ぼくは、忙しない
いまさら改めて言葉にするまでもないことであるが、どうにも忙しない世の中である。人は日々、未知の刺激を求め、新たな出会いを探し回る。駆け回るこの刹那的時代時代と並走するためには、必死に足掻くくらいがちょうどいい。視野の狭い自分を省みて主格を狭めれば、「ぼくは、忙しない」。
焦りは鑑賞においても例外ではない。むしろ、最も頻繁にその傾向が表れる場といえるかもしれない。映画や文学や音楽に触れるとき、ともすれば「消費」の語がより適切な言葉として名乗りをあげかねない。「観た」というために観、「読んだ」というために読み、「聴いた」というために聴く。そして、その行動自体に、ただ満足するのである。
足掻く人の表情は、きっとみっともない。必死なさまは一歩といわず半歩も引いてみれば、十分にはしたない。作品を楽しむことよりも、より多くを知っていることを求めてしまう自分に気づき、醜いとさえ感じた。
ならば、抗ってみようと思った。
抗うには、年の明けた勢いを借りた。例年に違わずのんびりと過ごす正月。スーパーマーケットで買った簡素なおせちをつまみながら、『パルプ・フィクション』のブルーレイ・ディスクを再生した。かつて繰り返し観た映画は、その日も、ただただ、おもしろかった。知識も経験も得ることはない二時間が流れた。それから、一月の間、好きな作品ばかりに触れてみた。好きな映画、好きな小説、好きな音楽。気づけばどれも久しい鑑賞であった。
好きな作品に対して抱くのは「やっぱり好きだなあ」というばかみたような想いである。ばかには違いないが、ただばかにできたものではない。この「好き」を煮詰めれば、今後作品を味わう上での指針になり、何かを作るときの教科書にもなるのだ。
真面目な顔をして、淡々とふざける。重要な瞬間を、どうでもいい仕草のようにさらりと描く。くだらないやりとりや出来事が引き金となって、物語が先へと進んでいく。なんでもない言葉が、人物と物語の力で強い意味を得る。ストーリーに直結しない背景の描写がやけに詳しい。――好きなものは、どれも同じ空気をまとう。息の長い文や、カメラを固定した長回しの映像にどきどきする。没入感より、むしろカメラや筆が意識されるほうが心地よい。
あえて足を止めて本棚の中身に触れるからこそ、ようやく自分の好みを意識することができる。言葉ではなく実感として、これらを体内に留めておくことが望ましいだろう。
ところが、この二月、ぼくはまた忙しなく生きてしまうことになる。週末になれば映画館へ通い、封切られたばかりの映画を二本三本と続けて観る。家にいれば、まだ読んだことのない名著をめくり、難しい表現もわかったふりをして無理矢理読み進めていく。ミュージシャンを名乗る以上、音楽の制作も止めるわけにはいかない。二週に一度の配信に間に合うよう、MANバーサスのYouTube動画も編集しなくてはならない。新しい趣味として、簡単なアニメーションの制作もはじめた。絵を描く間には、日々リリースされるアルバムを片っ端から聴いていく。勉強も手放してはいない。門外漢として横目で見てきたプログラミングとモーショングラフィックスを、一から学んでいる。サッカーだって観たい。応援するユヴェントスと横浜F・マリノスの試合だけは、毎節フルタイムで観戦する。次の対戦相手を研究することは、残念ながら諦めてしまったが。
やりたいこととやらなければならないことをすべてこなすには、当然のことながら、それに応じた時間がかかる。しかし困ったことに、ぼくには体力がない。睡眠時間は人一倍長く取らなければ、一日中眠くて仕方がない。夜を削れないのであれば、当然、他に犠牲が出る。
ゆっくりウイスキーを飲む時間がなくなった。スパイスからこだわったカレーをつくる時間がなくなった。あてもなく散歩する時間がなくなった。類する時間が悉くなくなった。これではいけない。どれもこの上なく大切にしていたはずだ。一月のように好きなものに触れる時間も、もちろんなくしてはいけない。
鑑賞と制作と勉強と生活を、いずれも欠けることなく成り立たすにはどうすればよいのだろうか。この二ヶ月を経て三月、以前に書いた文章ではないが、よい塩梅を求めたいものである。
ところで、毎日九時間は寝過ぎであろうか。