西部劇の「異端」とDesperados(マカロニ・ウェスタンを観て)
随分前に通っていた立ち飲み屋の常連に、マカロニ・ウェスタンが好きな人がいた。
その店の女主人に気があったので、印象を良くしたくて彼とも仲良くしていたのだが、話を聞くうちにマカロニ・ウェスタンの面白さに魅せられてちょくちょくつまむようになった。
もうその店から足が遠のいて三年近く経つが、マカロニ・ウェスタンは今でもたまに見ている。
今回はマカロニ・ウェスタンの魅力について、乏しい知識ながら語ってみたい。
マカロニ・ウェスタンとは?
マカロニ・ウェスタンとは、ざっくり言うとイタリア製の西部劇である。
撮影現場も監督も「本場」米国ではなく、イタリア人監督によるヨーロッパロケ。俳優はハクをつける意味と宣伝効果のためにハリウッドから呼ぶこともあるが、ヨーロッパの俳優が大多数だ。
このジャンルの確立者はセルジオ・レオーネで、黒澤明の「用心棒」にインスパイアされて、「荒野の用心棒」という、ストーリーをほぽ完全にコピーしたマカロニ・ウェスタンを監督している(のちに盗作として訴えられた)
その基本路線は、「アンチ・アメリカ西部劇」と呼ばれる。いわば、「西部劇」の「異端」なのだ。
具体的にどういう特徴があるか、見てみたい。
①リアリズム
マカロニ・ウェスタンはいわゆる正統な西部劇と比べて、非常にリアリスティックである。
まず挙げたいのは、登場人物同士の関係性の微妙なあやと、心理の微妙な揺れの描写の巧妙さだ。
マカロニ・ウェスタンでは、セルジオ・レオーネの代表作のタイトルをもじれば、「善人(il buono)」と「悪人(il cattivo)」の間に多くの「卑怯者(il brutto)」がいて、彼らは状況によって「善人」についたり、「悪人」についたりする。
あるいは「荒野の用心棒」「続・荒野の用心棒(原題:django)」のように、二つの「悪人」グループの間を行ったり来たりする。
ちなみにこの二作は邦題からもわかるように、黒澤の「用心棒」から強く影響を受けている。(実は共通点はそれだけで、邦題で「続」とつくにも関わらず、二作品にはストーリーにまったくつながりはなく、登場人物もまるで違う。監督すら異なる)
主人公(「善人」)側につく人々も、正義感にかられて味方するというより、利害関係があるから協力することが多い。「夕陽のギャングたち」の主人公と山賊などまさに好例だろう。
また、主人公が「絶対善」で、敵役が「絶対悪」という構図自体がそもそも成り立たないことも多い。
主役以外の登場人物が、「善人」側、「悪人」側にきっぱり分かれることが多い本家の西部劇と比べ、リアリスティックな人間関係に思える。
この点ではジンネマンの「真昼の決闘」の保安官と市民の関係性の描写も秀逸だが、あれもやはり西部劇としては「異端」で、当時はかなり冷遇されたようだ。
主人公(もしくはカウンターパート、悪役)とヒロインが恋に落ちる過程も、「正統」西部劇と比べかなり複雑だ。
「続・荒野の用心棒」での主人公ジャンゴとマリアの関係は好例だ。
マリアは町に影響力を持つ二大勢力、南軍の少佐とメキシコ反乱軍将軍双方と関係を持ち、両者からリンチを受けるところをジャンゴに助けられる。マリアは彼に好意を持つが、男は女からの「お礼を受けとる」ということで一夜を過ごすも、それ以降は彼女を邪険に扱う。
ジャンゴにはかって恋人がいたが、少佐に殺された過去がある。死んだ恋人を忘れられないままで、マリアの愛を受け入れることはできないのだ。
ジャンゴがマリアに好意を持っていなかったわけではないだろう。
折に触れて見せる気遣いは本物だろうし、酔ったメキシコ反乱軍副官がマリアを襲った時、割って入って助けたのはジャンゴだった。副官を倒した後マリアにされた告白を拒み別の女を寝室に連れ込んだ時(実際はメキシコ人達を出し抜く為のカムフラージュだった)、マリアへ当てつけているというよりは、からかっているようにも見えた。愛しているからこそ、傷つけることを恐れて突き放した部分もあるのかもしれない。
長くなるので詳述しないが、「ウェスタン」で敵役のヘンリー・フォンダと未亡人が関係を持つに至る顛末と、強いられた情事の後の女の複雑な心理の描写もきめが細かい。
