適応することと、私でありつづける/ありつづけないこと
米留学2週間目の悩み
米留学3週間目、ついこないだ渡米したものと思っていたが、もう2週間も経ってしまったらしい。
この2週間ずっと私はとあることで悩んできた。それは「話せなさ」だ。
英語学習や英会話練習はある程度やってきたほうだと思う。学部時代、とくにコロナ禍のセルフ自粛期間にはかなりの時間を英語学習に割いてきたし、英語案内ボランティアへの参加・運営経験に加えて、いわゆる英語能力試験などではなかなか良いパフォーマンスを披露してきたものと自負している。しかしそれでも、英語第一言語話者らに囲まれて学術的議論に参加するのは途方に暮れるくらい難しい。ここ2週間、授業でほとんど一言も話せなかったことや、話せても意味を為す文を作れず、クラスメートの顔にクエスチョンマークがまざまざと刻まれていくことに、深く悩み苦しんできた。「クラスメート」なんて言葉は私の感情を無視した記号で、かれらは皆、私の英語力不足という”罪”をジャッジする裁判官のように私の目には映っていた。時々電話するパートナーや、オーストラリアにいる学部時代からの親友には、何度かそのことで弱音を吐いたりもした。
日本では感じたことのない感覚も抱いていた。キャンパスを歩いているとき、人とすれ違うとき、店に入るとき、「どうか私に話しかけないでくれ」「どうか私を気にかけないでくれ」という感覚を、ここ2週間ずっとどこかで抱いていた。日本で私を知っている人からすれば、「あの私が」である。MBTIもそりゃ変わるわけだ。
今日、私の身に起きた変化
けれど今日、何かが変わった。
朝、家の前でばったり出会った近所のおばさま-Sandy-と、私たちが住む住宅街の工事計画、建設業で働く移民たちの生活、エクアドルの政治と日本の政治、ミネアポリスの治安、大学の授業、最近お気に入りのインスタントコーヒー、スーパーマーケットの店員トラブルなどについて、かなり雑多な井戸端会議を1時間弱にわたって繰り広げた。
「It was really nice to talk with you, Akira. 」。別れ際に彼女が私にかけたその言葉を何度か小声で繰り返しながら、口角を緩ませた私はキャンパスへと向かった。
昼食を食べたあと、Coffman Memorial Unionの2階にある Queer Student Cultural Center(通称QSCC)に向かい、すでに部屋にいた4人の学生たちに「Hi~!」と陽気に声をかけつつ、奥の3人掛けソファに腰をおろした。先週はじめてここを訪れた時、誰からも声をかけられず、いてもたってもいられずに数分で部屋を飛び出したことなど記憶からすっかり消えてしまったかのように、その部屋がまるで「私のもの」であるかのように、ソファの上に足を伸ばした。
大統領選挙とアニメ(ハガレン第一作と第二作ではどちらがより傑作かという議論はカマラとトランプのディベートよりも白熱する)の話題を行ったり来たりしながら、その場にいた学生やその後入ってきた学生たちにも挨拶をして、冷や汗一滴流すことなくその部屋を後にした。
15時50分、QSCCを出た私は急いで上階の Missisippi Room に向かった。16時から始まる International Graduate Student Mixer に参加するためだ。先週の私なら、「16時40分から別の棟で授業があるから…」「10分も早く着いたら迷惑だろうし…」「RSVPもしそびれたし…」と、おそらく参加さえしなかっただろう。今日の私はといえば、「Can i join this although I haven't RSVPed and I gotta leave like in twenty minutes or so?」と図々しくもレセプションに告げ、会場にいた留学生ほとんど皆に声をかけつつ、真っ先に Free meal を皿に盛った。
16時40分、College Student Development Theory に関する授業において、本時のトピックであった科学パラダイムと存在論、認識論について議論を行う。ちょうど先週の議論では、「What do you have to say, Akira?」と、クラスメート(より正確には「裁判官」?)が話を振るまで、聞き取れていない文言についても適当に頷いてその場を凌ぎ、自らが話し始めても発話時間は大喜利の答えより短いようなものだった。それが今日はどうだ。無謀にもBraidotti、Massumi、Baradの論を織り交ぜながら、読書課題では取り零されていた New Materialism(新唯物論)の科学パラダイムについて、20人弱のクラスメートを前に5分超にわたって論説した。授業後にも残った学生らに「How was your weekend?」とか「How is everything going?」なんて、日本でならまず聞かない(というかそもそもそんなことに興味がわかない)質問をためらいなくぶつけたりした。会話が弾みすぎて、部屋の電源タップに刺したモバイルバッテリーをうっかり忘れてきてしまったほどだ。(これを書きながら、刺しっぱなしで放置して火事など起こしてなければいいのだがと若干不安になってきた。)
何が私を変化させたのか
実は前回アメリカを訪れた際、滞在期間は1週間弱しかなかったのだが、それでも帰国後に、”声量が大きくなったこと”と、”他人の目をあまり気にしなくなったこと”という変化を感じていた。いわゆる「リエントリーショック」である。前回の変化は帰国後にギャップとして初めて感じたものだったが、今回のそれは米滞在中に感じられたものだ。
今日、なぜこのような変化が私に生じたのだろう。
おそらくだが、主だった理由は3つある。
