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新しい表現

 文化庁、国語世論調査の結果が掲載されていた。
 時間や手間をかけずに終わらせるという意味の「サクッと」や動物などが柔らかそうな様を示す「もふもふ」と言う新しい表現について、他人の使用を8割上が気にならないとしたことが17日文化庁の2023年度国語に関する世論調査でわかった。
 いずれも5割以上が使用するとも回答しており、浸透が伺われた。
 調査は国語への意識や理解を把握し、国語施策に活用するため、1995年度から毎年実施。 
 今回は1月から3月。16歳以上の6000人を対象に質問を郵送し、3559人から回答を得たと言う。
 新しい表現については、
「サクッと」は56.2%、
「もふもふ」は52.6%が使用すると答えた。
 のんびりすると言う意味の「まったり」も52.6%が使うと回答。
 いずれも8割超が他人の使用気にならないし、特に若い世代で定着が見られだ。
 本来とは異なる意味が定着しつつある。
 慣用句も調査。
 悲しみと喜びを次々に味わうことを表す
「悲喜交々」は、本来の意味と
《悲しむ人と喜ぶ人が様々にいること》と捉えている人が拮抗していると言うことが判明した。
 悪行したのに報いを受けずにいることを意味する「悪行」については、7割近くが《悪い状況になってもうまく助かる様子》と理解していた。
 枕草子で、清少納言が言っている一言がある。
清少納言「枕草子」第185段は、「日本語の乱れ」が書かれている。

《ふと心劣りとかするものは、男も女も、
 言葉の文字いやしう使ひたるこそ、
 万(よろ)づのことよりまさりて、
 わろけれ。
 ただ文字一つに、あやしう、あてにもいやし
 うもなるは、いかなるにかあらむ。
 さるは。かう思ふ人、殊にすぐれてもあらじ
 かし。
 いづれを、「善し」「悪し」と知るにかは。  
 されど、人をば知らじ、ただ、心ちにさおぼ
 ゆるなり。
 いやしき言(こと)も、わろき言も、
 さと知りながら、ことさらにいひたるは、
 悪(あ)しうもあらず。
 わが持てつけたるを、つつみなくいひたるは
 あさましきわざなり。
 また、さもあるまじき老いたる人・男などの
 わざとつくろひ、鄙(ひな)びたるは、憎し

「新潮日本古典集成 枕草子」の第185段
 ちょっとおかしいが現代語訳としては↓

【心が情けなく思うのは、男も女も、言葉の
 文字を品なく使ってる事がどんなことよりも
 増して悪い。たった文字一つで、変化するの
 はどういう事なのだろうか。優雅にも下品に
 もなるのは…。
 そう思ってる人が特別にすぐれてもいない。
 どれが“いい”で“悪い”かってわからない。
 ただ心でそう感じることなのです。
(思っている事をそのまま言うのは、いやらし
 い事です。そんでもさ、
 下品な言葉も悪い言葉も、そうと知っていな
 がら殊更に使ってるのは、悪くもない。
 自分が使いつけてるのを用心なしで言うのが 
 よくない。
 そんな風でもない年寄り、男なんかが、わざ
 と真似して田舎くさいのはとても嫌です。

 言葉の「いやしき」使い方。
 俗語、俗用に苦言を呈するところは、昔も今も変わらないのだ。
 しかし、下品な言葉を、そうと自覚した上でわざと使うことは悪くないと…。
 そんな感じで清少納言は言う。
 ちゃんとした場面ではその場にふさわしい言葉を使うべきだと清少納言は言いたいのだ。

いやしゆう使いたるも…。


 清少納言は、いづれを、『善し』『悪し』と
自分は言葉の正邪の判断ができるほどの人間ではないので…。
   正直にか謙遜からか分からないが、ただ決めるのは、自分の「心」で善しあしを感じるのだ。

「こっちが正しいのですか」「これは間違いなんですね」などと他部署の人からよく私たち校閲に確認されることがありますが、本当のところ、はっきり○×の区別が付けられるケースばかりではありません。毎日新聞用語集に照らしてもはっきりしないことは、過去の記事や同僚の意見などを参考に、なるべく客観的に答えようとしますが、それでもよく分からないときはあります。結局頼るのは、清少納言ではありませんが自分の「心」なのかもしれません。

「こっちが正しいのですか」
「これは間違いなんですね」などと言われるが本当のところ、はっきり○×の区別が付けられるばかりではない。
 用語集に照らしてもはっきりしないことは、検索でいろいろ調べて、参考できそうなものを選択する。
 本当によく分からないときは、結局頼るのは、清少納言のように、自分の「心」《感覚》に頼る。

平安時代の「と抜き」と現代の「っ抜き」

枕草子の引用を続けます。

なに言(ごと)をいひても、「その事させむとす」「いはむとす」「なにとせむとす」といふ「と」文字をうしなひて、ただ、「いはむずる」「里へ出でむずる」などいへば、やがていとわろし。まいて、文に書いては、いふべきにもあらず。
物語などこそ、悪しう書きなしつれば、いふかひなく、作り人さへいとほしけれ。
「と」を略する使い方は、「言おう思う」「そうしよう思う」などは話し言葉で言うことがあるかもしれないが、少なくとも今、はやっているといえないし、書き言葉では間違いとされる平安時代の「と抜き」は定着していなかった。

 ちなみに現代の日本語で、「1字抜き」は、「って」の「っ」を抜かし「人間て面白い」などという書き方が多いことがあるらしい。
 真愛は、まだ「っ」が入っている。笑笑。

 今の「日本語の乱れ」といわれる現象に対し、しばしば「乱れ」ではなく「変化」と捉える見方がある。
 でも、100年後1000年後の言葉の変化を予想するなんて無理
 清少納言の時代に使われたという「いはむずる」などがなくなったように、一時期だけの流行になる可能性も大いにあ眺ると記されていた。
 ガチガチに頭が硬くなるのも考えもの。
 清少納言もいうように、くだけた言葉をそうと知った上でわざと使う場合は、親近感を持って良いのかもしれない。
『言葉は
 使う場面や相手を考えて使うべき】
1000年前の女性は、お説教じみてはいないが、現代に通じることを軽やかに言っている。 
 その柔軟さと、日本語を大事にする重みとのバランスを考えつつ、的確な文章を書きたいものである。

ー 最近の人は言葉遣いがなっていない。
  最近の若者は…。ー
と嘆いているのだ。
 何百年も前から「今時の人は…。」
と先輩たちは情けなく若者を思うのだと言う事は、その人が歳をとって、さらに今の若者はと言うのだから人は年々悪いことになっているわけだ。
 そう考えると納得がいく。
 己の私利私欲を増やすため、楽をするために自然を壊し続けているのだから、当然の報いが来ても当たり前な世の中なのだ。
 これから先の人よりも昔の人の方が賢いと言うことだ。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります