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ぼくは今、酩酊している

きっと誤字や脱字があるだろう。文のリズムも軽やかではなかろう。どうか、寛大な心で見逃していただきたい。

このようなことは日常茶飯事である。日常酒肴事である。しょっちゅうお酒を飲んでいる。そのくせに、決して強くはない。というかとても弱い。ひとつ喉を潤してみれば、もう顔が真っ赤っかになる。聞いたところによれば三重県民は遺伝子上アルコールに弱いらしい。どうやら、本当は飲まないほうがいい。だが飲んでしまう。そして毎度のことながら、その先には後悔や反省が控えている。

しばしば、ビールを飲む。これは惰性である。学生時代に植え付けられた一種の「勘違い」といえる。最初は苦くて飲めたものではなかった。しかし今やそんな感覚は失っている。日々の訓練により、焼き鳥を食えばビールを、条件反射的に欲するようしつけられたのである。今では、うまいと思うようになってしまった。

さらに頻繁に飲むのはウイスキーである。これはいい。なにより見た目が美しい。飲み初めた(「見初める」の類語)ときのことはよく覚えている。琥珀色の水面が揺れる瓶を、どこかで聞きかじったままに冷凍庫で冷やした。中身は決して凍らない。その代わり、とろみがつく。カカオの成分がふんだんに含まれたダークチョコレートを齧り、冷たくてとろりとしたそれを舐める。このとき、未だ触れたことのない世界をそこに見た。体がぶるっと震え、自然と目を閉じた。以来、ウイスキーを最も好んで飲む。部屋を薄暗くして、たとえば映画を、たとえば音楽を流しながらウイスキーに酔うと同時に、美しい時間を過ごす自分に酔いしれる。おそらく「やれやれ」などと呟いている。

それから、ときどきではあるが日本酒を飲む。ここ数年の正月は寿司をつまみながらちびちびやるのが恒例になっている。日常においては、居酒屋でエイヒレをかじりながら嗜むことも多い。このジャパニーズ・サケが、なぜか最も心地よい酔いをもたらす。たとえ記憶を失うほど泥酔したとて、翌朝の頭痛もないからふしぎである。

ちなみに、酔うとぼくは楽しくなる。よくしゃべるようになる。主に好きなものについて語り出し、それがいつまでも続く。音楽と文学と映画と日本語文法の話。ときどき嫌いなものについてもこぼれてしまうかもしれないが、これはできれば避けたい、みっともないから。いずれにせよ、自分自身についての話は相変わらずしないままである――といいつつ今しているな――。

それから、人なつっこくもなる。普段はいい歳をして人見知りが激しいが、酔うと知らない人に話しかけてしまうことさえある。持って生まれた過剰な自意識が剥がされるせいであろうか。音楽をつくって歌っているくせに人の視線がこわくてライブのできない日々であるが、飲酒状態であれば人前に立てるのではないかと思うこともある。ただ、喉が弱いために嗄れたり裏返ってしまうことが約束されているから、今日もライブは叶わない。

どうしてお酒を欲してしまうのだろうか。ひとつには、人との交流をや好きなものの話を存分にしたいのかもしれない。日頃、その強すぎる客観的視線のせいで卑屈な臆病者らしく抑えられているものを、その膿みたいなものを、外へ押し出さずにはいられないのかもしれない。膿であるならば、ぶつけられた相手はたまったものではないが。

このときの世界は、つまりこの執筆している今も瞳に映る世界は、まず、物理的に歪んでいる。さらに重力のベクトルが少しずつ動いている。それから音は全体的に小さくなり、特に高域が丸くなる――おかげで普段耳が痛くて聴けないような音楽を楽しめたりする――。つまり、歩けばふらつき、喋れば声が大きい。迷惑千万である。

自らの体に負担をかけ、周りのひとに不快な思いをさせる。こんなことをいつまでもくり返していてはよくない。代わりのものを見つける必要がある。考えてみよう。そうだ。映画館で、どうでもいい日常を美しく捉えたフィルムの質感に酔う。ライブハウスで、ファズを踏んだノイズまみれのギターソロに酔う。分厚い単行本を手に、息の長い情景描写のリズムに酔う。あるではないか、近くにたくさん。今度それに触れたら、積極的に自我を委ねてみよう。ビールやウイスキーでは到達できない何かが待っているかもしれない。そんな経験を重ねて、少しずつ、そちらに移れたらいいな。

ああ、どうしよう、自ら決めた字数制限が迫っている。もうこの文章をまとめる余裕はない。きっと読みづらいんだろうな、素面で読み返さないようにしよう。そして読者諸君にまた、迷惑をかけているのである。どうせ被った迷惑、いっそ飲みに行きましょうか。

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