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理屈の星座と全部のせラーメンー「わかる」ということ

僕らはあらゆる物事を脳で理解している。

岩に穴が3つ空いていると、それが二つの目と口に見えて、
その岩が顔に思えてしまう。
人間の脳がそう解釈するように出来ているのだ。

夜空の星々を見上げれば、星と星をつなぎ合わせて白鳥やさそり、
更には勇者オリオンまで作り出してしまう。
そして、さそりが出るとオリオンが見えなくなるのは、昔、勇者オリオンはさそりに刺されて息絶えたから、もう刺されてなるものかと逃げていなくなるのだ、という神話まで作り上げられる。

しかしながら、現代の我々は知っている。
星は平面上に存在する訳ではない。
隣り合って見える星も、宇宙空間の中でとてつもない距離で隔てられていて、それぞれの星は近くにないし、それどころか星の光が地球に届く頃には、その星自体が存在しているかも定かではない。

しかし地球上から人間が夜空を眺めると、それらが結びつき、絵が描かれ、意味が芽生え、解釈され、理解されることとなるのである。

 
音楽の起源には様々な議論がある。
 
すべての音はそもそも何の意味も持っていない。
しかし、ある音が他の音と繋げられると、勇ましさや悲しさ、喜びや興奮といった、人間にとって何かしらの意味のあるものに感じられる。
そのように、一つ一つは何ら意味も持たない音符をつなぎ合わせることで、人の脳内の感受性にとって何某かの感情や意味をなす繋がりが作り出されるのだ。
それが音楽の発生、起源ではないだろうか。
 

現代でも、我々人間が何かを「わかる」時、理論理屈を作る時、感覚感性に訴える時、これと同じことをやってはいないだろうか。
つまりは「わかる」とは、理屈の星座や感覚の楽曲を作っているに過ぎないのではないだろうか。
事実や理屈や感覚を繋げて、何か人間の脳にとって意味のある構造体を作り上げる行為。そしてそれを受け入れる行為。
これが「わかる」、ということではないだろうか。
だとすれば、それで物事の本質やそのもの全体を理解した、把握したというのは、とても無理があるのではないだろうかと思うのである。
 

世の中には様々な論や説や解釈が満ちているが、この考えが頭に浮かんでからというもの、何か全てに虚しさを覚えてしまう。
確かにそういう理屈は成り立つけれど、感覚的にぴったりくるけれど、それで物事の本質や全体を掴んだことには決してならないんだろうな、と何処かで思うからである。
 

「わかる」についてもう一つの考察。

ラジオで活躍している伊集院光氏が言っていた。
自分はある意味いつも嘘をついて喋っている、と。
何故なら、ある出来事を話す際に、必ず事実の取捨選択をしているのだから、と言う。
面白い話をする際には、悲しい部分やつまらない部分は言わないし、
悲しい話にするなら、逆にその時起こった笑ってしまった部分や、悲しみとそぐわない部分の話はしない。
例えて言えば、この世は「全部乗せラーメン」で、それをネギラーメンにしたいならワンタンやコーンは取りさらなければいけないし、
ワンタン麺にしたければネギやチャーシューは入れてはいけない。
そういう趣旨だった。
卓越した考察だと思う。

確かに小説や映画、ドラマや漫画全ての物語が我々にすんなり「わかる」のは、厳格な情報の取捨選択があるせいだろう。
そして僕らも、現実の世界で人物や物事を理解する時、誰しも先に何ラーメンにするかを決めていると思うのである。
ニュースで報道される殺人事件であれば、その殺人者が行った優しい行動やその人の愛情物語を知ろうとせずに、殺人者となるのにふさわしい殺伐としたエピソードや孤独を感じられるエピソードを知って、それらを事件を繋げることでわかった気になるのである。
しかし、それは全て主張に合わせ、都合の良い事実だけを繋げたもので、
それでその事件やその人をわかったことにはならないだろう。
それは作為的な視点から、矛盾しない事実を編集したわかりやすい物語を眺めているのに過ぎないのだから。
 
そんな事を考えていると、わかった、と感じる事、その感覚自体が愚かな、罪深いものに感じられるのである。
しかし人間は脳で「わかる」訳で、その「わかる」ものとその脳のあり方は必ず対応しており、それ以外のものはわかりようがないのだから、仕方がないといえば仕方がなく、それまでである。
 

できるだけ様々な「わかる」を積み上げて、物事を多面的立体的に理解することで、物事の本質にどこまで迫ることができるかは不明だが、それが人にできる精一杯の「わかる」である。
 
わからないことをわかりつつ、謙虚に多彩なわかったを積み上げていくしかないのだろう。
 
ということがわかったが、さて、この理屈も怪しい限りである。

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