マカロニ・ウェスタンを撮ったイタリア人監督は、西部劇を撮る前にすでに別のジャンルの映画に参加した経験がある。
その際に同じイタリア人の先人から影響はもちろん受けただろう。ロッセリーニのネオレアリスモ、フェリーニやヴィスコンティの官能美などである。
それらの要素が、彼らの撮る西部劇に微妙な陰影を与えているのだろう。
②ダークヒーロー
マカロニ・ウェスタンの主人公は、「絶対善」などではない。
ある男は復讐のために生き(「続・荒野の用心棒」「ウェスタン」)、ある男は過去の罪を背負って生きる(「夕陽のギャングたち」)。あるいはただ賞金稼ぎのために戦う場合もある(「夕陽のガンマーケット」)。
「殺しは静かにやって来る」の主人公のような「仇討ち代行屋」もいる。少々突飛だが、日本の時代劇「必殺仕事人」にも通ずるものがあるかもしれない。
彼らは「英雄」でも「半神」でも「神の代理人」でもない。ただの人間なのだ。
復讐という私的な目的で戦い、それすらも「続・荒野の用心棒」のように、ハムレットよろしくためらい、死んだ恋人の復讐と金を手にして新しい人生を始める計画との間で揺れるような、弱さを持った人間なのだ。
しかし弱さを持ったただの人間だからこそ、生きるためにあがいている。他者に媚びを売って「私」を捨てるのではなく、あくまで「私」として生きるために。
デスペラード。
ハード・ボイルド。
彼らの生き方は、西部劇の枠を越えて、ひどく現代的にすら思える。
③官能性
ひどく個人的かつ曖昧な表現になるが、マカロニ・ウェスタンでは人間の「身体」や「生理」を生々しく描いているように思われる。
例えば、ものを「食べる」シーン。
「夕陽のギャングたち」の冒頭で、アメリカからメキシコに入った富豪たちの馬車の中での食事を撮ったシーンがある。
そこでは彼らの口を一人ずつアップで写し、食べ物を口に運び放り込むさま、話しながら咀嚼する様子と音、すべて呈示するという演出がなされている。メキシコを食い物にするアメリカ人、文明の皮を被った蛮族のイメージだろうか。とにかく強烈なシーンだった。
「殺しは静かにやって来る」でも、賞金首のかかった山賊の少年相手に「ひと仕事」終えた賞金稼ぎが丸焼き肉にかぶりつくシーンや、山賊が新任の保安官の馬を奪って食べるシーンなど、「食べる」ことをよく写していたように思う。
下世話な話だが、別の意味で「食べられる」女の体も、イタリア人らしいというか、非常に丁寧に撮られている。
もちろん、エロい。だがそれ以上の、獣欲をそそるだけのエロさを越えた官能美がそこにはある。
まず、脱ぐ前の服の華やかさ。時代考証をした上での衣装ではもちろんあるのだが、色使いが鮮やかで、美しい。そして「脱いだ」後を想像させるような、乳の谷間を少し覗かせる開けたドレス。
そのドレスを脱ぐ(脱がす)シーンの撮り方も巧い。脱ぐ度に新しい形、色の服が出てきて驚かされる(当時の服は今よりも重ね着して、コルセットもつけることがあったらしい)一方で、焦らされてワクワクもする。
そして、裸体(半裸体)。
肉体のセンシティブなポイントは写さないし、行為の最中も撮られてはいない。
しかしそれでも、肉の柔らかさと肌の滑らかさまで感じるような、「生きた」身体として画面に現れるのだ。映像という視覚芸術で、「触覚」という別の情報をここまで生々しく感じさせるのは簡単ではない。
「官能」。
塩野七生がヴィスコンティの「夏の嵐」の原題senso(英語のsenseと同語源)の訳として、エッセイの中で提唱した言葉だ。(「人々のかたち」)
性欲だけではなく、「感じる」という本来の意味通り、恋人同士の「感じ合い」すべてを指したような意味合いで使っていたと記憶している。
その意味での「官能」を感じさせる身体を、マカロニ・ウェスタンは呈示する。「官能」が絡み合い、もつれ合うストーリーの中で、「リアル」が立ち上がるのだ。
以上、駆け足でまとめてみた。
僕自身見た作品が多くなく、映像について論じる作法も不案内で、かなり乱暴な論や曖昧な説明もあったが、自分なりに感じた点はとりあえず残らず挙げられたと思う。
かなりマイナーというか、カルト的な扱いを受け勝ちなマカロニ・ウェスタンに興味を持つきっかけに、この記事がなれば幸いだ。