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視点の散歩
このところ、休みの日に毎日散歩をしている。
始めた頃はあちこち適当に歩いていたのだが、続けている内に、いつの間にか自然とコースが二つに定まってきた。
最近はそのAコースとBコースのうちで気が向いた方向に行っていてのだが、今日はそれにも飽きてきたので、Bコースをいつもの逆からぐるりと周ってみることにした。
すると、平均して週に一、二度はこの道を歩いているのだが、通りの景色は一変して見えて、大げさに言えば何だか違う通りを歩いているようにさえ感じられた。
いつもは右側に眺めながら通り過ぎていた丸亀うどんが、逆方向から見ると意外に大きくて堂々とした建物だということ、
ブックオフは駐車場が深くて広いが、店舗の裏はかなり塗装が剥げて傷んでいること、
線路脇の大きな街路樹の後ろには、今まで知らなかった爬虫類専門店がこじんまりと存在していることまで、今まで見えていなかったものや、新たな印象が沢山見出された。
正直、ただいつもの散歩道を逆向きに歩くことで、こんなにも沢山の発見があり、印象が変わることが改めて意外で驚きだった。
人の視点というのは、見ているものは同じでも、それぞれの位置やルートで全く違う発見があったり、異なる印象を持つことになるものだと改めて思い知らされた。
しかも驚くべきことに、どの視点から見えている風景も、紛れもない事実なのである。
これは具体的なものも、そうでないものも同じことが言えるのではないだろうか。
そう考えると、人の意見や感想、自分と違うものの見方を、どんなものであれ否定せずに、その人の道筋と視点からはその景色が見えているのだな、と受け入れてみることはとても大切なことだと思うのである。
※ ※ ※
コロナ禍に通勤途中に聞いていたラジオ番組で、
政府と東京都が今回のコロナ禍でソーシャルディスタンスや三密、東京アラートなどに巧みなネーミングをして国民に浸透させているのは素晴らしい、という意見をニュース解説者が言っていて、
そんなバカな意見はないと憤慨したのだか、
これもその人の視点からはそう見えているのだと一度受け入れてみると、
なるほどと思えてくる要素がある。
密集、密接、密閉の三密は僕もわかりやすくてよいと思っていたが、
それ以外は全てカタカ英語であるせいで、イメージ化してしまい、一番肝心な意味が伝わらないし、具体的でなくなるのでいらない誤解まで生じてしまうと考えていた。
ラジオのパーソナリティは僕と大体同じ意見らしく、解説者にそれはちょっと違うでしょ、と反論していたのだが、このタイプの意見の相違は、まさに異なる視点による風景の違いかも知れない。
確かに物事を単純にイメージ化することは、覚えやすく、人々の口に上りやすくなる効果はあるし、マスコミも扱いやすく、結果として素早く世の中に広まるだろう。
その視点で見てみれば、政府は知恵を発揮したといえる。
この視点で見えた利点は利点として否定しないで、今後も利用できるものでもあると思う。
しかし一方で、コロナ禍という緊迫した情勢の中で、それが何を意味しているのか分からなくてよいはずはない、という視点は相変わらず重要だと思う。
小さな子供からお年寄りまで、都会から田舎まで全ての国民に周知しなければいけない状況で、本当に東京アラート発出されました、ソーシャルディスタンスをお願いします、でよかったのかどうか。
この二つの視点から見えるそれぞれの利点欠点を検討して、より良いものに融合できないか探ってみることはとても重要だろう。
誰にでもわかりやすく、そして覚えやすい新しいネーミングを作ることが
具体的には考えられる案だろうと思う。
人の数だけ視点があるし、その視点から見える景色はまさに千差万別になる訳だが、その多様な風景が全容をより立体的に見せてくれるはずである。
そしてその景色と視点の前後に連なるその人の文脈を、一度自分の中に受け入れてみることは、自分の視野を広げ、物事を多面的に見る上で大いに役立つだろうと思う。
人はそれぞれ自分が日々積み重ねる人生という物語の文脈の中で、新たな物事や情報と出会い、捉えている。
その辺りに、時に人の意見が突飛なものに感じられる原因もあるのだと思うのだが、自分の視点と文脈だけに執着せずに、時には他人の視点と文脈を渡り歩く「視点の散歩」をすることはとても意味のある行為だと思う。
例えそれをするのが、大変想像力の必要なしんどい作業であるにしても、
そこから得られるものは少なくないはずである。