たった一度、ほんの少し言葉を交わしただけだけど
先日『おうち性教育はじめます』の著者、村瀬幸浩さんの講演を聞きに行った。まだ暑かったのに頑張ったよねえ。中高年は出不精になるお年ごろ。
村瀬さんは言わずと知れた日本の性教育の第一人者。80歳を超えるお歳とは思えないほどの力強いお話しに聞き入ってしまったのだが、特に冒頭の少年時代のエピソードに驚いてしまった。
なんと村瀬さんの生家と私の実家が同じ名古屋市で、しかもご近所だったのである!
だからどうという話しなのだが、こういうのでちょっと嬉しくなってしまうのは私が小市民の証しであろう。かわいいなあ、小市民。
とはいえ校区としては隣で、厳密にはそんなに近所でもないような気もするが、そこは小市民的に「ご近所なんですよ、ハハハ」と笑ってごまかしておきたい。
そしてきっと村瀬さんも子どものころ行かれていたであろう、金魚祭りというお祭りが七月の終わりに行われており、幼い私も毎年楽しみにしていたものだった。
この金魚祭り、子どものころはただの近所のお祭りだとしか思っていなかったが、毎年芸能人を呼んだり、最近は市営地下鉄にもポスターが貼られているらしく、自分が思っていた以上に大きな祭りだったようである。
幼馴染みが意外と有名人だったような、私自身には何の関係ないのになんだか自慢したくなるような気がするのは、私が紛れもない小市民だからだろうか。小市民はスケールが小さくてかわいらしい。
金魚祭りというだけあって、金魚の金魚のおみこしが出たり、マーチングバンドが練り歩いたり、ミス金魚と地元のおじさん(たぶん有力者)がオープンカーに乗ったりしてなかなかに華やかで、あの金魚は名産地である弥冨から運ばれてくる金魚のことなのだと、小さなシノコは思っていたのだった。
お祭り会場の公園の近くには実際金魚を売っている店もあって、小市民シノコは「あそこの金魚は弥冨って遠いとこから来たんだ~」と無邪気に考えておった。
しかし金魚祭りの始まりは、
村瀬さんの生家は、この八幡園といわれる赤線街のなかにあり、いつも可愛がってくれるお姐さんたちが車に連れ込まれひどいことをされたり、日常的に暴力を振るわれたりするさまをみて、「自分は絶対にひとをお金で買う人間にはなるまい」と思いながら育ってきたのだそうだ。
金魚とはつまり、そこで働く女の人たちのことだったのだろう。
1957年(昭和32)には売春防止法が施行され転業していったそうで、私の幼少期にはもう、そういった店はなかったが、今にして思えば無邪気なだけではいられない歴史をもつ地域なのだった。
その近隣にある実家に住んでいた私は、金山総合駅まで自転車で行きそこから電車で通学していた。駅南側のいまは大きなビルとなっている場所には、広い駐輪場と公衆トイレと小さな祠があった(当時の駐輪場は無料だった。無料だったんだよー!!)。
そのトイレに立ち寄ったある日、洗面台で仏花の水を入れ替えているおばちゃんがいた。
(こんなところで仏花?)
と思ったのが顔に出ていたのだろうか、おばちゃんが私に声をかけた。
「線路際にお地蔵様がいるでしょ。あれはね、この近くに八幡園って遊郭があってね、そこの女郎さんたちがどうしようもなくなると、ここから線路に身を投げたの。それであのお地蔵様が建てられたの。だからたまには手を合わせてあげてね。」
お花は、駐輪場のいちばん線路に近いフェンスの前にぽつりとあったその祠に飾られていた仏花だった。きっとそのおばちゃんがお供えしていたものだったのだろう。
当時の私は女郎さんたちの苦しみも遊郭の実態も何も知らなかったけれど(今だってたぶんそう)、それからそのお地蔵さんの前を素通りできなくて、でも時間ギリギリに家を飛び出すのがデフォルトの私は、いつも形ばかり一瞬手を合わせて走り去っていた。
その頃(かれこれ30年くらい前だ)もうすでに若者であった自分に驚くが、毎日の通学途中そのおばちゃんに再び会うことはなく、すでにその土地には大きなビルが建てられている。お地蔵さんはどこに行ったのか、果たして本当にお地蔵さんがそこにあったのかすら、検索してみても分からない。
しかしあの時からもう少し経って、大学に進学した私は、ゼミ専攻の志望動機に「社会的に弱い立場に置かれている『女子ども』のことを考えたい」と述べ、今もなお、その気持ちは変わらずに私のなかにある。そしてあの土地にあったもののことも。
おばちゃん、もう顔も思い出せないけど、たまにあそこを通りかかる時は心の中でお地蔵様に手を合わせています。私は忘れないよ。
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