血縁とか
母方の祖母が秋に亡くなったそうだ。
そうだ、というのは、一ヶ月後に叔母から連絡があったと母から知らされたから。
血縁なのに、こうもどこか遠いことのように死が扱われることに少し寂しさを覚えた。
数年前に、祖父が亡くなったときも葬式には出ていない。
その時はほぼ絶縁状態だったように思う。
私は母との二人暮らしで心身ともにギリギリで生きていた頃で、助けを差しのべてくれない血縁に腸を煮え繰り返していた時期でもあった。
母方の祖父母の介護から葬式から相続の類いまで一手に叔母が取り仕切ってくれている筈。
私達家庭とは裏腹に、きちんとした家族を貫いて、いとこ二人はきちんと大学に出て、手堅い職に就き、家庭を持っている。
時系列が纏まらないが、久方ぶりに祖父母の家で再会した時があり、その数ヵ月後に下のいとこが結婚式を挙げるから出るかと打診されたけど、どんな心持ちで出て良いか分からなかったから出なかった。
小さい頃から私は大人に可愛がられない子供だった。
常に表情がムスっとしていて不機嫌そう。
妹は相反してニコニコして可愛らしい顔付きなのもあり両方の祖母やいとこに可愛がられていた。
私はいつも疎外感を感じていた。
そんなとき、母の姉の叔母だけは私を可愛がってくれていたし、同じ姉ということで気持ちを分かってくれていたところもあったように感じる。
近くのスーパーで買ってもらったレイアース
の文房具セットがとても嬉しくて、未だに覚えている。
再会の後、私は1人で祖母の家に訪ねることがちょこちょこあった。
ガンが転移して身体中が激痛の中、近所のスーパーへ行ってたくさん買ってきたものをいつもたくさん持って帰らせてくれた。
高校受験の合否の日、合格していた旨を父に告げ帰ってきた返答は
『そんな金は俺はないぞ』
その言葉で私の中の父に対する感情は抹消した。
その学費を立て替えてくれたのが祖母だった。
母はずっと自分の両親を恨んで憎んでいた。だけど私のために頭を下げて工面してもらったのを目の当たりにして、無遅刻無欠席で3年間を終えた。
(髪をピンクにしていて黒染めで登校日に行って、呼び出されて帰らされそうになった危機もあったけどね…(笑)
私が着物を好きになって裄や丈がほぼ同じこともあり、たくさん譲ってもらった。
歌舞伎が好きだと話したら、私は吉右衛門が好きだと母も知らないことで繋がることがあった。
母からしか見えてない祖母を、本人と対話して知って行くと色々なフィルターや偏りで構築されていたことを知り、それにより知らなかったことも露呈して母に対して不信感を抱くことも多々あった。
どだい人は、自己保身でしか他人には思いを打ち明けないものだからそうなるんだろうけど。
実の母が早くなくなり、里子に出されて殺されそうになりながら生き抜いて、
下僕のように扱われる男との結婚生活で見えていたものは
『無理して結婚なんかせんでもええ』
それが口癖の人だった。その一言に彼女の人生が集約されているように思う。
年の瀬から新年になると、世間の大半は血の繋がりで寄り集まる機会が増える。
私にはそれが全く無いし、それが他人と構築できるイメージや、している想像図も浮かばない。
そういった絵面が当たり前の環境であればそういうものなのだと思うのだろう。
自分には正月は父が地元へ同級生と麻雀を打ちに帰り、その状況に母は荒れ狂い、皿を投げつけるというのが自分の中の正月なので静かに穏やかに暮らせるならば1人の方が良いと思ってしまう。
いい加減、世間の常識のようなことを万人に当てはまるという勘違いは無くして欲しい。
1人は確かに寂しいけど、