遥の花 漣 五話
各駅停車の電車、七人がけの椅子の中程に、漣、その両脇を幸とあかねが座った。
約束の日の一日前の朝、三人は本家へと向かっていた。
「幸姉さん。漣さんを返すのは明日なのに、どうして」
「明日じゃ、間に合わないからね」
幸は本家の方角を眺めると、にぃぃっと笑った。
「相変わらずの当主だなぁ」
恐縮したように漣が言った。
「幸師匠。こんなにしてまでいただき、申し訳ありません」
幸は気楽に笑うと背もたれに背を預けた。
「本家の不手際だ。幸はこれでも当主の姪だからな」
あかねが不思議そうな顔をした。
「あのおっさん。なにかしでかしたのですか」
「した」
幸は一言言うと、目を瞑った。
「奴に本家の当主は荷が重すぎる。庇って来た白澤も今度ばかりは決心しただろう」
「本家はどうなるのでしょう」
「大奥には当主の血を継いだ子供が何人かいる。どれかが新しい当主になるだろうな」
駅に着く、三人は降りると、ホームに立ち止まった。
「次を見送って、その次の列車に乗って、二つ先の駅、それを降りて歩けば、本家への道に繋がる」
あかねが列車の時刻表を見る。
「三十分ぐらいです」
幸は頷くと、漣を見つめた。
「漣。たくさんの術師が鬼からこの国を護っていた。大小合わせれば千の組織があるだろう。中でも本家は群を抜いた術師集団だった。そして、もう一つ。数年前に結成された組織がある。政府主導で自衛官と警察官から選ばれ、結成した組織だ。奴らは最新のITと忍術、呪術を使う。こういった組織がこの国を鬼から護ることになっているんだ。でも、この国の政治家や官僚が鬼に籠絡されたこともあり、うまく機能していない」
漣が目を見開いて頷いた。
「どうしますか、幸姉さん」
あかねが囁いた。
三人の前には十人の黒服が囲むように並んでいた。
幸は男達に柔らかな笑みを浮かべると、目の前の男に話しかけた。
「おじさま。何か御用事ですか」
「お嬢さん。鍾馗のお姫様に用事があるのです。少し、よろしいかな」
幸は淑やかに首を横に振った。
「私には無事、姫様をお連れする役目がございます。ですから、お連れする以外のこと、一切、受け入れることは出来ません。ごめんなさい、おじさま」
男がにこやかに笑った。
「それは困りましたな。私共も上から、鍾馗のお姫様を保護せよと命を受けておるのですよ」
幸が意を得たと、笑みを浮かべた。
「大丈夫です。私と妹がしっかり姫様を保護しております。鬼にだって、指一本、触れさせはしませんわ」
「はは、しっかりしたお嬢さんだ」
漣が気づいた。幸は術を使っているわけではない、笑顔と言葉だけで、目の前の男を籠絡している。
「おじさま、お名前、なんておっしゃるの」
「おじさんかい。田中、田中啓一郎っていうんだよ」
「た、隊長」
本当に本名を名乗ってしまった男に回りの男達がどよめいた。
「他の方たちは啓一郎様の部下なのですか」
「そうだよ。五木、長尾、斎藤。それから、大西、木村、清水、坂上、村田に、岡田」
なんの抵抗もなく、男が答えた。
「どうしたんですか。隊長、しっかりしてください」
幸はにぃぃと目を細めると、微かに漣に向かって頷いた。
「隊長、その女は危険です」
すっと、幸は言葉を荒げた男の目許を見つめ囁いた。
「五木さま、そんな怖い顔、なさらないでくださいな。もしも、失礼があったのなら、謝ります」
「いや、あ、あの、いいえ」
五木が幸の眼差しに、狼狽し口ごもった。
「あ、あの、僕は」
「五木さまは隊長の右腕として、この隊を支えていらっしゃる方、その御苦労、わかりますわ」
幸の言葉が触手のように、五木の心の中の、弱い部分に纏い付く。
五分も経たないうちに、十人共、まるで催眠術にでも掛ってしまったように、木偶の坊の如く突っ立っていた。
「皆様。これからもこの国を鬼から護ってくださいませね。皆様だけが頼りなのです。たとえ、回りの人達が鬼に与しても、皆様なら、きっと、この国を鬼から護ることができます」
