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人生には自力の及ばない喜憂が必要

ここ数日、ため息ばかりついていた。

魂を削ってはさらけ出して渾身の新曲を発表しても、この世界にもぼくの視界にも何ら変わりはない。生活を犠牲に膨大な時間を費やしてミュージックビデオをつくってみても、まるで話題にも上らないどころか誰の目にも止まらない。試しに新しいグッズを売り出してみても、注文の通知は悲しいほどに鳴らない。

大変ありがたいことに、ぼくの作品を気にかけてくれる方もいてくださる。褒めてくれる方も、広めようとしてくれる方も。これは本当に嬉しいことであり、心から感謝も湧きあがる。

だけど、ぼくの持って生まれた卑屈が、なんとそこに横槍を入れる。具体的なことはあまりにも醜いので書かないが、破綻した論理がどういうわけだか自己嫌悪を生む。

自己嫌悪と同時に、他者や社会への厭忌の心からも逃れることはできない。戦争も差別も性犯罪も止むことはなく、もっと小さな不快の種もあちこちに山ほど転がっている。少なくともぼくには、希望の兆しさえ見出すことができない世の中に見える。

加えて、活動報告や宣伝のついでにソーシャルメディアを覗いてみると、愛も変わらず地獄の様相を呈している。むしろ、ますます酷い有様になっているかもしれない。ユーモアや倫理観、知性、品性、個性の欠如した文言と画像ばかりがずらずらずらと並び、肯定的な記号であるはずのハートマークの隣には大きな数字がみるみるうちに膨れ上がっている。

何もよいことはないぞと我に帰り、液晶画面から目を離してみれば、眼前に広がるのは慢性的に経済的に絶望的な暮らしである。しかもこの絶望に拍車がかかることが、すでに予定されているから恐ろしい。

ぼくはいつもの通りメモ帳に救いのない言葉を書く。少しだけ不貞寝もする。忘れていた食事を雑に取る。

悲しい日々のリフレイン。その何度目かが暮れるころ、国立競技場で開催されたJリーグの試合で、贔屓のチームが勝利した。

得点の決まった二度の瞬間と、試合の終了を告げる笛が鳴ったとき、ぼくは声を上げ拳を握って喜んでいた。

この勝利という結果に、ぼくは何も関与していない。自宅で映像越しに応援していただけである。それでも、今、脳みその大部分を満足感や幸福感が占めている。

そして、この他力による祝杯に対しては、いくら我がたくましい卑屈をもってしても手を出すことは叶わないようである。

こうやって、自分ではコントロールすることのできない対象に一喜一憂できること。その存在が、この息苦しい世の中で自意識過剰なぼくたちが息をするために、とても大切なことなのだと思った。

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