夢を見ること、夢を見ること
みんな「夢」という言葉が好きなようだ。ぼくも文章や歌詞においてときどき使う。ただし、「将来実現させたい理想」のような意味をその単語に求めたことは、一度もないように思う。もうひとつの用法である「寝ているときに見る幻覚」のことを指す名詞としてならば、多用しているといってもいいくらいかもしれない。——と、なんだか冒頭から語尾が曖昧だなあ。
ぼくは、夢を見ることが、好きだ。幻覚の方の「夢」。
数年前、心の調子を崩して人生を休んでいる時期があった。来る日も来る日も昼も夜もずうっと寝て日々をやり過ごしていたのだが、少なくとも当時の自覚においては「もっと夢を見たいから」という理由で、目を閉じていた。
起きている間、頭の中は常にやかましい。いろいろな光が目に飛び込んでは情報の海と化し、さまざまな振動が耳に入り込んでは脳を刺激する。それぞれの感覚が自我に侵入し、内省を促す。すべては頭の中で文字の群れになり、所狭しとあちこちぶつかりながら漂う。そんなある種のパニック状態から逃げられないまま、人々は日々のやるべきことをこなしている。そうして、当然のように疲弊していくのだ。
だが、唯一夢を見ている間だけは何も考えなくて済む。いや、何か考えているような気もするが、ともかくその内容に意味はまるでないはずだ。一種の現実逃避である。夢を見ることによってのみ、押し寄せる情報や刺激の波をガン無視することができるのだ。ガン無視。
もうひとつの意味での「夢」も、ある面においては同じなのかもしれない。理想の未来を思い描く間、目の前のやかましさには介入されないでいられる。だが、大きく違うのは、現実の自分に直接よい影響を与えることができる点である。夢を実現させたいと願った場合、まず目標を立てるはずだ。そして、目標を達成するために行動を変えることだろう。こうして選ばれた行動は、きっと人生において意義深いものになる。
もちろん、目標を立てるにおいても行動に移すにおいても、やはり外的刺激が脳内でノイズとなり邪魔をする。だが、心配はいらない。その奥には夢という北極星がある。ひときわ輝くその点を視野に入れながら思考を進めれば、現実の喧騒にも抗えようから。
さて、昨日の投稿で年間の目標を立てた。このときぼくは明確な「夢」というものを意識してはいなかった。それでも、おそらく頭のどこかで光るそれを、間接視野は捉えていたはずだ。並んだ10の「やりたいこと」を、今、改めて眺めてみる。自分が潜在意識に抱いている「夢」の形が、朧げながらにでも見えてくるはずだ。
お茶を、失敬……。
うまい。
……これらの行動は、すべてをひとまとまりに線で繋ぐことができる。日常的に「映画を観」、「文学を読み」、「音楽を聴き」、それらを創作の血肉として「アルバムをつくる」。つくったアルバムを聴いてもらうために「ライブに出」「アニメーションを描く」。これらの活動をつつながなく進めるためには、「文章を書き」「日記を続け」ることで心を整え、「健康に過ごす」ことが必要なのだ。そしてそのすべてが、もちろん自分のやりたいことでもある……。
あー。
……そして、人生単位で未来を見て理想や希望を思うとき、ぼくはどうしてもそこに現実的な問題を持ち込んでしまう——だからこちらの「夢」より、浮世を完全に忘れられるあちらの「夢」が好きなのかもしれない——。つまりは、これらの活動がそれぞれに、あるいは一元化されてもよいが、とにかく経済的な価値を持つようになればいいと思っている。
だから、夢を言葉で表すならば、「やりたいことをやっていたら、収入につながること」になる。「好きなことで、生きていく」というやつか。いっそYouTubeに真面目に取り組んでみようかしら。
ちなみに2024年の初夢は、柴田英嗣さんが主演でした。