幸が囁きかけると、男達が我勝ちに頷く。
一本目の電車が来る、ドアが開いた。
「おじさま、早くお乗りください。終点までゆっくりしてくださいませね」
十人の男達が何のためらいもなく、電車に乗り込んだ。ドアが閉まり、列車が動き出す。
淑やかに幸は腕を振り、列車を見送った。
「て、ことで。反乱の種を蒔いてみた。なんか、男は単純だな」
幸は気楽に笑うと、漣に言った。
「奴らは自衛隊の特殊部隊だ。ただ、自衛隊の一部は鬼の側に付いている。奴ら自身は知らないようだけれど、付いて行ったら鬼の巣窟直行だ。ま、その方が楽しいけれどな」
「凄いです、幸師匠」
憧れの眼差しで漣が幸を見つめた。
「考えてみたら、笑顔ほど凄い武器はないかもしれないな」
幸は笑うと漣にそう言った。
「さて、漣、あかねちゃん。次の電車を待とうかと思ったけど、方違えすっ飛ばして、本家へ直行だ」
幸は二人の手をしっかり握ると笑った。
「飛ばすぜ。手を離すなよ」
あかねが屈んで大きく息をついた。隣りで、漣も地面に尻餅をついて足を投げ出していた。
結界もなにもあったものじゃない。空間を強引に繋ぎ、本家まで突入したのだ。
本家の領域は入り口と白鷺城を模した城の間を湖が寝そべり、その城を越えた向こうが町となっていた。着ている服装は洋装だが、町並みは映画に出て来る時代劇の宿場町のようなものだ。これは先々代の考えにより、建物の建築に強い制限を施していたからだ。
三人は堀端の少し陰になって目立たないところに到着した。
「さてと。少し、時間に余裕ができたし、かのかに先に会うかな」
幸が二人を見下ろす。二人は座り込んで肩を揺らし、大きく息をしていた。
「鼻から吸って、口から息を出す。そうすれば、体に酸素が行き渡る」
「ゆ、幸姉さんはどうして平気なんですか」
少し、体が楽になったのか、あかねが尋ねた。
「うーん、お父さんへの愛かな」
「いえ。もう、そう云うの、いいですから」
あかねがぱたぱたと手を振り答えた。
「幸姉さんのお父さん話を聞いていたら、日が暮れます」
「日暮れどころか、徹夜で喋りつづけるよ」
幸は笑うと、辺りを見渡した。
「知り合いのうどん屋さんがあるんだ。そこで休もう」
暖簾をくぐる、テーブル四つに、カウンター席の小さな店だ。幸いにも先客はなく、三人はテーブルについた。
「なんにする」
幸が尋ねた。
「ハイカラ定食。でも、ご飯はきついでしょうか」
あかねが言った。
「鬼とこれから戦うことになるからね。お腹減って動けないのは哀しすぎるな」
幸が笑った。
「あ、あの。ここ、本家の城下町ですよね。鬼って」
漣が驚いて幸に言った。幸はにっと笑うと、漣に言った。
「本家の現当主はスカだ。今度は白澤も決心を固めただろう。漣は天ぷら定食、しっかり食え。幸はおぼろにするかな」
幸は調理場に向き直ると声をかけた。
「お願いします」
「ごめんなさい、いま、伺います」
奥からの店員の声が響いた。
「ごめんなさい。大将が出前に出ているものですから。うわっ、幸じゃねぇか」
その瞬間、店員の右手に自在が現れた。
「くらえ」
店員が両手で自在を構え、幸の喉元に突き立てた。幸は軽々と自在の先を掴むと、にぃぃっと笑みを浮かべた。
「かぬか。線がずれているぜ。精鋭の一人として父さんから、自在を学んだんだろう。父さんに恥をかかさないでくれよ」
「やっぱり、幸姉さんは恨まれていましたか」
あかねが溜息をついた。
「ちょっとした、親友同士の挨拶だよ」
幸は手を離すと、かぬかの後ろに回り、抱き締めた。
「かぬか。体調はどうかな。しっぽとか生えてないだろうね」
「さ、触るな」
幸の指先が、かぬかの首筋から背骨を通り、お尻に触れた途端、幸があっと呟いた。
幸はふっと何事もなかったようにテーブルに戻った。
「かぬか。ハイカラ定食に天ぷら定食、おぼろうどんをお願いね」
幸は真顔になって言葉を続けた。
