『酔いどれ天使』①
「今だから言うけど、あんたのこと蔭で『天使』って呼んでたのよ。
色白で茶髪のくるくるパーマで、キューピットみたいだから」
ドイツに留学する一週間前、地下のアイリッシュパブで彼女はそう言った。
同じ学科の同級生で、卒業後別々の研究室に進学した。
とはいえ学部生時代の母校にそのまま進学して、研究室は同じ校舎の同じフロアー。お互い夜遅くまで残っていて、給湯室や図書室で顔を合わせることが多かった。なんとなく仲良くなって、ある日成り行きで一緒に食事をすることになった。
初めての留学を前にして、不安で人恋しかったのかもしれない。
あるいは、叶わぬ初恋とようやく決別して、心がひどく虚しかったのかもしれなかった。
「飲み直そうか。近くにいいジャズバーがあるんだ」
「ごめんなさい、明日の発表の準備があるから研究室に戻るわ。
それに…」
そう言いながら彼女は顔を近付け、「天使」の赤い頬にそっと口づけをする。
「遠距離になると分かってる恋なんて、辛いだけよ。
いいフライトをね、『天使』さん」
そう言って彼女は席を立った。
胸ポケットには、キスをしながら彼女が入れた飲み代がきれいに畳んでしまわれていた。
「もう閉店だ。ここからは、タダでいいぜ」
2時を回った小さなジャズバー。
二人きりになったところで、馴染みのバーテンダーは何杯目かのラフロイグを差し出しながら慰めるようにそっと囁いた。
流れるのは、マイルス・デイヴィスの『マイ・ファニー・バレンタイン』。コルトレーンがいた頃のクインテットで、『クッキン』というアルバムに収録されている佳曲だ。マイルスのすすり泣くようなトランペットの声が、切ない気持ちにさせる。
「今晩は付き合うぜ、『天使』さんよ」
天使にだって、酔いつぶれたい日はあるものだ。
久しぶりに黒澤明の『酔いどれ天使』を見て、何故かあの夜のことを思い出した。
恋、ではなかったと思う。
傷ついた男と女の、傷の舐め合い。
お互いに、甘える相手が欲しかっただけ。
それでも、女の子に「天使」と呼ばれたあの夜は、男としての僕に大きな勇気と自信をくれた。
「AMADEUS(神に愛されし者)」なんて名前を恥ずかしげもなく名乗れるのも、彼女のおかげかもしれない。
実際の僕は、立派な『酔いどれ天使』になってしまったけれど…
昔話に夢中になりすぎたので、映画の紹介は次回に回します。