![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/171418700/rectangle_large_type_2_700f447add294558d5a26f1df2020534.png?width=1200)
「生命のたくらみ」
生命が求めているたったひとつの事
すべての生物は、突き詰めればたった一つの事しかしていない。
それがタンポポであっても、殿様バッタであっても、三毛猫であっても、人間あっても皆同じだ。
何故そうなのかは今のところ宗教的には明示されているが、学問的、科学的には全く謎のままである。
僕等生物が生れ落ちてから死ぬ瞬間まで、絶え間なく、執拗に、熱烈に行い続けていること。
それは突き詰めれば「存在する」ということだろう。
全ての生物が「存在する」ことを痛烈に求め、そのために生き、そのためにあらゆる行動をとっていると言える。
この場合、主体となるのは自分という意識や個体ではない。
内部にある遺伝子がそれにあたるのかも知れない。
リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』で述べているように、我々個体は遺伝子のヴィークルであり、全ての生物は遺伝子を存在させ、運ぶための生存機械なのかも知れない。
あるいは、生命そのものが主体であり、その生命を存在させるために遺伝子や意識があると考えれば、主体は生命ということになるだろう。
僕としては、遺伝子は生命の成功体験談集とでも言うべきもので、こうであったら今まで命を繋げたという情報を集積したものだと思っている。
もっと高尚な言い方をすれば、生命の「聖書」のようなものとも表現できるだろう。
いずれにせよ、我々の体の細胞の一つ一つが、我々に常に「存在すること」を求めている。
我々生物は、この生命が発する、存在せよ、という唯一無二の大号令のために、ありとあらゆる行動をしていると考えられるのだ。
体が求めていることを発見する
ちょっと待って、単細胞生物や植物、昆虫くらいならそれで説明がつくかも知れないが、我々人間は自分で考えてどうするか決めているじゃないか、とほとんどの人は言うだろう。
生命や遺伝子の言うことを聞いて行動したことなんか無いと。
しかしそれは違うのだ。
我々人間も同じで、生命のオーダーに基づいて常に行動しているのだ。
この事に僕が気づかされたのは、妻が妊娠していた時の事だ。
妻はもともと小食であっさりした食べ物が好きなのだが、妊娠してしばらくすると食の好みは一変してしまった。
今まで一度も自分から食べたいと言ったことのない焼肉が食べたいと言うようなったのだ。
焼肉店に行くと、僕よりも多くの山ほどのカルビを美味しい、美味しいと言いながら食べ続け、僕を驚かせた。
その後も、毎日のように焼肉が食べたい、というので頻繁に焼肉店に通っていたのだが、そんなことがしばらく続いたある日、また焼肉を食べに行こうかと誘うと、今度は川魚が食べたいという。
焼肉は考えただけで気持ち悪い、というのである。
川魚も妻の好物ではないので違和感があったが、妻はそれを大いに喜んで食べるようになった。
そしてその後も、同じようにある日突然、何の前触れもなく妻の食べ物の好みは変わった。
何の脈略もなく食べたいものが変わり、昨日まで大好きだった食べ物が、今日には大嫌いになるのだった。
きっとそれは、お腹の中で子どもの体を作るのに必要な栄養分が刻々と変わるからなのだろう。
そのこと自体は何も珍しいことではない。
しかし僕は、その時に理解した。
人は何かを好きになるのではない。
自分の体がそれを求めていることを、自分が発見しているに過ぎないのだと。
だから自分の意志や考えで自分が好きになるものを選ぶことは出来ないし、好きだと感じるものを嫌いになることも、嫌いだと感じるものを好きになることを出来ないのだ。
何を美味しいと感じるか、何をまずいと感じるか、それさえも自分で選ぶことは出来ないのだ。
そしてこれは食べ物だけに限ったことではない。
対象が人であっても、物であっても、事であっても、何であれ同じことが言えるだろう。
人間は自分で好きなもの、嫌いなものを選ぶことは出来ない。
それはあらかじめ決まっていて、自分はそれに気づき、認めるいるだけなのである。
「存在せよ」というコマンド
では、それを選んでいる主体は一体何なのか、という問いが生まれる。
その答えは、自分の意思や考えなど自分でコントロールできるものではないとすれば、自立的に身体の中に存在するものということになる。
身体の中にあり、自分の意思ではまるで制御できず、逆に自分の感情、感性、欲求を制御するもの。
僕達の体に宿る本能の在りか。
それを科学的に解明することはまだできていないが、それは生命そのもの、もしくは、遺伝子と言うのが答えになると思う。
つまり生命が、僕や妻が食べると美味しいと感じる物、食べたいと感じる物、食べるとまずいと感じる物、食べたくないと感じる物、を決めているのだ。
しかし、一体何のために?