「白澤の血は凄いな」
「白澤様を呼び捨てにするな」
「どうしたのですか」
怪訝そうな顔をして、あかねが尋ねた。
「前に白澤と戦った時、白澤の攻撃を避けたら、それがかぬかに当たって、お腹の辺りで真二つに切れた、白澤は守り神みたいなものだからな、慌てて、治療したんだけど、その時、自分の血を使ったんだ」
「死んだ猫でも生き返らせて、猫又に生まれ変わらせるという」
あかねが言葉を続けた。
「尾てい骨には尻尾の名残がある。一番、変化し易かったのかなぁ」
深刻な顔をして、幸が吐息を漏らした。
「な、なんだよ、幸」
「来い、かぬか」
幸の言葉に、恐る恐るかぬかが幸の隣りに立った。幸は無造作に立ち上がると、右手をかぬかの頭の中に入れた。
「脳下垂体が指令を出している。うーん、構成しなおしておくかな」
幸がかぬかの頭の中から手を抜き出した、全く血は付いていないし、傷口もなかった。
「かぬか、視界が変になってふらつくことがあっただろう」
「あぁ、あった」
「もう、大丈夫だ。普通に生活ができるよ」
「あ、あの・・・」
「ん」
「ありがとう」
「どう致しまして」
幸がにっと笑う。
「うどん、つくってくるよ」
かぬかが調理場へと戻った。
「白澤は悪い奴じゃないけど、優先順位がはっきりしているからなぁ」
「どういうことです」
あかねが尋ねた。
「かぬかは、ほっとけば、大きな猫になってしまうところだった。白澤はお家が大事で、かぬかのことはたいして気に留めてないってことだ。本当のところ、かぬかもそれを察していたんだろうけどな」
「やるせない話ですね」
幸は頷くと、視線を落とし俯いた。
「おや、お客さんかい。いらっしゃい」
外から、威勢の良い声が聞こえた。
「お母さん、お久しぶり」
ついと幸は顔を上げると、声の主に笑みを浮かべた。
「あれ、幸様。ひゃあ、ようこそお越しくださいました」
「様は勘弁してくださいよぉ」
「いやいや。御当主の姪御様に失礼があってはならないよ」
幸は女将に近寄ると、嬉しげに笑みを浮かべた。
「お母さんもお元気そうでなによりです」
小声で漣があかねに尋ねた。
「あの、お母さんって」
「幸姉さんはあの年頃の女性をお母さんと呼んで、甘え込む特技の持ち主です」
「うわぁ、なるほど。お母さん、めろめろですね」
漣が納得したと相槌を打つ。
「お母さん、皆さんはお元気」
「亭主はお城に上がって、週に一度しか帰ってこないけれど、息子も娘も面倒臭いくらい元気で生意気だよ」
「もうだめですよ。大事なお子さんをそんなに言っては」
幸は笑うと、ぎゅっと女の手を両手で握った。
「でも、ご亭主様があまりお帰りにならないのはお可哀想。通いになりますよう、叔父に進言致しましょうか」
「とんでもない」
女がぱたぱたと手を振った。
「亭主なんざ鬱陶しいよ、月に一日でいいくらいさ」
「ま、母さんたら」
幸はいたずらげに笑みを浮かべ、女に抱き着いた。
「母さんは言葉が悪いですよ。でも、幸は母さんの言葉にとっても優しさがあること、わかってます」
自然に女は幸の頭を優しく撫でると、吐息を漏らす。
「なんて良い娘なんだろうね」
「母さんの娘さんほどではありませんけど」
幸はにっと笑う。
「おまたせ」
かぬかが料理を運んで来た。
「ありがとう、かぬか」
幸は存分に笑顔を女に見せると、テーブルに戻った。
そして、女に聞こえよがしに、かぬかに言う。
「それで、かぬか。体の調子が悪いなら」
「え。あ、いや」
いきなりの幸の言葉に、かぬかが戸惑って答えた。
幸は女に振り返ると、哀しそうに言った。
「お母さん。かぬか、最近ね。疲れた様子や苦しそうな顔をしてなかったかなぁ」
「そういえば」
女はかぬかが調理場の腰掛けにぽつんと座って、泣いているのを思い出した。声をかけるのが躊躇われるような絶望感が漂っていた。
「そうだ、幸様は腕っ節はからっきしだけど、治療は得意だったね」