一つには英語力が、次第にではあるが、上がってきたからだろう。ドラマ1本くらいなら字幕なしでほとんどストレスなく観れるようになってきた実感があるし、土曜に友人らと出かけた際にはぷつぷつと途切れることなく複雑な数文を話すことが何度かできた。
二つめに、他の留学生たちの「もがき方」をみて自分にその姿を投影したから。うちの研究科は「高等教育研究」ということもあり基本的に米大学に勤めているアメリカ人の学生が多い。ミネソタ州という土地柄もあいまって、非英語第一言語話者との接点はあまりない。そんななか、先日留学生たちと接する機会があり、その際に「ゆっくり話していいし間違ってていい」という至極当然のメッセージを身をもって示してもらったように感じた。
三つめに、自分が苦手な会話場面を分析できたから。昨日パートナーと電話するなかで、自分以外の参加者が英語第一言語話者で3人以上のグループであるという会話場面がとくに「しんどい」ということをこぼした。さらに、英語力の問題だけではなく米国の文化的バックグラウンドが共有できていないために、固有名詞が登場した際に途端に意味が取れなくなることを話した。これらを口にしたとき、自分でもとてもしっくりきた。そして、それらの場面が苦手であるということは、全くもって当たり前ではないかと開き直るに至った。それは一種のコミュニケーションにおける心理的ストラテジーと言えるだろう。
ここに挙げた3点は、留学生研究に携わる私にとって、理論的には既知のことであった。けれど身をもって体感したのは、恥ずかしながら(恥ずかしくもなんともないが)これが初めてである。身体知として知る・身につけることの大切さとはかくたるものか、と。
「変化」: 異文化に適応するということ
人は変化する。
皺が増えたり、髪が伸びたり、体重が増えたり、減ったり、肌が焼けたり、歯がすり減ったり。私たちがそのことに気付かぬうちにも、今この時でさえも、私は変化している。
文化適応は、慣れ親しんだ環境を離れ新たな文化に身を埋めたときに起こり得る一つの「変化」である。Berry(1976)は、その著書『Human Ecology and Cognitive Style』において、文化変容(acculturation)と彼が呼ぶ異文化適応の現象を4つの象限に分類して説明する(1. 自文化を維持し異文化から逃避する「分離」、2. 異文化に同一化し自文化を遺棄しようとする「同化」、3. 自文化からも異文化からも距離をとる「周辺化」、4. 自文化を維持しながら異文化と関わり合う「統合」)。
このモデルでみれば、私は今、アメリカという社会、米大学という教育文化に「同化」している最中なのだろうか。遠慮よりも自己表明、受け身よりも積極性、正確さよりも努力の表明、、、これらが米大学における教育文化の本質だとまでは言わないが、おそらく日本での大学生活で獲得してきたハビトゥス(周りに気遣う配慮と遠慮、教育サービスの消費者としての受け身姿勢、入念な準備に基づく正確さの追求など)を、今日のところは「脱いでみた」というのは事実だろう。このことによって、アメリカでの生活が少しばかり気楽になったのと、「どうか私に話しかけないでくれ」などとは一切感じずに帰宅できたのは確かである。
このような適応状況にワクワクしているとともに、一方で、どこか別の不安のようなものが生まれてきてもいる。
私でありつづける/ありつづけない-私であることとは何か
今日私が「脱いだ」ものとは何なのだろう。遠慮深さや正しさへのこだわり、周囲への気遣いなどは、私の「持ち味」ではなかったか。パートナーや友人たちが愛してくれた私の像とは、まさにそのような「私」ではなかったか。
「逆適応」や「リエントリーショック」と呼ばれる、異文化適応後の自文化再適応においては移動主体の心理的変化が広く議論されてきた。一方で、この議論が頻繁に見落としてきたのは適応の関係論的視点、つまり、リエントリーによるショックは、移動主体の身近な他者にとっても「ショック」になりえるだろう、という視点だ。かれらが愛してくれた私の像が「あの時の私」である限りにおいて、その像の非一貫性や揺らぎは、愛の破綻や躊躇を意味するのだろうか。
鑑賞のタイミングを誤ったために(果たしてそれだけが理由だろうか?)全く共感できなかったあの映画、『花束みたいな恋をした』のあの二人のように、「変わりゆく者」を人は愛し続けられないのだろうか。私でありつづけられない私を、かれらは愛しつづけてくれるだろうか。
パートナーが愛した私の影が、私のなかで少しずつ薄らいでいくことへの抵抗として、トランクに入れていた三島の小説を今日の私が開いている。渡米前、彼はずっと三島の『豊饒の海』に魅せられていたから。
留学生活を通して、おそらく私は変化する。異文化コミュニケーション研究者はそれを「適応」と呼び、教員らはそれを「成長」と称するかもしれない。はたまた、打ちひしがれて途中離脱をした場合には「転落」などと指さされるのだろうか。少なくとも一時帰国の際に「カブれた」と言われることは目に見えている。
留学を終えたあと、私は私でありつづけられているだろうか。
私でありつづける私というのは、つまるところ何であろうか。
誰が私の何をもって、私でありつづけていること/ありつづけていないことを知りえるのだろうか。
適応過程で「私」を脱いだ〈私〉を、ある意味において転生後の〈私〉を、あなたは〈私〉として愛しつづけてくれるだろうか。
「その松枝清顕さんという方はどういうお人やした?」
本多は呆然と目を瞠いた。
耳が違いと云っても、聴き損ねる言葉ではなかった。しかし門跡のこの言葉の意味は幻聴としか思われぬほど理を外れていた。
「は?」
と本多はことさら反問した。もう一度門跡に同じ言葉を言わせようと思ったのである。しかし全く同じ言葉を繰り返す門跡の顔には、いささかの衒いも韜晦もなく、むしろ童女のようなあどけない好奇心さえ窺われて、静かな微笑が底に絶え間なく流れていた。
「その松枝清顕さんという方はどういうお人やした?」