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98歳で海士町に移住したお婆さん「いいところだから海士に友達を呼びたい!」~前編~

2024年10月4日(金)17時31分 菱浦港に「海士町史上最高齢、98歳の移住者を乗せたレインボージェットが接岸。彼女の一歩は海士町が新たな歴史を踏み出す瞬間となった…。

お孫さん・武志さんと海士町への第一歩

黒田千代子さん 大正15年9月3日生まれの98歳。
今回のインタビューでは「海士町は、とてもいいところだから、友達も呼びたいと思っています」とハニカム笑顔、ユニークな返答に、インタビューアーも時間の経過を忘れてしまうほどでした。インタビューを受ける前に、身支度を整えておられました。その行ない、振る舞いに、我々はびっくりいたしましたが、その行動の答えはインタビューでお聞きした生活歴で納得しました。(お客様に失礼のないように、トイレを済ませておく…ん~素晴らしい)

千代子さんのお孫さん・黒田武志さんは「移住者インタビュー第一弾」でご紹介しましたが、海士町に来られ、早半年以上が経過して、すっかり「海士(あま)のKURODAさん」になっています。

数ヶ月前まで、千代子さんは息子さん(武志さんのお父様)と鳥取県で二人暮らしされていましたが、息子さんの急逝という突然の不幸が千代子さんにおとずれました。深い悲しみも癒えぬ中、「私はタケちゃん(武志さん)のいる海士町へ行って生活する!」と決断。それからは、鳥取県で通われていたデイサービスセンターなどで、海士町での生活に向けて、今まで以上のリハビリに励み、その思いは揺らぐことなく、むしろ、日に日に元気になっていく千代子さんでした。

海士町に来てから1ヶ月がたちましたが、いかがですか?

 空気もいいし、景色も人も「申し分がない」、いいところです。
 本当にいいところに連れてきてもらった、私はここで「骨」になることに
 決めました。

写真を撮らせてくださいの言葉に手ぐしを通し、「ハイ!」

息子さんの突然の知らせ(別離)は、大変でしたね。心中をお察しいたします。

本当にびっくりです。突然の別れに考えたら涙が止まりません、優しい、いい子でした。でも、前を向くことにしたんです、考えても、いくら泣いても息子は戻ってこないから・・・。

お生まれはどちらですか?

鳥取県西伯町北勝寺福頼○○○です(はっきりと番地まで)。尋常高等小学校に通い、15歳まで鳥取で過ごしました。卒業後は広島の江田島にも住みました。海の綺麗なところです。

若い頃のお話を聞かせてください。

兄弟姉妹は2人で、兄がいましたが戦地に行くことになりましたが、無事に戻ってはきたものの、鉄砲の弾が体内に入ったままで、きつかったと思いますが、頑張り屋の兄は「駅長」にまでなりました。

小さな頃から、何でもやりましたし、やらされました。田んぼに、畑、料理も。「お前が作った料理が一番美味い!」と言われて、本当に嬉しくて、それからも頑張りました。そんな時代です。

18歳で結婚し、その後も本当によく働きました。いろんなことをしましたよ、そうそう、モーテルでも働きました。(突然出てきた表現に、聞き手のこちらが動揺・笑)人がやりたがらない仕事は、いいお金になりましたからね。お金だけはたくさんあってもいいものですからね(笑)
嫁に行って、布団がないと言われたら綿から作りました。飲み屋を自分でやった時は、1日20円(当時の小学校教諭の初任給が月50円ほど)も稼いだこともありました。

夫婦で全国にも旅行しましたよ、競馬と競輪が好きで、九州へ行ったり、そのためだけに(笑)でも、海士町は知らなかったね。孫(武志さん)がこんないいところにいるとはね、なかなか家に帰ってこなかったタケちゃんが(笑)

後半へ続く・・・

「お金だけはたくさんあってもいい(笑)」

(編集後記)
同居されていた息子さんの旅立ちもあり、「母親より先に逝くなんて・・」と悲しみのどん底にいるはずなのに、千代子さんはとにかく冗談を交えながら、我々に語り続けてくださいました。このまま一晩中、話し続けるのではないか?とこちらが不安になるぐらいに(笑)

千代子さんが生まれた大正15年(1926年)は、大正天皇が47歳で崩御(12月25日)された年。そんな昭和の激動の時代を生きてきた芯の強い方。ご自身の人生を振り返り、「よ~働きました。派手な人生を過ごしてきました、このバアさんも」と笑って語る姿を微笑ましく、見守るお孫さん(武志さん)が印象的でした。
後編では、そんな千代子さんの海士町生活を皆さんにご紹介をさせていただきます。 98歳、まだまだ現役です!!! (広報委員)

「こりゃ、美味い!」



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