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わたしが再び東京ヤクルトスワローズファンに戻った日

わたしは自分がスワローズファンなのだ🐧と自覚したのは、中3か高1のまだ15才とか16才とかその辺の時だったと思う。

西暦でいえば1989年とか1990年。いわゆるバブルの終焉期という頃なのだが、そう振り返るともう35年もスワローズと共に人生を歩んでいるのだから人間というのはよくわからない生き物である。笑

あーそうだよ、わたしゃ(今年51)筋金入りのスワローズファンなんだよ笑。

そしてその筋金入りがめでたく大学生となり、大学2年生の1994年より大好きなヤクルトスワローズの本拠地でもある、神宮球場でアルバイトをするまでに漕ぎ着くのである🐧

前年の93年に高津空振り三振ー!で激闘繰り広げ王者西武を破り、日本一となり、実力も兼ね備えた東京の人気球団へと変貌を遂げるいわゆる野村黄金時代の走りの時で、もうそれはそれは授業がおわれば一目散に駅へ向かい、電車を乗り継ぎ神宮球場へ足取り軽く向かうのである。笑
それを卒業するまで続けた。

ちなみに大学四年時、就職活動と並行しわたしは高校の教職も取っていて笑。教育実習へもいった。それでも神宮球場へ!

大学3年生の時は死んだじいさんが入退院を繰り返してた時で夜中の介護も手伝ってた。
それでも神宮球場へ!

そして、つば九郎デビュー(1994/4/9)とわたしの神宮球場バイトデビューは同じ年なので先生とわたしは“同期”なのであるよ笑

その時は気付かなかったが、今思えば神宮球場で働けたあの3年間だけはわたしの人生の日々の中でも、ウソも打算も駆け引きも気苦労もそういう今ある当たり前の一切がなく、笑、純粋無垢でキラキラとした、本当に夢のような3年間だったと思う。50年生きてきてあの3年間はもう誰にも邪魔されない大切な宝物だったんだとはっきりいえる。

ありがとう神宮球場
ありがとうヤクルトスワローズ🐧

まあ前置きはこんな感じで、お題の本題に入ろう。

そして卒業と同時にわたしは社会人になった。とある一部上場企業に入社し見事に立派な社畜となった。詳しくはこちらを参照ください。↓。

1997年に入社し退社した2014年まで,1/3くらいは午前様にしか家に帰れないくらいの社畜がリーマンをやめ宅建の専門学校へ飛び込んだ。宅建の試験は10月の第3週日曜と毎年決まってるんだが、笑、勉強がひと通りおわり、わたしはある時家のテレビをつけた。多分9月の半ばくらいだと思う。

テレビをほとんど見ないくせに無駄な贅沢病が好きでCSチャンネルだけは契約してたのである。

チャンネルころころしてたら、巨人VSヤクルト戦が目に入った。ほぼ15年はまともに試合もチームも追ってない。特には2001年に日本一になってから低迷期にも入ってて、ヤクルト戦をこの時間に見るのは相当久しぶりだった。

選手はよくわからないが久々に見たヤクルト戦で、巨人に勝った🧌

この“ジャイアンツに勝った”というのを久々に目のあたりにし、眠ってた野球愛⚾️?眠っていたアンチ巨人?いやスワローズ熱が力強く蘇ってきたのである。笑

そこからだ。順位表をチェックし選手を覚え笑。それが9月の半ばだったと思う。

2014年9月、これからの人生をどう1人で生きて行けばよいか彷徨ってたわたしを再び救ってくれたのは、東京ヤクルトスワローズと、画面の中で元気に動き回ってたつば九郎だった。

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