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Pride of a man who has nothing else (“The Long Good-Bye”)

大学を離れてからの僕は、どこかテリー・レノックスのようだった。

ただの感傷かもしれない。
ドイツから帰ってきて真っ先に買った日本語の本が村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』で、あのハードボイルドかつフィルム・ノワール的な世界観に、「第二の祖国」に捨てられたばかりの痛む心が惹かれたのかもしれなかった。

あるいは、酒癖の悪さがテリーに符合するのか。
身体はもともと酒に強い方だし、歳を取って弱くなるどころか、トレーニングをするようになってからむしろ強くなっている。しかし心のほうは、めっきり弱くなってしまった。

それ以外に何も持ち合わせない人間のプライドと、彼なりの原則

レイモンド・チャンドラーのあの名作の冒頭でテリー・レノックスは、酒に身を持ち崩したどうしようもない男として登場する。そうなった経緯は物語が進むにつれて明らかになってくるが、酔っ払いには違いがない。主人公フィリップ・マーロウは酔いつぶれたテリーを通りすがりに介抱したところから彼と不思議な友情を交わし、彼をきっかけに事件へと巻き込まれている。

ではなぜマーロウは、テリーに惹かれたか?

テリーと二度目に会った時彼はもはや宿無しで、無一文で街をさ迷っていた。マーロウは彼を拾って自分の家に連れていき、面倒を見る。
話をするうちに、テリーが長距離バス駅に高級な鞄を預けてあること、金持ちの知り合いがラスベガスにいて、別れた妻シルヴィアも金持ちであるも関わらず、どちらにも助けを求めていないことが明かされる。
マーロウがいぶかしんだと考えたテリーはこう言う。

「(…)プライドという言葉を、君は耳にしたことがないのか?」
「麗しいことを言ってくれるじゃないか、レノックス」
「聞いてくれ。僕のプライドは、みんなが言うプライドとはまた違ったものだ。僕のプライドは、それ以外に何も持ち合わせない人間のプライドなんだ。(…)」
レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』(村上春樹訳)p23

そんなテリーにマーロウは腹を立てながらも、心牽かれるものがあった。

しかし何はともあれテリー・レノックスは彼なりの原則をまもって生きているのだ。それがどんな原則であるにせよ。
上掲書p24

似た者同士、だからかもしれない。

フィリップ・マーロウ自身、この物語の中では決して「賢い」生き方をしていない。

テリーに復縁した妻の殺害の容疑がかかり、彼の国外逃亡を助けた従犯として拘留された時の反抗的な黙秘。
一度は幕引きとなったテリーの事件を掘り返さないよう警察、ヤクザ、殺された妻の父の大富豪の各方面から警告されながら、無視して捜査を続けること。
そして、一度は断ったにも関わらず成り行きで依頼人になってしまったアル中作家ウェイドと妻アイリーンへの深入り。

マーロウ自身「彼なりの原則をまもって生きて」いて、それをプライドにしているのだろう。
例え「それ以外に何も持ち合わせない」としても。

からっぼの胸を満たす死んだ夢

しかしやはり、二人はどこか決定的に違う。

マーロウはテリーにこうも言っている。

「(…)君には自らの基準というべきものがあり、それを守って生きてきた。しかしその基準はあくまで個人的なものであり、倫理や徳義といったものと繋がりを持たなかった。(…)君はまっすぐな心をどこかで失った人間なのだ。(…)」
上掲書p591

そう言われたテリーは苦い微笑みを浮かべながら言う。

「(…)何もかもただの演技だ。ほかには何もない。ここはー」、彼(テリー)はライターで胸をとんと叩いた。「もうからっぽだ。かっては何かがあったんだよ、ここに。ずっと昔、ここには何かがちゃんとあったのさ、マーロウ。(…)」
上携書p593

テリーは礼儀正しい男だ。

「こんな礼儀正しい酔っぱらいには、お目にかかったことがないね」
上携書p11
何はなくとも、礼節は失わない男だった。
上携書p14

初めて会った夜に、マーロウはこう評している。

しかしいろいろな経緯があって、胸が「もうからっぽ」になってしまった今、「何もかもただの演技」なのだ。自分をかろうじて自分たらしめるために守っている「原則」も、「原則」を守るという「プライド」も、いつの間にか形骸化しつつある。

村上春樹はこの訳本の後書きの中で、チャンドラーの小説には「『崩壊への引き波』のような下り方向の力」(p610)が見受けられるとした上で、登場人物達についてこう語る。

彼らはそのような宿命的な巨大な力をまず黙して受容し、そのモーメントに呑まれ、振り回されながらも、その渦中で自らをまっとうに保つ方策を希求しようと努める。そのような状況の中で、彼らに対決すべき相手があるとすれば、それは自らの中に含まれる弱さであり、そこに設定された限界である。そのような闘いはおおむねひそやかであり、用いられる武器は個人的な美学であり、規範であり、徳義である。多くの場合、それが結局は負け戦になると知りながらも、彼らは背筋をまっすぐに伸ばし、あえて弁明することもなく、自らを誇るでもなく、ただ口を閉ざし、いくつかの煉獄を通り過ぎていく。そこでは勝ち負けはもう、それほどの重要性をもたない。大事なのは自ら作った規範を可能な限り守り抜くことだ。いったんモラルを失ってしまえば、人生が根本的な意味を失ってしまうことを彼らは知っているからだ。
上携書p610-611

少し長くなったが、的確な指摘だと思う。

しかしテリー・レノックスは、さらに特殊な例だ。
彼はいわば、一度すでに負け、モラルを失い、人生の根本的な意味を失いながら、それでもまた戦うことを強いられた「迷い犬」なのだ。

村上はこの『ロング・グッドバイ』を、チャンドラーが愛好していたフィッツジェラルドの代表作『グレート・ギャツビー』と重ね、こう語る。

ギャツビーもレノックスも、どちらもすでに生命をなくした美しい純粋な夢を(それらの死は結果的に、大きな血なまぐさい戦争によってもたらされたものだ)自らの中に抱え込んでいる。彼らの人生はその重い喪失感によって支配され、本来の流れを大きく変えられてしまっている。そして結局は女の身代わりとなって死んでいくことになる。あるいは擬似的な死を迎えることになる。
上携書p612

からっぽの胸を満たす重い喪失感。
美しい純粋な、死んだ夢。

そのからっぽの胸を守る鎧が礼儀正しさであり、崩壊から自分を守る武器が個人的な美学、規範(プライドや原則)であったとしても、守るべき「夢」とやらはもう死んでいる。

無駄だと知りながら、すでに一度負けていると知りながらも、戦わなくてはならない。
そのからっぽの胸を満たすのは、時に「酒」だった。

僕はテリーやギャツビーのように戦争を経験していないけれど、僕なりの仕方で「夢」を失い、「愛」を失った。
それでも「愛」や「夢」が胸を満たしていた頃と同じように、自分なりの原則を守り、プライドを持って生きたいと思っている。それ以外に何も持ち合わせない人間のプライドだ。

その生の報われなさという深淵を、たまに手違いで覗き込むと、深淵のほうも僕を覗き込む。
僕の胸は重い喪失感に支配され、それを追い出すための手っ取り早い詰め物が、酒なのだろう。

さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。
上携書p571

失った「愛」に、「夢」にさよならを言って、少しだけ「死んだ」としても、まだ生き続けなければならない負け戦とは、何とも苦いものだ。

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