幸は力強く頷くと、女をじっと見つめた
「母さん、一カ月くらい、かぬかを幸に預けてください。きっと、元気に治すから」
「わかった。かぬかは白澤様からの預かり人だけど。白澤様には」
「大丈夫」
元気に幸が言った。
「白澤さんと幸はとっても仲良しだもの。幸から言っておきます」
あかねがうどんを啜りながら、思わず吹きかけた。
「うわぁー」
あかねが小さく呟く。
「凄いですね、幸師匠。自由自在です」
小声で漣もあかねに囁く。
「勉強になるなぁ」
あかねが呟いた。
城門の手前まで来た。
「幸、どうする気だ。おばさん達一般市民は単純にお前のことを当主の姪で人畜無害の美人と捉えているけど、警護の一部やあたしら精鋭はお前のことを最凶戦士だって知っている、白澤様と犬猿の仲だってこともな」
「なんだよ。面と向かって悪態を突き合う。お互い、信頼があればこそだよ」
幸は笑い飛ばすと、出入り門に立つ二人の兵に笑みを浮かべた。
「それじゃ、通りますね」
「待て」
慌てて二人の兵が四人を止めた。
「一切の例外なしに城には誰も入れぬようにとの厳命です。たとえ、姪御様でもお入りなることはできません」
幸はその言葉に驚いたようにうずくまってしまった。
「これは、驚かせて申し訳ありません、しかし、御当主様からの厳命により、何人たりと」
「いいえ。私こそ」
消え入るような声で、幸が囁いた。
「ごめんなさい。少し驚いてしまって」
あかねに助けられるように、幸は立ち上がると、申し訳無さそうに二人の兵を見つめた。
横から驚いてかぬかも声を上げた。
「それは白澤様の精鋭も入れないということか」
「はっ。今宵夕刻までは通すことならんと直々のお言葉であります」
「いったい、どうなっているんだ」
かぬかは何か嫌な予感を感じ、辺りを見渡す。
そっと、幸は両手を重ね、兵に向かって合掌すると、泣き濡れた瞳で兵を見つめた。
「どうか、お願いでございます。どうしても、叔父に会わねばならないのです」
「し、しかし」
兵が幸の瞳に動揺し、言葉を詰まらせた。
「う、上の者に問い合わせますゆえ、し、しばしお待ちくだ」
幸がすぃっと目を細め呟いた。
「あかねちゃん、三十分だ」
あかねの姿が消えた、その瞬間、二人の兵が白目を向き、膝が崩れ、まさしく落ちた。
「美人のお願いは即決だ。逡巡しないでくれよな」
幸は倒れた兵の後ろに立つあかねに笑いかけた。
「な、あかねちゃんもそう思うだろう」
「幸姉さん、まんま、たちの悪い悪役ですよ」
「お前、最悪だな」
かぬかも倒れた二人を引きずって端に寄せる。
「わくわくするなぁ」
幸が呟いた。
「それで幸姉さん、これからどうします」
「六階建の城。五階の本丸に十体の鬼が控えている、天守閣に鬼が一体。こいつの号令で動くのだろうな。四階には、津崎と弟子が二人、鬼と戦っている。城の者はほとんどが地下に押し込められている。かぬか、精鋭はどうした」
「私以外は出払っている」
「姑息だなぁ、当主は。かぬか、地下にほとんどの奴らは閉じ込められている。鬼は二体だけだ。かぬかとあかねちゃんは地下の鬼を倒して上へ来てくれ。幸と漣は四階の津崎を助ける」
「わかった」
かぬかが頷いた。
「それでは幸姉さん、後程」
あかねも頷くと、二人、城内へと駆け出した。
幸は二人を見送ると、漣に言った。
「漣の初めての戦いだ。気合入れて行け」
「はいっ」
「でも、鬼の血をかぶるなよ」
「え」
「ようやく会えた娘が血だらけとは、漣の親父、泡吹いて気絶するからな」
機嫌良さそうに幸は笑うと城内へと歩き出した。
「お手伝い致します」
瞬間、漣は鬼の両肩に後ろから飛び乗ると、両手で鬼の首をぐいっと天地百八十度回転させた。そして、倒れた鬼の左胸を足裏でぐっと押し込む、くぐもった風船の割れた音がする。心臓を押し潰したのだ。
間合いを読み、対峙していたはずの鬼の惨状を呆気に見る。津崎流薙刀術総帥津崎の目の前に小さな女の子がいた。はて、何処かで見たことがある。
