読書のある日々が戻ってきた
ずいぶん久しく本を読まない日々が続いていたが、数日前からまた暇さえあれば活字を追う生活が戻ってきた。暮らしの中に読書が入り込むと、その一日は途端に豊かな気配を醸し出す。読まない間は気づかないものだ。実際に比較したとき豊かであるかどうかはわからないが、確かにその気配を醸し出す。
朝、予定より早く目が覚めることがこの頃よくある。これまでなら「もう少し寝られるな」と二度寝をかますのが常であったが、今では「二章くらい読める」などと枕にあっさり別れを告げられるようになった。
ううんと伸びをして目薬を差し、湯を沸かす。近所のコーヒー屋で買ったコロンビア産の豆をポーレックスのミルで挽き、90度の湯をぽたぽたと垂らす。ガラスのサーバーに溜まった——色弱のぼくには黒としか表現できない——その熱い液体を、あらかじめ温めておいたスヌーピーのマグカップに移し、ぼくはダイニングテーブルに着く。ずずずとひと口すすったところで読みかけの本を開くと、ほら、豊かな気配が醸し出されている。冷めるにつれて変化する風味を楽しみながら、ページをぺらりぺらりとめくるとき、できれば背筋はぴんと伸びていたほうがさまになるのであろうが、慣れ親しんだこの背中の丸みはどうにもその形状を保ちたがる。
そもそも、早くに目が覚めるのも読書のおかげだろう。睡眠にとっては悪しき敵役であるスマートフォンの画面を眺める時間が置き換えられることにより、その板の発光に目を覚醒させられることも、SNSに蔓延る悪口に蝕まれ睡眠の質が低下するおそれもなくなる。反面、物語に夢中になるあまり夜更かししてしまうことも少なくないが、Tumblrのダッシュボードを眺めすぎて眠れなくなるより余程いい。
そして、ベッドでの読書には古代より続く人類共通の悩みがつきまとう。皆様にも経験がおありであろう、その「姿勢について」である。仰向けに寝転び本を掲げるようにして読めば、持ち上げた腕が次第に痛くなってくる。翻り、俯して肘を支えに読んでみると、これもやはり腕が疲れる。ならばと右や左を向いてみても、これもまた必ずどちらかの腕が宙に浮くことになる。つまり、いかなる姿勢を選ぼうとも腕への負担は避けられないのである。現状見つかっている唯一の回避策として、俯せになるが肘は立てず頬を枕につけ、その横に本を開き添い寝する形がある。だが、これは見目が余りに悪い。体全体をだらりと布団に委ね、枕に押し付けられた頬がぷにゃりと鼻方向へ肉を寄せる様子はなんともみっともない。これでは豊かな気配を醸し出すことなどできるはずがない。
休日には、自宅以外でも本を読むことがある。たとえば映画館から映画館へとはしごするその間に空いてしまった中途半端な一時間にふらりと立ち寄った喫茶店で本を開く。
複数人のひそひそと話す声が入り乱れることにより発生する、内容が把握できない程度にがやがやとした音の連なりは、案外集中するのに適しているように思う。しかし、そんな理想的なざわつきは頻繁に与えられるものではない。隣の席で男女が仲睦まじく愛を語りあったり、後ろの席でネイティブスピーカーによる一対一の英会話教室が開催されたり、向かいの席で若いビジネスマンたちが最新のAI事情をはきはきとした声で交換していたりすると、どうしても意識は耳に奪われてしまう。ある種類の会話やある質を伴った話し声は、環境音ではなく意味を帯びた言葉としてぼくの大脳の言語野にずかずかと入り込んでくる。そんなときはイヤフォンで耳を塞ぐ。さらに、ざあざあという雨の音を再生してその隙間を埋める。雨音のそぐわないほど晴れた日などには、川のせせらぎやホワイトノイズを鳴らすこともある。ちなみに、もちろんこのときもぼくの背中は丸い。
さて、今更書き改めるまでもないことであるが、読書はよいものである。何も生活の中で豊かな気配を醸し出すことだけを求めているわけでは、もちろんない。薄い薄い紙の重なりが、その一枚一枚に並ぶインクの列が、あらゆる世界をつくりだす。考えてみれば不思議なものだ。そこには、夢の世界も青春のきらめきも異国の生活もある。去年の後悔や明日の悩みもある。はたから見ればただ手元の本を眺めているだけに見えるかもしれないが、ぼくの心は全然旅に出ている。みっともない姿勢だと眉をひそめるかもしれないが、ぼくの心は全然ときめいている。読書はよいものである。
今、思い出したことがある。学生時代の手帳に記された、30歳になったら小説を書きはじめるという誓い。来月、ぼくは31歳になる。小説は、まだ構想すらない。とにかく一行や二行でも書けば、それは「小説を書きはじめた」ことになるだろうか。