「虎に翼」と『特別な私』
朝ドラの「虎に翼」を見ている。
すごいドラマだ。
モデルは日本初の女性弁護士、判事、裁判所の所長である三淵嘉子さん。
驚くべき内容はいろいろあるのだが、今回は、今週(最終週)に繰り返された、故・美佐江の『特別な私』について、気づいたことがあったので書こうと思う。
美佐江は高校生の時、新潟の「Lighthouse」で閉店後に催していた英語教室に来ていた少女だ。
彼女は美しくて賢く、人の感情をコントロールするのが上手い。友人たちを思い通りに動かし、自分の特別だと思わせるミサンガを与え、盗みを働かせたり売春させたりする。
その万能感は、新潟を出て、東京へ行って、壊れてしまう。美佐江はたくさんの地方での女性に過ぎず、そこに自分だけの特別な居場所は用意されていない。「特別な私」はたくさんの人たちの中の一人だったことが分かる。
ここで「虎に翼」のオープニングが浮かんだ。
出てくるのは、寅子とさまざまな女性たち。彼女らはありふれた一個人だ。
物語が始まったばかりの頃も、行き交うモブの女性や少女一人ひとりにドラマが見え隠れしていると話題になった。
「虎に翼」は寅子を主人公にしながらも、同時に「ありふれた人々」を描いている。「ありふれた人々」の人生にスポットを当てながら、「特別な私」として描くことはない。山田よね曰く、「ありふれた人々」の「ありふれた悲劇」を描いている。
この間、SNSで面白い投稿を見かけた。
—―「虎に翼」早く終わって、人畜無害な朝ドラまた帰ってきてほしい。
—―〇〇とか、○○みたいな人畜無害な朝ドラが見たいよ。
等々。
朝ドラは今まで、さまざまな女性たちを描いてきた。有名な偉人の妻というストーリーだけではなく、日本初の女性〇〇、とかあの有名な〇〇を作った女性、などのドラマもあったはずだ。
でも、これらは、あのポストを呟いた人たちにとっては、「人畜無害」だったのだ。
しかも、この主たちは明らかに自分を含め、もっと多数の存在にとって「無害」だと言いたげである。
いったい、これまでの朝ドラと「虎に翼」のどこにそんなちがいがあるのか。
「虎に翼」を見ている女性たちの中にも、さまざまな意見がSNSに流れている。もちろん、熱心に見ているファン層の意見が多いのだが、「ついていけなくなった層」の呟きが興味深い。
—―いつも何かに怒ってる。
—―むつかしくて、わたしら向けのドラマではないんやと思ってしまう。
—―どうして怒っているのかわからない。
—―ヒロインの目線や気持ちから見ようとすると、怒りが原動力にならない人には、ちょっとしんどいかもな、と思う。
「いつも何かに怒って」いない人たちのドラマ。
「怒りが原動力にならない人」たちのドラマ。
それが、今までの朝ドラだった。
いつも笑顔で、つらいことがあっても我慢して乗り越えて、自分を抑えて家族や社会に尽くす。
そんな女性が「主人公」。
「主人公」とは、「特別な私」だ。
今までの朝ドラを好んでいた人たちは、自分を「特別な私」にしてくれる物語が好きだったのだ。
だから、寅子が何に怒っているか理解できなくなった時点で離れていく。
—―なにか、だいじなことを言っている。
そう感じた人たちは、理解できなくても、食らいついて観ている。
彼ら彼女らは、もはや主人公に自分を投影して、「特別な私」になって観ることはない。権利を侵害された人々の戦いのドラマとして観ている。
自分の頭で考え、今まで理解できなかった人たちの怒りを、少しでも理解しようとしている。
奇しくも本日9月24日の放送で、寅子が美佐江の娘である美幸に叫んだ。
『逆! まったく、逆!
あなたもお母さんも、確かに特別。でもそれは、すべての子供たちに言えること』
「主人公」でなくても、すべての人が「特別」だ。
その胸の痛みがその人自身にしか分からない、その唯一性において特別だ。その命が二度と還らない、その尊さにおいて特別だ。
私たちは、特別だ。
自分を投げ打って、家族や社会に尽くさなくとも。
「虎に翼」は、はて、と声を上げ始めた人たちのドラマだ。
今まで口を塞がれてきた人たちのドラマだ。
だから、人畜無害ではない。
最高だ。
どうか、この物語がフィナーレを迎えても、次の「寅子たち」の物語がやってきますように。
なるほど、あのすばらしい主題歌は、わたしたちのそんな想いも代弁してくれているんだ。
『さよーならまたいつか!』