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衛宮さんちの今日のごはん

肉体的にも精神的にも、限界だったのだろう。
やけ酒の果てに、いつの間にかぶっ倒れていた。

朝、始業前に何年か振りに会社に病欠の届けを出して二度寝し、目覚めた時にはもうお昼だった。
熱は下がらないし、頭痛もするけれど、幸い食欲はあった。
随分エネルギーを消費したようで、ひどく腹が減っていた。
昼食を、作ることにした。

長らく糖質制限していたけれど、こういう時だからと主食はしっかり摂ることにする。
雑穀米ならまぁセーフだろう、と自分に言い聞かせる。

食事をして、随分落ち着いた。
何とも満ち足りた心地がした。
月並みな言い方だけれど、「食べる」ことの偉大さを、再確認したような。

とはいえ体はまだだるいので、またベッドに入って休むことにする。
昨日展覧会のショップで買ってきたFateの間桐桜のマグカップにコーヒーを入れ、寝物語にFateのコミカライズを読む。
『Heaven's Feel』の6巻「6日目/桜の看病」、そして『衛宮さんちの今日のごはん』4巻「ほっこり鍋焼きうどん」を読んでいるうちに、疲れて寝入ってしまった。

昼寝から覚め、夕食を食べたらまた元気になった気がする。
体調不良のせいとはいえ、急に天から降ってきたこの休み、何もしないのも虚しいのでひとつ記事を書くことにした。
最近気になっているテーマ、「食」と「Fate」について。

食=他者を取り込む

「Fate/stay night」、特にHFルートでは、「食べる」「吸う」という行為がライトモチーフとして見え隠れしているように思う。

メインヒロインの一人セイバーは、サーヴァントであるにもかかわらず「食」に人一倍こだわる。
「食事」をしない他のサーヴァント、例えばライダーは当初は人間の生き血を啜ることで魔力供給をしていた。

そして、間桐桜。
「衛宮さんち」の台所と食卓を士郎と共に管理するまでになった彼女は、よく食べる。
体に住み着いた蟲の影響もあるだろう。魔力消費が多すぎるから、その分摂取しなければならないのだ。
そして通常の食事で追いつかなくなった時、桜は「別の手段」で飢えを満たす。

劇場版の『Heaven's Feel』第二部「ii. lost butterfly」で、魔力が足りなくなった桜が士郎の指から血を啜るシーンがある。
二人ともが「一線」を越えることを恐れながら、自身の中の情動を圧し殺しながら焦れったく「つながる」この場面は、ある意味ではそのあとに「一線」を越えてしまったベッドシーンよりもエロチックだ。

しかしそれでも満たされない。
愛しい男の血を啜り、精を貪っても足りない彼女は、夢の中、無意識に他者を文字通り「食べる」、カニバリズムにまで至ることになるのだが…

ちなみに本格的に桜が「闇堕ち」する直前の夕食の席、彼女はいつもの食事が「味がしなくなった」ことを独白している。
彼女の中で何かが変わった、「よくないモノ」を孕んでしまったことを暗示するのが食事のシーンであることは、何とも示唆的だろう。

「食」とは他者を自分の中に取り込み、自分自身と同化させ、自身を養うことだと言える。
よく言われるように「食」と「エロス」は通底していて、「Fate」の世界でもセックスのような食事、食事のようなセックスが頻出するけれど、より比重が高いのは「食」のほうではないかと、最近思っている。

「セックス」は孤立した個人間がつながる行為で、『新世紀エヴァンゲリオン』のほうが、「孤立した個人」になりえていない主人公達がお互いのATフィールドを時にぶつけ合い、時に解除し合う過程において、(碇シンジは実際にはヒロイン達と肉体関係を結ばないにもかかわらず)逆説的に「セックス」が扱われている気がしている。

料理=「ケガレ」を取り除く

「Fate」で面白いのは、「食」というテーマと対になって、「料理」という行為がクローズアップされているところだ。

主人公衛宮士郎は、料理が上手な「エプロンボーイ」だ。
『衛宮さんちの今日のごはん』というスピンオフ作品まで生み出してしまうほど、彼の料理男子っぷりはすごい。

料理という行為の意味付けのひとつに、食物の中にある「ケガレ」を浄化し、無害化するということがある。
「聖別」、というと何とも大袈裟かもしれないが、同じ方向性だろう。
セイバーが家に来てからは英霊という「神前」に食物を捧げるようになることも、料理という行為が持つ「浄化」という性格を強調している。

桜は、自分自身が「ケガレ」ていることに、ひどくコンプレックスを持っている。
HF劇場版第二部の「非処女」発言は衝撃的だったが、士郎と一線を越えることに対して葛藤するシーンで独白した「先輩を汚せない」という思いも、桜の「不浄」という自己規定を裏書きしている。

そんな桜を前にして、「十を救うために一を殺す度しがたいまでの聖人」切嗣とは違う選択肢を、士郎なら採ることができる。
桜を許し続け、彼女の「ケガレ」をすべてありのままに受け止め浄化する、という解決を。

食卓=聖別されたアジール

「わたし先輩の家じゃないとご飯をおいしくいただけなくなっちゃったんですから」
-間桐桜
「私はシロウの…あの家で取る食事が良いのです」
-セイバー

最後に、「食」と「料理」がなされる「場」、「衛宮さんち」について。

男子高校生が一人暮らしのこの家は、実は物語中で提示される中では唯一の、家族神話としての「一家団欒」が行われる場だ。

そこでは「家父長」たる士郎が食卓を取り仕切り、「通い妻」桜がサポートする。入り浸っているイリヤと大河は、「成長が止まっている」という点では「永遠の子供」と言える。
「作られた生」イリヤは年を取らないし、少女の頃からの切嗣への思慕の念を持ち続け、生まれ故郷の冬木市に留まり自身の母校で働き、昔からの人間関係の中で生きる大河の時間は止まっている。だから「永遠の子供」なのだ。
おあつらえ向きに、英霊達まで食卓を囲う。彼らに食事を供することは、食を神前に捧げることの代償行為であり、それによって「衛宮さんち」は一種の聖域、アジールとしての機能を持つことになる。

外界からエネルギーを、「ケガレ」は浄化し無害化(「料理」)した上で「うち」に取り入れる(「食」)。
聖別されたアジールとしての食卓で、人々は集まり、「ファミリープロット」を嬉々として演じる。
その何とも言えない暖かみが、凄惨な聖杯戦争のただ中でも人々を養い、救ってくれるのだろう。

そして時に、辛い現実に荒みきった僕のような魂すらも。

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