そう考えた時、冒頭で述べた答えに、全てが結びつくことになる。
つまり「存在する」ため、である。
それが生命が求めている唯一無二の要求なのだ。
我々はその要求に答えるためにありとあらゆる行動をとっているのだ。
生命は自分が存在するために、遺伝子が乗り合わせた全ての個体に「存在せよ」というコマンドを出している。
生命が存在するためには、実に様々なことが必要だ。
我々生物の個体は、その要求を叶えるために、生まれてから死ぬまで、日々かいがいしく必要な行動をとっている。
長期的な視野から言えば、生物の進化もその一部だろう。
感覚と感情で個体をコントロールする
では、生命はどのように個体をコントロールしているのだろうか。
僕は、生命は個体に感覚と感情を生じさせることで、その個体をコントロールしているのだろうと考えている。
存在する事に必要なあらゆる行為をさせるために、脳内に様々な物質を放出するなどして、意識の中に感覚や感情、欲求を発生させることで、その個体の行動は制御できるのだろう。
代表的なものとしてはホルモンがあるが、その他にも脳内化学物質としては、興奮を司るアドレナリンや幸福感をもたらすセロトニンなどが知られており、その他にもドーパミンやエンドルフィンなど現在見つかっているだけでも100以上ある。
例えばこれらが、まずは我々の行動の基となる感覚や感情、欲求を起動し、それにより具体的な行いを制御しているのだろうと考えられる。
妊娠中、妻に肉や魚を食べさせたり、止めさせたりしながら、自分の遺伝子がより健康に、つまり良い状態で次の個体に引き継がれ、生命が存在出来るように指令を出していたように。
これに様々な経験や学習が重なり、感覚、感情、欲求はより複雑に細かく枝葉を広げていき、我々はそれに一生従うこととなるのだろう。
より良いコンディションで
生命は自らが存在することを可能にするために、より良い、より有利な状況や環境を常に求めるだろう。
より良いコンディションや環境は、存在確率を上げるのに欠かせないものだ。
もちろん個体数もより多い方が、消滅の危機やアクシデント、環境の変化などに強く、ピンチを乗り越える要素になる。
そして個体がそれぞれ少しづつ異なる事、つまり多様性があることも、様々に異なった環境や状況の変化に対応して生き残っていくことを可能にする意味で重要である。
そして種の集団の中においても、ヒエラルキーのより上位にあることが個体には求められるだろう。
生命の感覚的、感情的導き
生命は脳内物質の放出等の何等かの方法で、個体に感覚、感情、欲求を生じさせ、その個体をコントロールしている。
我々が日々感じているあらゆる感覚、感情、欲求は生命を存続させるためにあると言えるのだ。
痛い、かゆい、気持ちいい、疲れた、美味しい、うれしい、悲しい、怖い、好き、嫌い、欲しい、逃げたい、幸せ、つらい、愛しい、苦しい等々。
感覚感情は、生命が自らを守り、存在させる行動をとらせる為に出している指令のようなものだろう。
ラジコンカーにコントローラーから電波信号を送り、行動を取らせるようなものである。
そして、我々人間もご多分に漏れず、これらに従いながら生涯を生きているのである。
例えば、綺麗な服を買うとテンションが上がるのも、
家の中に観葉植物を置くと気持ちが落ち着くのも、
友達が出来るとうれしくなるのも、
出会った素敵な誰かを好きになるのも、
全て生命の感覚的、感情的導きなのだ。
これらを生命の要求の文脈で説明してみると、
綺麗な服を買うとテンションが上がるのは、より綺麗にかっこよくなれば、異性に求められる確率が上がり、自分の遺伝子をより多くより優れた相手との間に残すことが出来るようになる、あるいは自分が他者よりも上位であることを示し、生存競争の優位に立てている、という解釈が成り立つ。
家の中に観葉植物を置くと気持ちが落ち着くのも、
自分がいる場所にきれいな植物が葉を広げていると言うことは、そこが肥沃な土地であり、水が豊富で、日当たりが良いことを示しているので、生命にとって生存環境が良好だという証拠になるだろう。
友達が出来るとうれしくなるのも、自分の仲間を増やすことは、他のグループとの対立や、古くは獲物を狩る時などに、お互いを守り、協力することが出来、生存には欠かせない大事なものと言えるからである。
出会った素敵な誰かを好きになるのは、素敵な、つまり優れた特徴を持つ異性は自分の遺伝子との配合相手として、とても重要だからなのは言うまでもないだろう。
つまりは、全て生命の感覚的、感情的導きであるという解釈が成り立つのである。
我々は事後承認するしかない
生命は僕達に様々な感情や感覚、欲求を生じさせ、その行動を制御し、自らが常に存在できる、存在しやすいようにコントロールしているのである。