「とりあえず、鬼を潰していきますね」
向かって来た鬼の両足を右の蹴りで払う。鬼の足が膝からあらぬ方向へ曲がり、ずとんと鬼が落ちた。
「津崎の叔母様、お久しぶりです」
幸がいつの間にか津崎の隣りで笑みを浮かべていた。
「お、お前は」
「娘たちがお孫さんにお世話になっています」
鬼が一体、幸に切りかかって来た、巨大な青竜刀を上段に構える。
「動くな」
振り返り、幸が低く呻いた途端、振り下ろそうとする鬼の動きが硬直した。術で止めたのではない、鬼が幸の言葉に恐怖を覚えたのだ。
「そのまま動くな。息もするな」
幸はそう言うと、津崎に笑いかけた。
「ひょっとして叔父からの伝書か何かでいらっしゃったのですか」
津崎は叔父という言葉に、当主の兄が無であり、幸がその娘であることを思い出した。
「至急の用事、子細は直接とあった」
「なるほど。術師の中でもあなた様は一番の頑固者。叔父はあなた様を最初に亡き者にしようとしたのでしょう」
津崎の弟子だろう、女が薙刀で下段からすくい上げるように鬼の正面を切り裂いた。その隣りで、漣が飛び上がり、鬼の顎に手を添え、頭から鬼を落とす。鬼の頭が粉砕した。
「わしを亡き者にとな」
「城の者が地下に押しやられ、鬼が跋扈しております。叔父には本家の当主を引退していただかねばなりませんね。私的には引退などと悠長なことは言わず、裏切り者を切り刻みたいところではありますけれど」
幸がにっといたずらげに笑う。後ろで鬼が一体、倒れた、窒息死だ。念のため、漣が頭を踏み潰す。
「師匠。もうこの階には生きた鬼は居りません」
漣が幸に報告をする。
「うん。良い出来だ」
「ありがとうございます」
漣が戸惑う事なく笑みを浮かべた。微かに幸が眉をひそめる。
「あっ。もしや、鍾馗の姫様ではありませんか」
津崎が驚いて言った。
漣が柔らかな笑みを浮かべた。
「お久しぶりでございます。私の方から御挨拶申し上げねばならなかったのですが、鬼をほふるのに忙しくしておりました」
「虫を殺すのすら躊躇いになる、あのお優しい姫様が」
津崎が声を震わせた。
「鬼の軍団に母は殺され、多くの民も殺されました、残った者たちも国を追いやられ、今は本家に身を寄せる有り様。姫と親しんでくれた者達に対して私は国を再興する役目がございます」
凜とした眼差しで津崎を見つめた。
津崎はあまりにものどうしようもなさに目を臥せる。
「責任は取るさ」
幸が小さく呟いた。
階下から、歓声が響いた。
すぐにあかねとかぬかがやって来た。
「地下は解放しました」
あかねが幸に報告する。
「ありがと。それじゃ上に行くかな」
「私はここで解放された皆と城の浄化を進めます」
あかねの言葉に幸が頷いた。
「なんと、鬼紙のお嬢様までこのような危険な場所に」
「お久しぶりです。でも、大丈夫ですよ。だって、精鋭のかぬかさんもいらっしゃいますもの。守ってくださいますから」
「なるほど、そなたが白澤の精鋭か」
津崎がかぬかに言った。
「はいっ」
「このお方は鬼紙老のお孫様じゃ、お優しく、間違っても荒事とは無縁のお方じゃ。どんなことがあっても怪我などさせてはならんぞ」
「は、はぁ」
かぬかは戸惑ったが、素直に頷いた。
自分の隣りでもう一体の鬼を片手で投げ飛ばし、天井に激突させた女だ、鬼がまるで自分から飛んで行き、天井にぶつかったようにも見える不思議な技だった。
「かぬかさんがいらっしゃれば、あかねは安全です」
あかねが津崎に向かって微笑んだ。
かぬかとあかね、津崎の弟子二人も浄化のためとどまった。
「お前、凄いな」
かぬかがあかねに言った。
「私がですか」
「ああ」
「かぬかさんの方が凄いですよ」
にっとあかねが笑みを浮かべた。
「え、あ。そ、そうかなぁ」
素直に照れるかぬかに、あかねは微笑んだ。
