原稿用紙に書いているかと言うと、上司に言われたからでも僕が物書きだからでもなく、これは、すぐにでも言葉にし、書き留めておかねばならないと僕の心が叫んだからだ。
 ただ、思い出せない、もう一度やってみる。
 人はパワーとか情熱とか力とか、言うもの。それを言葉として形として表に出そうとする時、苦労する。思い通りの表現、何も生まないかもしれない表現、リスクを背負って形にする。「ありがとう」とか「ごめんね」とか。
 どんなことでも。
 言葉には限界がある。それを承知で言葉を使う。いい時も悪い時も、使ったら消えたり消えなかったりする。本来は考えて使うものではないのではないか。
「それ」は身近なところにあって、いつも肩に乗っている。でも姿は見えない。僕は形の見えない「それ」を探す旅をしている。ギターは背負ってないが小さな望遠鏡を持っている。遠くが見えない時に使う。空とか、星とか。特に上を見る時。
 遠くを見ていると家からバイト先までが急に近く感じる。人と対面した時の距離はもっとミクロだ。また遠くをみると砂漠が広がってラクダに乗るスカーフが見える。あ、降りた。また乗った。歩き出す。こっちの僕も歩き出す。シンクロニシティは覚えたての単語だ、僕の見えた景色に当てはまるもの。景色をシンクロニシティという言葉に当てはめてみた。しっくりきた。
 エネルギーは色んな場所で発生している。僕がさがしている「それ」にとてもよく似ている。科学だったり自然だったり人間の心の中にまで存在している。ただ、「それ」=エネルギーとしてしまうのは違う。心に火がつく、言葉ではよく使われるが実際に火がついてるわけではない。解析し切れない普通のこと。
 この世界でぐちゃぐちゃになったものを一つにするのは無理がある。結果はいつも一つとは限らない気がする。僕の頭にフッと浮かんだ「それ」は人の数だけ正解があるだろう。
 空をみると青が見える、こんな青いところに僕達も住んでる、こんなに空が青いけど、僕たちの顔や体が青くならないのは何故か、どうして誰も疑問に思わないのだろう。洗濯機に青いズボンと白いティーシャツをいれたら青いティーシャツができあがるように。スッキリしないこと、ハッキリわからないこと、僕はごまんとあるその回答を一つにされる事がどうも納得いかない。色移り。そんだけかよって。
 納得いかない割にはがっかりしない。どうして納豆は臭いけど、あんなに好かれるのか、不思議に思わない人の方が普通だ。でも最初から、こうだったんだって、理由にならない不毛な問題。僕は「なんでなんで成人」だから、地球はどこか住みずらい。相手のズボンのチャックが空いてたら気にするくせに、納豆は普通に食べるんだ。
 思いは大きくなって人から溢れ出るときがある。実在しない「思い」というものが、何故か人から漏れる。お漏らしではない。でも「バケツの水が溢れる」といえば、目に見えないけど存在する何かを表すことが多い。もうすぐ見えそうだ。あるいはもうその人には見えているかもしれない。僕はその正体が気になって仕方がない。
 もうすぐ、わかりそう。
 音が出たりしないだろうか。音は空を飛んで僕のところまで来る。空を飛んでくるが目には見えない。聞こえる。世界は本当にうるさい。地球が回転する時、音がしているはずだけど人間の耳には聞こえないようにできている、気がする。しらない。だからほんとは凄く凄くうるさい。鼓膜が破れないほどにうるさい。僕はうるさいのは嫌いだが、色んな音があるのはなんか悪くない。でも正直そんなうるさいのは大丈夫じゃない。
 世界がうるさいと思った時、「それ」が発動する。怒り、悲しみ、喜び、憂い、僕の中にある感情たちが入り組んで入り組んで「それ」となるのだろう。
 欲望や念が入っているのは確かだ。「それ」はうおおっと持ち上がる思い、溢れそうな欲望。表現方法を見失った人間が感じるもの、だろう。空を飛んでくる音が見えないのと同じように「それ」も見えない。何次元か想像もつかない複雑な構造。
 そう、地球はかなりシンプルだと思う。水を飲む、日光に当たる、呼吸をする。道管と師管があって葉緑体があって、また水を飲む、栄養を摂る。それに比べて「それ」は複雑だ。物理的には目に見えない音も出ない触れる事もできない。できるのは感じとることと、表現すること。人の脳でも「なんでなんで成人」の脳でも解明できかねます。他をあたってくれ。と、どこまでも匙を投げられ続けてきた。
 僕も好きなように好きなだけ書けるのだから、こんなに理論に縛られていても、自由だ。自由であるのは表現する上で大事なところ。ただ、自由を手に入れるのはどの時代も難しく、好きなことを好きなように表現できるこれ。それ、どれ、どれだ。が幸せなことには変わりない。こんくらいやったっていいだろうが、伝えたいことを伝えるのにまず、自分自身が素直な状態でいなきゃいけないから、だから大事なのだ、世界がうるさい、と感じることが。「それ」を言葉にするには乗り切らなきゃいけないことがあって、でもってどうやって言葉にするか、考えなきゃならない。
 一生やってろって思うかもしれないが、僕は多分これを一生やるだろう。たとえそれが僕を悪化させたとしても、別にいい。僕には「それ」があって、僕の肩に乗っているけど見えないから、誰にも取られる心配はないし説明するのが面倒な時は「気持ち」とだけ答えればいい。
 気が治まってきた。いいだろう、いつか読んだ僕はどう思ってどう答えるだろう。明日には忘れているかもしれない「それ」を今日は捕まえておくことができた。君も楽にしたまえ。
 

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