歴史は繰り返す
人類は繰り返す
「歴史は繰り返す」という言葉がある。
この言葉は、いかに人類が愚かであるかを証明している言葉だろう。
繰り返される戦争や内乱などの人災、疫病や天災地変から生じる大惨事、人間の開発行為から生じる自然災害等。
我々は過去において様々な大きな被害を経験してきたはずだが、結局のところその歴史から充分に学ぶことが出来ず、同じことを繰り返しているのだ。
もし人類が過去から充分に学べているのなら、同じ過ちを繰り返さないはずである。
又この言葉は、そういう意味では主語を間違えている。
「歴史は」ではなく、「人類は」が正しい主語だろう。
「人類は繰り返す」。
悲しいかな、これが正しい文章だろう。
コロナ禍で露見したこと
コロナ禍に似た騒動も、我々は過去に何度も経験済みである。
ペスト、天然痘、スペイン風邪、SARS等の世界的流行がそれだ。
天災は忘れたころにやって来るもので、警戒体制を解き、予算を削り、人が入れ替わり、記録が破棄され、誰もがすっかり忘れた頃に、また新たなパンデミックがやって来たのである。
そして残念ながら、それを的確に把握し、対応し、予測し、被害を最小限に留めるための過去の資料が見当たらないのだ。
100年前のスペイン風邪では、日本でも約40万人もの人が亡くなっているのに、その当時の日本の対応とその効果の検証、一般の人々の振る舞いや思いを記した資料は、驚くほどわずかしか残っていない。
今回のパンデミックでも歴史を忘れて、そんなこと現代で起きるはずがないと高を括っていた事態が実際に起き、世界中で日本で多くの人命が失われている。
何故人はこれ程まで歴史から学ぶことが出来ないのか。
不思議に思うのである。
歴史から学べない理由
歴史から学べない理由の一つとして、例えば戦争などでは、自分達が行った直視できない程の愚かさ、残虐さ、弱さを正直に歴史に刻み付ける勇気を持たないこと、そしてその後の人々がそれを直視しようとしないことが考えられる。
事実を事実として認めようとしないのである。
世界で初めて原爆投下が行われた広島の原爆資料館に、それを行ったアメリカの大統領が初めて足を運んだのは、実に原爆投下から78年後の2023年である。
それも壮絶な悲惨さを伝える資料が保存されている本館を避け、数点の展示物を見ただけの短い訪問であったようだ。
今では、そさえも水面下の交渉でギリギリまで避けようとしていたこともわかっている。
もし見てしまったらアメリカの核戦略に影響が出るだろう、というのである。
日本においても、太平洋戦争の終戦を迎えた時、全記録と資料を焼払うように国から地方役場に命令が出され、三日三晩記録を火にくべ続けたと証言されている。
戦犯にされてしまうぞ、と言いながら皆で燃やし続けたようである。
そのせいもあってか、今日では戦争を自分達で始めていながら、他国を侵略した自分たちは可哀そうな被害者だという、世界的には訳の分からないヒロイックな被害者目線でしか戦争を語ることが出来ない有様となっている。
そして、自国とそれを支えた自国民達が加害者であるという事実がすっかり抜け落ちた映画やドラマ、報道番組ばかりが作られ、戦争を知らない世代の人々は、日本が純粋な被害者国であると信じて疑わない状況が出来上がっている。
被害者であれば、それなりに悲劇のヒロインとして心地よい涙を流せるが、アジアで多くの国々を侵略し、植民地化し、現地の沢山の人命と幸福と財産を奪った加害者であったとなればそうはいかない。
自国と自分達の先祖の行いにひたすら吐き気をもようするのは、救いのない不快な苦しみで、それは誰も見たくないものだろう。
だから当事者は中々事実を語らないし、勇気ある人が時々語っても、今の我々もそれを直視しようとしないのである。
直視する勇気がないために、そんな事実は無かったのだ、と歴史を書き換えようとする者さえ少なくないのが現実である。
一番近々の戦争についてさえこの有り様なのだから、過去数百年、数千年前の歴史から充分に学びを得るということがいかに難しい事か理解ができるのである。
歴史の頼りなさ
又、そもそも我々が「歴史」と呼んでいるものの頼りなさにも注視する必要がある。
数百年、数千年前のことを、発見されたわずかの文物だけで、こうだった、ああだった、と決定していいのかという問いは、常に僕の頭の中にある。
当時あった全ての文物の中で、現在までに発見されたものと、そうでないものはどちらが多いのかと問えば、見つかっていないもの、失われたもの、そして、そもそも残すことができないものの方が圧倒的に多いのは自明の理であるだろう。
そのことから考えて、見つかったわずかばかりのものをつなぎ合わせて、こう言う事であった、と断じるのは、そもそも無理のある行為だと思う。
爪の先ほどの発見を元に、想像と仮定を積み重ねてミルフィーユのような構築物を作り上げても、それはとても科学的な意味での事実とは呼べないし、その方法は学問ですらないと思うのである。
たまに、見つかった文物をつなぎ合わせて、その時代や出来事、人物を得意そうに断じている学者や教師を目にすると、更に歴史から学ぶことの困難を感じずにいられないのである。
歴史はファンタジーであってはならないだろう。
歴史と呼ばれるものに関わる根本的な疑念である。
歴史とは政治である
又、今日ニュースを見ていても、歴史とはつまり政治のことである、と思うことがよくある。
例えば、今でも日本の政権と行政はお互いの利益と立場を担保し合い、不都合な記録を消し続けているのである。
自衛隊は政府に都合の悪い日報を削除し、内閣府は首相の桜の会名簿を破棄し、モリカケ事件でも財務省が総理に都合の悪い記録を抹消している。
またコロナ禍では会議の議事録を保存していない自治体が問題となった。
そして何より、コロナウイルスの発生源の特定において、中国政府は武漢の研究所や市場であることを完全否定しており、欧米こそがその源だと結論付けている。
つまり今日でも都合の悪い事実とその記録は、その当事者や権力者によって日常的に葬りさられているのである。
これらも一昔前なら、権力者に都合の良い記録だけが残り、事実となり、歴史となったはずである。
歴史をどう学ぶか
これらを考えてみれば、やはり歴史から学ぶことはとても難しい行為と言えるだろう。
そして、我々が学んだ歴史にどれほどの価値があるか、正直わからない。
しかし、我々が本当に歴史で学ぶべきは、年号や人名や事象の丸暗記ではなく、不都合で愚かで醜い部分も含む当時の人間の姿そのものであるべきだろうと思うのだ。
そして、人々がその時何を感じ、何を思い、何を為したのか、その具体的な要因や背景を出来るだけ詳細に知り、分析を加え、どうすれば避けられたかを考えながら学ぶことが大切だろうと思う。
それには時間が掛かり、苦痛も伴うはずだが、それによって始めて自分たちの世代では決して同じ過ちを繰り返さないよう自戒することが出来るはずなのである。
もしそれが出来れば、いつか「歴気は繰り返す」という不名誉な言葉を返上出来る日が来るかも知れないのだ。