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日常的なエッセイが書きたい

再三くり返しているように文章を書くのが遅いものだから、そもそも筆を執るまでの腰が重く、ここへの投稿もなかなか定期的な習慣とすることができない。

執筆が未だ生活に溶けきらぬ現状においては一本のエッセイを書くに至るまでに大きなエネルギーが必要となるが、平生が無気力なぼくにそれを繁くは求めづらい。たまたま原動力が湧くとすれば、何か外的なきっかけがあって人生全体を張り切ろうというやる気に満ちているときか、そうでなければ逆に、絶望に打ちひしがれて気がひどく滅入っているときであろう。

だから、書くのは精神状態がこの両極のどちらかに振れているときにばかりになる。平常でない脳をもって考えるのであるから、当然、その心の内の反映された文章ができあがる。極端な感情の発露した文章は、やはり極端である。極端な文章の振れ幅は狭い。遊びもゆとりもない。つまり、どうしたって——ようやく二種類には分けられるが——似通った内容になってしまう。しかも、専ら「意欲の宣言」か「自己の批判」に限る。

読者としてのぼくに意見を乞うてみれば、多くの場合、読んでいて心地よいエッセイはそういうものではない。それは、日々の暮らしの中で気づいた小さなときめきであり、何の教訓にもならないがことあるごとに思い出す少年時代の失敗談であり、何度も観た映画のさして重要ではない一場面の描写である。

こういった平熱を持つエッセイを著す者は、その魂も平熱でなければならない。大きなエネルギーに頼ることなく文章を書くには、執筆そのものを日常化する必要がある。

さて、ならば、まずは訓練である。意識的にそれらしいものを、無理にでも書いてみることを反復するしかあるまい。いきなり著しく熱量を下げる——あるいは上げる——ことはできないかもしれないが、少しずつ段階的にでも求めていくこととする。

——と、これもまた湧いた意欲を利用して書いたものであるから、つまりは、まだ信用ならないものである。

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