それを逆に言えば、我々の全ての行動は、生命を存在させることに帰結するのである。
これは驚くべきことではないだろうか。
我々は自分というものがあり、自分の意思があり、それに基づいて物事を行っていると信じている。
しかし事実はそうではない。
自分の意思の前に、何をどう感じるか、どんな感情が湧くかは生命が仕切っており、自分はそれを事後承認するしかないのだ。
だから例えば恋をするにしても、自分が誰を好きになるかを決めることは出来ない。
そして、その人を好きになった人を嫌いになることも、自分には決定が出来ない。
何度失恋しても痛い目にあっても、また生命と遺伝子が求める人に出会ってしまえば、あっという間にまた恋に落ちてしまう理由もここにある。
自分である方法
では、人は生命のたくらみに操られて、笑ったり泣いたりしながら人生を送るしかないのだろうか。
この問いには以前書いた『自由になる方法』という文章がその答えになる。生命のたくらみ、要求から自由になるには、物事を自分の頭で考え、結論し、それに従うことだ。
自分で考える、ということが重要なのは、世の中から自由になるだけでなく、生物学的見地から見ても大変重要なのである。
生命はすべての個体をコントロールしている
多分全ての動物に感覚と感情がある。
何故なら、生命は同じように全ての生物に、生存せよ、と命令を出しているし、そうであればその個体を操る方法は、同じようにその個体に様々な感覚と感情を呼び起こす事によるだろうと思われるからだ。
母猫が生まれたばかりの子猫たちを優しい声と共に抱きしめるのを見たことがある。
愛しいという感覚、感情がなければ、あり得ない光景だろう。
その愛しいという感情がなければ、母猫が何日も飲まず食わずで子育てをするはずがなく、猫という生物はとっくに絶滅しているはずなのである。
生命のたくらみ、人類の役割
生命は感覚、感情、欲求で全ての個体を動かし、自らを存在させ続けている。
この「存在せよ」と言う生命の要求は、宇宙のどこかでいつか発生し、地球にもたどり着いたのだろう。
そこに何らかの意思があったのかどうかは誰にもわからない。
しかし、地球も太陽も銀河も、そして我々のいる宇宙自体にも、多くの科学者たちは終わりがあることを示唆している。
気候変動、巨大隕石の衝突、氷河期の到来、放射能汚染などの予測される危機の他にも、避けようのない星の寿命に伴い、生命は唯一の命題である「存在すること」を絶たれる運命にあるのだ。
その予測されるピンチに対して、地球上で唯一知性を持った生物である人類が、生命に何を期待されているかは明らかだろう。
知性で築き上げた科学技術をもって、様々なピンチから生命を守り、存在させ続けることが我々人類に託された仕事であろう。
それは具体的には、自分達人類を守ることで行われる。
ありとあらゆる地球の環境変化に科学技術で対応する事。
別の星に人類と他の生命を移住移植する事。
地球に衝突する惑星を避ける為にミサイルでその軌道をそらす事。
それらを行うには、地球上の生物の進化のスピードと多様性では足りないのだろう。
多種多様な生物間の遺伝子操作とその融合や、人工知能、機械と生命の融合による人類の知性を超えた知的生命体を生み出すことも、生命のシナリオの中に組み込まれているだろうと思う。
そしてだからこそ、もし人類が生命全体の存続に支障を来たす存在となった場合には、生命のシステムが人類を抹消することもあるだろうと思われる。
恐竜を初め、今まで地球上の多くの生物種が絶えず絶滅と進化を繰り返してきたように、生命はある特定の種や属などの形にはこだわらず、生命そのもの、生命自体を存続させることを求めていると思われる。
端的に言えば生命でありさえすれば、形などはどうでもよいのではないだろうか。
形は生きる為に必要な機能が環境に対応するためのもので、実証実験的にどの形がより環境にフィットするか、多様な生物を生み出し、個体差をもってトライアル&エラーを繰り返しているということなのだろうと思う。
つまり人間が何らかの理由で絶滅したとしても、他の生物が生き延びさえすれば、生命としてはそれはそれで問題はないということになるだろう。
その後も生命のたくらみは支障なく続いて行くのだから。
しかし「存在すること」という生命の命題はわかったとしても、それが何故なのか、どうして必要なのか、それがどこから来て、どこへ行くのか、それらは全くもって謎のままである。
人類が今後それらを理解できる日が来るかどうかも疑問ではあるが、その巨大な絵のピースを少しづつでも集めることが唯一理解へ近づく道筋だろうと思われる。
僕は僕なりに、この世界について、生命について少しでも多くの事を知り、理解したいと思う。
自分が何者なのか、自分が生まれてきたこの世界がどんな場所なのか。
それすらわからずに死にたくない、という強い思いがある。