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水銀燈試論①ー逆十字のルシフェルー

去年(2018年)のハロウィンの時期、「ローゼンメイデン」という作品に偶然再会した。
昔友人に勧められた時はあまり魅かれなかったが、その魅力を再発見した今、自分でも信じがたいほどにハマっている。

中でも特に気に入っている「水銀燈」というドールについて、拙いながら語ってみたい。特に、「創造主」ローゼンとの関係について。

娘の「再生」/「断罪」と「贖罪」

そもそもローゼンは、なんのために第一ドール水銀燈を創ったのだろうか。

死んだ娘を人形として蘇らせる。

もちろんそれもあるだろう。

しかしもうひとつ、蘇った「娘」に自分が彼女に生前犯した罪を罰してもらいたかったのではないか。

初期アニメ版において水銀燈は、腹部がない人形として登場する。
あれは彼女自身と妹達が考えるように未完成でも作りかけでもない。

あれはローゼンを罰した後、彼の「心臓」を収めて共に天へと昇るための装置だったのだ。
柿崎めぐが後に水銀燈を「黒い天使」と呼んだのは間違いではない。

「優しいだけの言葉なら 今の僕は癒せない」
(GACKT『REDEMPTION』)

ローゼンにとって誤算だったのは、蘇った娘(水銀燈)は想像とは異なり、父に怒りの念を向け復讐するどころか、思慕の念、愛情を返してきたことだった。めぐが言ったように、彼女は優しすぎた。

娘は父を罰することもなく、かといって許すこともない。父は罰を受けることによる贖罪の機会を失ったまま、罪の意識を抱えて生き続けなければならない。

「水銀燈」は鳥(金糸雀)や鉱物(翠星石、蒼星石、真紅)や植物(雛苺)と違い、人工物である。他者(人間)から電力を注がれなければ光り続けることはできない。
つまり父ローゼンの死は、娘水銀燈の死に直結する。

愛する娘を「二度も」殺すことができないローゼンは、自分で自分を罰することもできずに罪を抱えながら生き続け、彼女に力を与え続けなければならないのだ。水銀燈に照らされて光る、自らの業を見つめながら。

憎し、恋し。

この「父娘」の間には、複雑な感情が相互に交錯する。

ローゼンは水銀燈を、自分を罰しないことによって贖罪の機会を奪い、永遠に続く苦痛の生を強いた存在として憎む。自身の断罪者としての役割を果たさないこと、娘が本来持っていたはず(と自分が考える)の自身への復讐の念を持たないこと、二つの意味で水銀燈はローゼンにとって不完全、「ジャンク」になってしまった。

逆十字のルシフェル/プログラムされた大罪への贖罪のデポジット

そして父は娘に、二本の逆十字を背負わせる。

「原罪」の贖罪の十字架だけではない。

「これから」犯される罪への購いのためのデポジットでもあるのだ。

ひとつは父の罪。ローゼンメイデンの製作、生命の創造という神への挑戦と冒涜。

もうひとつは娘の罪。
これから起こすであろう「創造主」ローゼンへの反逆。

水銀燈にあっては罪は犯してから償うのではない。償ってから罪を犯さなければならない。

逆の十字を背負うことで、彼女は父ローゼンの共犯者になりながら、同時に父に対しての反逆をもプログラムされているのだ。

しかし一方でローゼンは、水銀燈を強く愛してもいる。自分の娘に最もよく似た、そして恐らく自分にも良く似た、強がりばかりで素直になれない長女、第一ドールを。水銀燈とは父ローゼンにとって光をもたらす者であり、墮天使ルシフェル(lucifer >lux「光」+ ferre「もたらす」)でもあった。

漫画版の最終回、娘の死に対しての自責の念、罪の意識を教会で告白するめぐの父に、水銀燈は許しと救いを与えた。そしてマスターめぐ、「もうひとりの自分」の罪と、その父親の罪を背負って、空へ飛び去っていく。

自分自身の父を許し、背負わされた罪の宿命に抗うのではなく、受け入れたかのように。

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