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AIに疲れて、感情に向き合うことにした
猫も杓子もAIである。
ご多分に漏れず、ぼくもすっかりAIのことばかり考えている。DeepLには随分前からお世話になっているし、ChatGPTに意見を求めない日は一日たりともなくなった。Stable Diffusionは遊びにしか使っていないが、Adobe FireflyがPhotoshopやIllustratorに組み込まれる日を今か今かと心待ちにしている。
AIに関連する新しい情報は、日々――どころか刻々と飛び交う。次々に発表される技術やサービスや活用例は、ここに例を挙げたところで、あっという間に過去のものとなってしまうだろう。あまりに膨大な情報量とその展開の早さに、この頃は追うことを諦めてしまった。
眼前を飛び交うツイートや記事の乱反射にくらっときて、逃げるように遠くへ目をやれば、今度は暗黒の未来が広がっている。このままAIがどんどんどんどん発展していった先には、どんな世界が待っているのだろうか。SF作品のように、AIが氾濫し人間を排除しようとする、などということにはならない気がするが、悪意を持って利用する人ならいるかもしれない。日々の仕事や諸々の創作活動の環境は大きく変わることであろうが、実感を伴う予測はぼくにはできない。必ず直面することになる資源の問題には、誰がどんな対応をするのであろうか。そして、今は誰も想像していないような、何かがきっと起こるだろう。毎日のように、考えたところでどうにもならないことを考え、ひとり勝手に不安に苛まれている。
おそらくすでに使われはじめているが、近いうちに「AI疲れ」という言葉を耳にする機会が多くなりそうだ。
さて、疲れたときには、離れる。AIに疲れたときには、「人間らしさ」とは何かと考えてみる。誰もがすぐに頭に浮かぶであろう答えを選べば、人間らしさとは「感じる」ことである。「感じる」ことは――動物や他の生物は今はさておき、AIとの比較において――いかにも人間らしい。
ならば。と、ひとつ意気込んでみた。
「自分の感情に向き合ってみよう」
映画を観て、小説を読んで、音楽を聴いて、友人と話して、春の風を歩いて、まどろみの中に短い夢を見て、薬を飲んで、薬を飲み忘れて感じたこと、それらのひとつひとつに向き合ってみようと思った。
今現れたこの動機を、実際の行動に起こすにおいて、ただ「向き合う」のではあまりに漠然としている。具体的に言い換えるならば、それは「言葉にする」ことであろう。さらにいえば、「書く」こと、そして「話す」ことである。
思い返せば、自分の感情を書くこと、話すことから、これまでずっと逃げてきた。小中学校のころに書かされる読書感想文には、いつも小説のまがいものみたいな文章を書いていた。日常会話において自分の気持ちを問われたときには、いつもおどけてお茶を濁してきた。「お前は何を考えているかわからない」と、みんなが言った。
そんな逃げ足を、ようやく、止めるときがきた。
しばらくは訓練のつもりではじめよう。これまで怠ってきたわけであるから、当然うまくは言葉にできないはずだ。観た映画の感想を、短くても書き残す。好きな小説の好きなところを、誰かに伝えてみる。音楽は……こっそりメモして、自分の歌で示そうか。夜には一日を振り返って、どうでもいいささいな心の動きを手帳に記してから寝よう。
少しでも慣れてきたら、ラジオも始めたい。言葉が出てくるまでに時間のかかるうえに、脳内がひとつにまとまらないぼくには難しいかもしれないが、これもやはり「訓練のつもりで」取り組むしかない。いざとなれば、ゆっくりしゃべって早回ししようか。
月に一度と決めたこのエッセイの投稿、三月の尻尾を逃さないよう慌てて書いたら、妙に張り切った決意表明のようになってしまった。いささか恥ずかしいが、もう書き直す時間がない。まあ、だからこそ、勢いが残ってよいのかもしれない。
そして、「内容よりも言葉を選ぶことが楽しいから、執筆はAIに任せられないな」と、今感じたことを言葉にして終わってみる。