「美しいものが死んでいくのを見るのはとてもつらい」“It's so sad to watch a sweet thing die...”(“Caroline, No”)
いろいろなところで言われるように、『ペット・サウンズ』はトータル・アルバムだ。収録曲を個別にピックアップしてももちろん名曲揃いだけれど、アルバム全体として、通して聴いた時にその真価を体感できるよう構成された名盤だ。
曲の順番も、オリジナル通りでなければならない。
ガールフレンドとの明るい将来を夢想する『素敵じゃないか(Wouldn't it be nice?)』から始まって、懺悔と贖罪(『僕を信じて(You still believe in me)』)、夜明けへの不安(『しゃべらないで(Don't talk(put your head on my shoulder)』)を経て真実の愛の悟りに到達し(『神のみぞ知る(God only knows)』)、未だ悟らない世界との軋轢に苦悩した末(『間違った時代に生まれた(I just wasn't made for this time)』)、失った愛と青春の後ろ姿の幻に憧れ、涙する(『キャロライン・ノー(Caroline, No)』)。
『ペット・サウンズ』はこの順番で聞かれるべきだし、曲について語る時もこのストーリーに沿って進めるのがきっと正しいのだろう。
(フジーリはビーチ・ボーイズとブライアンの歴史及びアルバムの成立過程と絡めながら叙述しているので一部順番の入れ替えがあるが、これはこれで正しくて、これ以外ないだろうという絶妙な構成になっている)
しかし僕はあえて、アルバム最後の曲、『キャロライン・ノー』から始めたいと思う。
ある意味邪道で、見方によっては冒涜かもしれないけれど、「僕の『ペット・サウンズ』」は、この曲から始まらなければならない。
その理由があるのだ。
前の記事で示したように、僕が『ペット・サウンズ』に出会ったのは、いわゆる「青春」時代ではなくて、それを過ぎて少し経った頃だった。その頃に『ペット・サウンズ』を聴きながら、青春の終わり頃、大人になる一歩手前のことを思い出していた。
言い換えると、『ペット・サウンズ』が思い出させる青春の終わり頃が『素敵じゃないか』から始まる楽曲郡で、アルバムを聴いて青春を思い出す「今」の心情にリンクするのが『キャロライン・ノー』だったのだ。
となるとある意味で僕は『キャロライン・ノー』を経由してアルバムの全楽曲を受容しているし、『ペット・サウンズ』全楽曲を聴く経験自体が『キャロライン・ノー』一曲に収斂されているとも言える。
だから「僕の『ペット・サウンズ』」は、『キャロライン・ノー』から始まる。
『キャロライン・ノー』から始め、『素敵じゃないか』から始まるアルバム全体へと展開しなければならない。それが僕にとっては自然であり、必然であるように思えるのだ。
時に「バッハ的」と言われるほど重層的で多声音楽のような構成の他の楽曲と異なり、『キャロライン・ノー』は非常にシンプルな歌だ。
しかしそれ故に、ブライアンの「生の声」が僕らの耳をダイレクトに貫くことになる。そしてブライアンと僕らは、もはや戻らない「青春」への郷愁を共有する。
例えば僕は夕暮れの海辺にいる。
海は沈みかかった太陽でオレンジ色に染まり、オフシーズンで人のいない砂浜はひどく淋しい。
少し荒んだ波を眺めていると、昔一緒に海に来たガールフレンドを思い出す。
鮮やかなビキニから溢れそうな生気に満ちた肉体。
小麦色に焼けた健康な肌。
そして、夕陽を跳ね返して輝くブロンドの長い髪。
僕らはこの海で人生の夏を分かち合い、心を開いて触れ合い、そして愛し合った。
しかしその彼女と、彼女と過ごした青春は、もはや過ぎ去ってしまった。
キーが上がってファルセットで歌われるこのブリッジは、ある意味ではもはや歌ではない。
これは腹の底から絞り出した叫び。
