観る映画を選ぶ時間が長すぎる
映画館へはほとんど毎週通っているのだが、そうでない日には自宅で映画を観ることも多い。いつものデスクにちーんと、あるいはテレビの前にどっかと座り、時にはベッドでiPadと添い寝して、U-NEXTやNetflixやDisney+やAmazon Prime Videoで配信されている膨大な作品群、もしくは棚にずらりと並べたBlu-rayの背表紙から、その時の気分に見合ったタイトルを選ぶ。
この、いかにも幸福めいた一連の行動の中に、大きな問題がある。最後の「その時の気分に見合ったタイトルを選ぶ」工程が、いつも呆れるほど長くなってしまうのだ。それこそ映画を一本まるごと観られるくらいの時間をかけて悩むことも珍しくはない。なぜそんなことになってしまうのだろうか。おかしい。明らかにおかしい。
例えば知人に勧められるとか、例えばTwitterで感想を目にするとか、例えば好きな監督が影響を受けていると知るとか、例えばTumblrに流れてきたGIFアニメで見たカットを気に入るなどして、生活の中で興味を抱いた映画があれば、その都度、配信サービス内の「マイリスト」に登録している。こうして溜めてきた作品一覧が存在しているわけであるから、その中からひとつ適当に再生すればよいだけの話であろう。なにしろ、そこに並んでいるすべての作品が「いつか観よう」と思った対象なのである。それにも関わらず、どういう訳だかこんなにも単純な選択で日が暮れる。完全におかしいではないか。
紛う方なき、これは、人生の無駄遣いである。もし、いま命を落とせば、走馬灯には映画のサムネイルばかりが流れてくることになろう。そんなの嫌に決まっている。
しかし、過ぎてしまった時間は諦めるより仕方がない。それよりも前を向き、これから歩んでいく人生を豊かなものに変えていこうではないか。ここで立ち止まり、過去の自分を客観的に見つめなおすことにする。それこそが、心豊かな死に際につながるのである。
さて、それでは、観る映画を選ぶ時間が長くなってしまう原因を考えよう。まずひとつ挙げられるのは、マイリストに登録されている作品が多すぎることである。U-NEXTでいえば——と、指折り数えようとしたが、画面右のスクロールバーを見てやめた——おそらく千本は超えている。確かアメリカの、どこかの大学の、おそらく教授であろう誰かの何かの研究にもあったではないか、店頭に並ぶジャムの種類が多すぎると客は何も買わなくなるとかなんとかいったそういう事例的なものが。つまり、小学生の頃から通信簿に毎度書かれていたほどに豊かなぼくの好奇心がみるみる肥大させていったこのリストは、もはや選択肢の役割をなしていないのである。千択問題があったとして、それは自由回答と何ら違いがないだろう。
さらに、観る映画を選んでいるときのぼくは、そのことに気がついていないから厄介である。観察してみよう。マイリストを選択肢であると信じ込んでしまったままスクロールを続けている。さすがに頭では「やけに多いなあ」などと感じているようで、作品を絞り込むために今の気分に応じた条件を定めてはいるが、刺激の多すぎる世の中に辟易として仕方がないからできる限り穏やかな作品にしようとか、ただ暮らすだけでなぜこんなにも疲れるのだろうかもう集中力があまり続かないだろうから90分前後の映画しか観られないとか、目にも耳にもパキッとしたデジタル臭にはもう飽き飽きだ十六ミリフィルムで撮った映像しか目に入れるつもりはないとかいいながら、その目が捉えたサムネイルのひとつひとつを長いだのうるさいだのと弾いていくのでは余りに効率が悪い。しかも、やっとのことでノア・バームバックの『イカとクジラ』に辿り着いても、今は英語の気分ではないなどといって、これも跳ねのけてしまうのだからいよいよ救いがない。
なるほど、これでは時間がかかるのも当然である。なお、お約束の結末として、最終的に再生ボタンをクリックするのは、条件にまったく当てはまらない「なんとなく選んだ作品」だ。
だが構わない、これは過去のぼくだ。いま、この文章をもって、この行をもって生まれ変わった。これからは驚くほどにすばやく作品を決めて、すぐに映画鑑賞をはじめてしまうことだろう。少し寂しい気がしないでもないが、マイリストを撫で続けるあの時間はもう捨ててしまった。
新しい自分の誕生を祝し、景気付けに、いま直感で一本選んでみよう。せーの、これ。
『サタンタンゴ』
えっ。あっ。