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やまがら

青年は十数年ぶりにその地の土を踏んだ。

斑に白に染まった山のすそ、白灰のあぜ道に、うっすらとのぞいた黒が点々と続いていた。冷たい空気が張り詰めている。青年は小さな寺にある登山口の前で立ち止まり、地面に視線を落としていた。時おり顔を上げて奥をのぞき込んでは、山の沈黙に押し戻されるかのようにまた下を向いている。足元の白色はすでに靴裏に吸い込まれ、その踵が湿った土をへこませていびつな穴を作っていた。吹きすさぶ風で地面の雪が舞い上がって景色に薄白いカバーをかけ、共に青年の髪も舞い上がる。

煩わしそうにその髪を青年が掻き上げた時、背中にふいに声が降った。

「山にのぼるの?」

振り向くと、少年がいた。マフラーで鼻までをしっかり覆い、ニット帽をかぶっている。かろうじて見える少年のあどけない目が、青年をじっと見つめていた。

「この山はふたごなんだよ。しってた?」

突然の少年の言葉に、青年は困惑しながら返答する。

「山頂が二つある、双耳峰だろ。知ってるよ。登ったことはあるからな。高い方が太郎、低い方が次郎だっけ」

「そう!」

少年は嬉しそうに手を叩く。

「じろうとたろう、りょうほうに行く?それならくらくなるし、もうのぼったほうがいいよ」

そう言うと同時に、少年はぱっと走り出した。その勢いに面食らい、青年は動きもせずにただ少年を見送った。それからしばらく荷物を持ってしばらくぼんやりとしていたが、やがて登山道の奥に消えていった小さい背中に引き寄せられるように歩き出した。静かな土の匂いの中へ、青年は進む。

 山は音を抱え込んでいる。

踏み荒らされていない白い雪と、岩のように固い汚れた雪が光を伸ばす。葉を落とした木々の群れは絡み合い、不規則にたわんで揺れた。骨のようなその姿を明け透けにさらして錆色にひしめき合っている。葉と雪と土が擦れて鈍く響き、全く別の方向から足音が聞こえてくるかのように錯覚させる。幾重にも折り重なった死んだ枝と、層になって腐っている幾年の落葉は、踏まれると独特な音を出すのだ。白と黒と褐色の光景に、段々と青年は支配されていった。

青年が仕事を辞めた時、幼少期を過ごしたこの地をふっと思い出した。そうしてどうしようもない思いに駆られて、気付けばこの場所に足を踏み入れていた。ほとんど逃げてきたようなものだと思いながら、青年は足元の雪を蹴りつける。

昼過ぎにしては薄暗い冬の空の下、視界を遮る枝が煩わしく、衝動的に強く払いのけると、あっけなく折れて落ちる。枝を拾ってじっくりと見て、青年は自嘲的な笑みを浮かべている。目の前に、途方に暮れて立ち尽くす自分の姿が見え、たまらず枝を投げつける。心細い自分の姿を振り払うように、青年は山頂をめざして小刻みに足を運ぶ。

その道中に、陽気に不思議な動きをしている老人たちと青年は遭遇した。周囲を見ると、かすかに鳥の姿がある。餌付けをしようとしているのであろうと思い至ったが、木々の前で延々と手を上げて発声している集団は、青年の目にはひどく滑稽に映って、どうしようもなく苛立ってしまう。不思議なことに、自分でも何故そんな感情が起きるのかはてんで分からず、ただその違和感を背負いながら近づいてゆく。よく見ると、集団の一人が笑顔を浮かべながら、青年に軽く手を挙げていた。それに気づいた後も、集団を横目に見ながら、関わらないようにと苛立ちを隠し足早に通り過ぎる。

痩せた木立はいつまでも続いた。冬の重い風が吹いている。ふと下を見ると、ピーナッツがある。それを拾い、気まぐれに手に乗せて立ち止まってみる。何も変化は無い。視界にいる数えるほどの鳥は、微動だにしなかった。青年の唇が小さく動く。

「当たり前だ」

そのまましばらく青年は立っていた。勿論鳥は来なかった。

 一つ目の山頂、通称、次郎の頂に立った時、青年の心を満たしたのは失望であった。青年にはそこは彩度の低い貧相な色彩の風景に見えた。そのまま下を眺めると、同じような印象の景色が広がっている。

 青年は故郷と呼べるほどの時間をここで過ごした訳ではなかった。しかし、転勤族だった青年が一番長く過ごした場所がここであることは確かであった。その町が、時間が、思い出が、何もかもが灰色の風景の中に閉じ込められているようで青年はぞっとする。咄嗟に他の人間を探すが、遠くに人影が一つ二つあるだけで、付近に人は見当たらない。頭を二度振ってその光景を消し去り、ため息をつきながらベンチに座った。