血涙とともに漏れ出てしまった啜り泣き。
そして、胸の鼓動に同期して寄せては返すさざ波。
それぞれの表現が矛盾しすぎているけれど、一度聴いてもらえばきっと分かるだろう。
この喩えが決して誇張ではないこと、そして結局、ブライアンのこの絶唱に比べたら、どんな上手い描写も意味の無い、虚しいものであることを。
“the things that made me love you so much then ”-
これについてフジーリのこの箇所以上に表現することはなかなか難しいだろう。
そして、ブライアンの悲痛な叫び。
こうして「キャロライン・ノー」は、「アルバムの完璧なコーダになった(同携書 p185)」。
「心は保護されなくてはならない。」
フジーリのこの一節を読むと僕はつい、『新世紀ヱヴァンゲリオン』の「ATフィールド」を思い出してしまう。あるいはATフィールド=自我境界を形成しきれていない少年達が抱える、「ヤマアラシのジレンマ」を。
(エヴァをこの観点から分析した『改訂版 エヴァンゲリオンの深層心理(幻冬舎 2018)』は分かりやすく、深い著作だ)
エヴァンゲリオンはいろいろな側面のある作品だけれど、少年が大人になる過程、青春期をテーマのひとつにするという点で、ビーチ・ボーイズとつながることがあるとは思わなかった。
しかしそう考えると、『キャロライン・ノー』=『ペット・サウンズ』で憧憬される「“the things that made me love you so much then ”」とは必ずしも綺麗事で済むようなものではない。それは一方では心を開いた(保護されていない)ナイーブな交流であり、純粋な忘我の愉悦だけれど、一方では『エヴァ』の中で少年達が(時に「大人になりきれない大人達」が)演じたような、痛々しいやり取りでもあるのだ。
古い歌謡曲の『青春時代』に歌われる通り、青春とは思い出すときれいだけれど、そのただ中では、「ヤマアラシのジレンマ」に苦しみ、「ぬか喜びと自己嫌悪」を重ねる日々を過ごしているものなのだ。それを重ねるうち、他者との関わり方を覚え、ATフィールド=自我境界を確立していく。「心は保護されなくてはならない」のだ。
しかし、それでも思ってしまうのだ。
世界の期待する「ペルソナ=仮面」を被って役割を演じてうまくやっている「大人」の今より、世界に対して心を開き、あるがままの自分でありながら、世界とひとつであった(ように感じた)「少年」の頃のほうが、より正しく、より美しい生き方だったのではないか、と。
一度失ったら取り戻せないものだからこそ、その青春期の美しいものはことさらに、輝いて見える。
『ペット・サウンズ』を聴いて僕は度々、『ロング・グッドバイ』を思い出す。それは『ペット・サウンズ』が思い出させる大学生活の終わりの時期に繰り返し読んでいたからだけではなくて、きっとチャンドラー作品の登場人物達(特にテリー・レノックス)が抱く「失われた美しいもの」への憧れが、(戦争によって失われたか、「大人」になることで失ったのかの差はあれ)」、『キャロライン・ノー』で「身も世もなく」叫ぶブライアンのそれと重なるからかもしれない。
アメリカ本土の西の果て、カリフォルニア。
太平洋を目の前にしたそこは、『Air/まごころを、君に』のラストシーンでシンジとアスカが取り残された浜辺のように、荒れ果て、救いがない。
そしてブライアンには、テリーには、「アスカ」はいない。たった一人でこの世界の果てまで生き急ぎ、たどり着いてしまった。少しばかりタフにならなければならなかったが、結局のところナイーブで、傷つきやすい心だ。
そして、叫ぶ。
美しいものが死んでいくのは、とてもつらい。
失われた美しいものは、もう取り戻すことはできないのか?
しかしその叫びは宙に吸い込まれ、波がかき消していく。
それは過ぎ去った日々への、永いお別れ。
そして僕の『ペット・サウンズ』は、この「終わり」から「始まった」のだ。