あんまり意味ないからもうがんばらないことにする
九月、ポッドキャストを始めた。質問を募集して、投稿をいただいたら配信する不定期の番組。
ありがたい(そして意外な)ことに何件かのご質問をいただいている。そのくせに配信が早速滞っている。ここ数日も、何度か録ろうとした。だけど、途中で脳みそがすべての思考を止めてしまう。録音と停止を、繰り返す日々。
今日もそうだった。だからお酒を飲んで、また別の停滞であるこのnoteに向かうことにした。これは自らに言い聞かせる目的でタイプするが、今日の執筆はこれまでとは違う。何が違うかというと臨む姿勢が違う。
まめに更新できない理由はわかっていた。ひとえに、時間と労力を割き過ぎるからである。ポッドキャストは録る前から話す内容を細かく考え、話しながら何度も言葉を言い換え、丁寧に編集してからアップしている。エッセイも、てにをはをあれこれ入れ替えては文と文章のリズムに納得いくまで(納得は最後までいかないけど)推敲を重ねてから投稿している。これでは重荷にもなろう。そもそも向き合う力加減を間違えていたのだ。
ポッドキャストを真剣に聴く人なんて、noteの記事を真剣に読む人なんて、たぶんいない(ディスプレイに横書きの日本語を真剣に読める人なんているのかな)。泡立ったスポンジで食器をこすりながら聴いているだろうし、電車で好きな音楽を味わう脳の余った部位で斜め読みしているはずだ。
つまり、これまで膨大な時間を費やしてきたある種のこだわりは、明らかに無駄なのである。
だから、この記事からはじめてみる。表面の執拗な研磨をやめてみる。文体も和らげてみる。——みている。これまでは、聴いてくださる方への、読んでくださる方への、それが敬意だろうという気持ちでいたけれど、ソーシャルメディアにおける反吐の撒き散らしあいを見ているとばからしくなるばかりで、自分は少しでもそれに抗おうとしていたけれど、本質を見誤っていたのかもしれない。大切にしたい美意識の本質は、そこにはおそらくない。
これからはできるだけ手を止めずにばーっと書いて、最後の句点を打ったあとで一度だけ読み返すことにしよう。誤字脱字の確認程度に。Webメディアに掲載されているプロの文章ですら大して推敲されていないように見えるし。
それと、千字以内で終わろう。ディスプレイに横書きの日本語だから。
ああ、また、執筆に対する反省と意気込みを書いてしまった。しつっこい。