ふと気づけば、登山口で出会った少年が青年の横にいた。少年は青年の驚いた顔を確認すると満足そうにしている。

「ねえ、つかれてるでしょ。分かるんだからね。ぼくはぜんぜんつかれてないけど。ころんだ?」

「流石に転んではいない。おい、そんな残念そうな顔をしないでくれ。良かったって喜んでくれたっていいだろう」

青年は少年が座るスペースを十分に作る為に少し横に移動した。

「つまんないの。そうだ、ヤマガラ見た?鳥だよ。」

「ヤマガラかは知らないが、鳥は見た。」

「ヤマガラ、おなかがオレンジできれいだよ。それに手にのってくれる。エサあげた?」

あの滑稽な集団が青年の頭をよぎった。思わず青年は目をそらす。

「来なかったけどなあ」

 少年は首をかしげている。

「しんじてないからこないんだよ。そんな人のとこなんて行きたくないもん。」

青年の動きが一瞬止まる。そしてばつの悪そうな顔で頭をかいた。

「そういうものか」

「しんけんにおねがいしたら手にきてくれるよ。たろうに行くときにもう一回やりなよ。ほら、あっちのみち」

少年は顎を少し上げて獣道のような道を指し示す。青年はそちらに顔を向けた。木々に隠れながらも、確かに小道がある。家族に連れられてそこへ歩く子どもが青年の視界に入る。彼らの姿に惹きつけられ、青年はそれを食い入るように見つめていた。

「ピーナッツあげる」

不意に聞こえた声に思考を止め、青年は横を見る。少年を探すが、そこにはすでに少年の姿はなかった。小道にいた家族連れも、奥へ進んで見えなくなっていった。木々から鳥が飛び立ち、山のより高い方へ昇っていく。

ピーナッツが一粒、ベンチの上に置かれていた。

青年は小道へ向かっていった。茂みを掻き分けながら進む。ポケットに入れたピーナッツを弄びながら、昔に思いをはせる。何十年も前の記憶はあやふやで、今と同じような時期に家族で一度この山に登ったという事実だけしか青年は思い出せなかった。澄んだ冷たい空気の中、掌が汗でじんわりとにじむ。ピーナッツを握りしめながらゆっくりと、落ち葉を踏みしめた。静かな世界に音が響く。青年が顔を上げれば、遠くで鳥がこちらを覗いている。青年は立ち止まって手を開いて、青年はここで暮らしていた昔の無邪気な自分を思い浮かべる。あの少年の言葉が頭の中で繰り返される。信じて、お願いする― 

 

次の瞬間、それは目に飛び込んできた。

 オレンジ。

青年の視界が鮮やかな橙色に染まり、記憶の蓋を押し開ける。

随分と前、青年が家族とこの山に来た時、お気に入りの青い手袋はつつかれて穴あきになった。挙句の果てにはそのままヤマガラが手袋をくわえて持って行ってしまったのだった。

何故忘れていたのだろう。あの時の自分の手には、ヤマガラが来ていたのだ。

青年の視界が拓けた先には、鳥たちが暮れだした空を走って、その羽音がささやかな音を奏でていた。山頂から、誰もいない広い風景をぼんやり眺めると、様々な思いが青年の胸に去来してくる。下に目を落とせば、白と黒の中に紛れて埋もれつつも顔を覗かせる小さな黄色、青灰や橙、様々な色彩がそこで生活をしていた。瞼を閉じてしばらくその場所に佇んでいる。次に目を開けた時には、この場所はもう貧相な姿には見えなくなっていた。

双子の山が、夕日に染まって柔らかく光る。青年が振り返った時、遠目に小さなあの後ろ姿が見えた。少年だ。青年は大きく息を吸って、その背中に声を投げる。

「ヤマガラ、手に来てくれたぞ!」

 少年の後ろ姿に茜色の光がかかっていく。

「あたりまえじゃん」

澄んだ冷たい風が吹いた。山頂に広がる風とともに、少年のマフラーは寒空へ消えていった。花が咲いたかのような朗らかな笑顔で青年に手を振っているその小さめの手には、穴の開いている、少しくすんだ青い手袋。

ほのかに赤く光る、飴細工のような雪が次々と舞い落ちてきた。その光に端から染まってゆく目の前の少年は、まばたきの間に薄闇にとけてしまった。

次第に夜が降りていく。ゆっくりと星が降る山頂には、青年の足跡だけが残っていた。

#小説 #短編小説


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