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抑鬱に抗ってみる
何をすることもできない日々が続いていた。
枕元にはそれ以前から積まれた未読の本が山となっている。最上段の一冊を手に取り読んでみようと試みるも、語句の羅列を目でなぞるに過ぎず、紙の束に閉じ込められた物語を再生することは叶わない。ならば映画はどうかとラップトップを開き配信サービスにログインする。「いつか観よう」とマイリストに登録している古今東西の名作群からひとつのサムネイルをクリックする。文学と違い再生に苦労することはないが、気づけば画面上を流れる物語は景色となり、頭の中では別のことを考えてしまう。
結果、ただ寝るばかりである。夢だけは滞りなく見ることができる。もちろん、いくら見たところで何の意味もない。学びも問いかけもなければスペクタクルもカタルシスもあろうはずがない。それでも途中で目が覚めると、続きを見たくてまた寝てしまう。そうやって一日の半分近くは眠っているというのに、どういう訳か起きている間も眠くて仕方がない。
だから、ずっと家にいる。唯一、200メートルほど先にあるコンビニへ出ることだけはあった。ばかみたいな量の食べ物を買い、一日中漠然と食べ続けている。腹は減っていなくても口が欲するのだ。規則正しい食生活とは程遠く、朝食も昼食も夕食もない。連続した咀嚼と嚥下、そして排泄がある。
この過眠と過食の隙間で、ぼくは何をすることもできない。ただひたすら、考えることを続けている。思考の行き着く先は決まっている。過去へ向かえば後悔、未来へ向かえば絶望である。
思考はぐるぐると同じところを巡りながら、少しずつ落ちていく。いっそ感情の赴くままに身を委ねてしまえば、ある意味ではそれが最も楽なのかもしれない。あとは日々をやり過ごしていくのみである。ただ精神の下降に苦しめばよいだけのことだ。
——などと思えるのは、ぼくのこれまで経験してきた抑鬱が軽度のものに過ぎなかったからなのだろう。幸運にも、本当の痛みを知ることなく生きてこられたということのようだ。
その程度の苦しみであるならば、抗うにおいても大きなエネルギーは必要ないのではなかろうか。抗えるのであれば、抗ってみようと思った。そう、思えた。
ぼくは、心を上向けることにした。
家にこもっていては何も変わらないと思い、着の身着のまま外へ出た。コンビニを通り過ぎ、大きな公園を突っ切って交差点を右に曲がると、橋を渡って川を越え、坂道を登ってまた下った。太陽の下、自分の足で歩を進めながら脳内で展開させていく思考は、布団の中で逡巡するそれとは違っているように感じた。
映画館へ向かった。この数年、ぼくにとってひとつの隠れ家のようなものとなっている。あの暗闇の中でだけ、安心して呼吸をすることができる。見るべき光景のみが照らされ、聞くべき音だけが響く。ここでは迷うことなど何もない。
現実の世界とは異なる時の流れの中で、知っている感情や知らない感情が積み重なっていくのを2時間見届けた。
往路とは異なる道を歩いて家へ帰ったのは、夕方というには少し早い頃である。歩き疲れたなどと言い訳をしながらベッドに寝転んだ。そのまま眼を閉じて、また夢を見た。
——劇的に事態は好転しない。
窓の外で誰かがばたんと車のドアを閉めた。目を開けると部屋は暗くなっていた。夕方と呼べる時間をすっかり夢の中で過ごしたが、その続きを見たいとは思わなかった。空腹ではないがバウムクーヘンを食べようとして、やめた。
読めずに閉じてしまった小説を、また表紙からめくってみた。ゆっくりと文章を目で追っていく。今度は少しずつ情景を組み上げていくことができた。行を重ねると、その人は動き、話し、考えた。相変わらず気づけば文字面だけが流れていったが、そのたびにページを遡って読み直した。
今は、これでいいと思った。