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文章を書くこと

高校生の頃は、毎日1時間半かけて学校へ行き、1時間半かけて家へ帰った。「ど田舎」と「田舎」を往復するバスに揺られながら、大きな音でロックンロールを聴いていた。毎日の爆音で、少し耳を鈍くした。カナル型のイヤフォンはもちろん有線で、その先端は日本の家電メーカーがつくった折りたたみ式の携帯電話につながっている。白い端末を両手で握り、左右の親指を目まぐるしく動かしながらぽちぽちぽちぽちと、ぼくはいつも小説を書いていた。

ソーシャルメディア前夜の当時、ある特定の形式を持ったWebサイトを個人が運営する文化があった。携帯電話で作成され携帯電話でアクセスされる簡素なページには、プロフィールや日記が書かれ、閲覧者は各サイトを自身で移動しながら見て回った。

ぼくはそこに、小説を掲載していた。今思えば「小説」と呼ぶに足るかどうかも微妙なものではあるが、とにかく自分ではない人物に一人称を与えた文章を、しかつめらしい文体で書き連ねていた。

当時のぼくを思い返すと、今よりずっと創作意欲や自己表現に対する衝動が強く、その矛先はいつも言葉の形をしていた。音楽や映像も、まさにこの時期に始めたものではあるが、まだ表現の道具になるほど手慣れてはいなかった。絵を描くことは小さなころから好きであったが、所属していた美術部も、いつしかひゅうどろろと幽霊部員になっていた。だから、両の親指で小説みたような文字の羅列を生み出すことによってのみ、その体内に湧き——そして、沸く——エネルギーを外へ逃すことができた。

さて、「人見知り」という言葉を強めるときにはその相棒として「激しい」の語が選ばれる。どうにも人見知りという概念の持つ印象とは一致しないように感じてしまうが、それはさておき、当時のぼくはまさしくその2語で表される性質を持っていた。あまりにたくましい自意識に遮られ、クラスメイトに話しかけることすらまともにできない。その自意識が、同時に、ぼくを見てくれといつも叫びたがっていた。

ある日、いつもの虚構ではなく、自分の言葉としての文章を書いてみた。帰りのバスに少し酔いながら、その日に学校で起こった出来事を導入として、感じたことや日頃考えていることをつづった。すると、ある人が自分の日記の中にぼくの名前を出し、「おもしろい」と続けてくれた。これが直接のきっかけだったかどうかはわからないが、以来、少しずつ少しずつ、みんなと打ち解けることができたように記憶している。

昔から、自己表現の道具も、コミュニケーションの手段も、文章を書くことだった。口頭での会話は常にパニックを伴う。相手を待たせないよう瞬時に言葉を探さなくてはならない。さらに、声に出して相手に届けるという高難度のも必要になる。比べて、文章は気楽なものである。ひとりで落ち着いて考えることができる。途中で辞書を引くこともできる。相手の顔を正面に認めて勝手に圧を感じることもない。何より、言葉と言葉を書いては消して、読み直しては入れ替えるちまちまとした作業は、ぼくにとって楽しい。

だのに、いつからか文章を書かなくなってしまっていた。ひとつには、自己表現の媒体が「歌詞」になったことがある。また、ソーシャルメディアへのインスタントな投稿で満足してしまうこと、口頭での情報伝達における脳の負荷を麻痺させる「飲酒」という手段を覚えてしまったことも大きいだろう。

改めようと思った。取り戻したいと思った。執筆の楽しみを、また味わいたい。

2023年は、文章を書こうと意気込んで始まった。リハビリとして、ここにエッセイを書きはじめた。たかだか月に1本の、たかだか2000字弱の文章ではあったが、結果として「エッセイ」と呼べるようなものは1本たりともなかったかもしれないが、毎月ぎりぎりまで先延ばしにして無理矢理文字数を埋める作業にさえなっていたが、案外効果はあったように思う。文章を書く習慣は、確かに戻った。この年末には、このnoteにも記事をいくつか投稿した。今後も続けられそうだ。

今、執筆の楽しみを、ぼくは感じている。散らかった脳内を観察し、文章という形に変換することの大切さも感じている。そして何より、140より随分と多い文字の羅列を、最後まで読んでくださる皆様への愛を強く感じている。

小説をまた書いてみたい気持ちもあるが、やりたいことは他にも山ほどある。一生のうちに1本書けたらそれでいい。今はまず、日々の気持ちを残していきたい。

この連載はこれにて完結とする。それでは、また。

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