階下から、急な階段を上り、幸が本丸に頭を出した瞬間、大振りの刀が幸の首を薙ぐ。まさに首を払う寸前、一本の細い線が刃を階下から貫き、その動きを止めていた。
幸が放ったなよの術、刃帯儀だ。
幸が飛び上がり、本丸に着地すると、十体の鬼が幸に向かって睨みつけた。
「睨む前に攻撃する、そうすれば、勝てないまでも、ちっとはましな死に方ができたのになぁ」
幸は笑うと、呟いた。
「水の結界 五式全」
壁と天井に薄い水の幕が生じた、天井から水が流れ出し、壁を伝う、その水は壁と床の間で消えて行く。微かな瀬音。
「これで騒いでも上には聞こえない」
漣、津崎も登ってきた。
「さてと、この中で一番偉い奴はどれだ」
幸が鬼に向かって声をかけた。無言で睨みつける鬼達。鬼の囲みから、一歩、後ろに一体の鬼がいた。随分と、角が長い。
「ああ、後ろに、脅えて隠れているお前だな。少しばかり、話を聞きたい」
「なんだと。俺は隠れているわけではない」
鬼がむきになって、幸の前にやってきた。
「なに、簡単なことだ。何故、お前達は領土を広げようとする。鍾馗の国を滅ぼし、かぐやのなよ竹の姫の国も滅ぼし、また、この国も侵略しようとしている。どうしてそんなことをしようとするんだ。お前達が侵略行動を起こすようになって、ほぼ五年。酒呑童子の一件より、お互い関わらずの取り決めを何故、反故にした」
考えたこともなかったのだろう、鬼は絶句した。他の鬼達も、その目に微かな戸惑いを見せた。
幸はついっと漣に目をやった。
「この子は鍾馗の娘だ、母親を鬼に殺された。私はこの子に、お前達程度なら瞬時に殺すだけの術と覚悟を与えた。どうする、お前達の返答次第では次の瞬間、血まみれになって横たわることになるぞ」
「わからない。上官の指令に従うのみだ」
「馬鹿野郎。その首から上についているのは頭だろう。ガキじゃあるめえし、その足りねえ頭で考えろ」
幸の一喝に、鬼達が腰を抜かし床にへたり込んでしまった。
「手前の命も、赤の他人の命も、同じ大切なものだ。鬼の国に返してやるから、よく考えろ」
瀬音が濁流の音に変わり、その音に飲み込まれるように鬼が消えた。水音が消えた時、鬼の姿も気配もなかった。
漣が小さく舌打ちをする。
「漣」
幸が低く呟いた。
「は、はい」
「お前はまだまだ未熟だ。命を奪うことを目的とするな。命を奪うことを喜びとするな。それをしっかり頭の中に刻み付けておけ」
漣は幸の言葉に気が付いた。もし、あの鬼達を殺していれば、きっと自分は殺人鬼になっていただろう、命を奪うということ自体が喜びとなっていただろう。
「師匠。申し訳ありません」
鍾馗の長と白澤が共に後ろ手に縛られていた。二人は木組みの牢に入れられ、天守閣、一段高みに当主と鬼が笑みを浮かべ座っていた。
「当主。情けない、鬼と手を握るなど、初代に申し訳ないと思いませぬか」
「怒るな、白澤」
当主が機嫌よく言った。
「流れは鬼の側へと向いておる。この国も、そう遠くない未来、鬼と友好条約を結ぶであろう、いや、あの女が邪魔をせずにおれば、とうに結んでおったのじゃ」
当主は幸の顔を思い出したのか、にくしげな表情を浮かべた。
「あの、わけのわからぬ強さ。一体何者だ、本当にわしの姪なのか。まぁ、よいわ。今日中にことを済ませば、すべては後の祭りじゃ」
そして、白澤の隣りに後ろ手に縛られている鍾馗を見て笑った。
「まぁ、長よ。そういうことじゃ。明日、娘が帰ってくれば会わせてやろう。一月振り、涙の再会じゃ」
「当主殿」
鬼が愉快に声をかける。
「どうも、当主殿は件の女と相性が悪いようですな。下の階には屈強の兵共がおりますぞ。そのような女子供など気にするにありませぬわ」
鬼が自信満々に笑った。
これ程嬉しいことはないと笑みを浮かべた幸が当主の背後にゆらりと現れた。白澤が息を飲んだ。その瞬間、当主の体が浮き、畳三畳は充分、飛ばされ転がる。幸が右の蹴り足をじわりと戻した。津崎が階下から飛び出し、素早く鬼に駆け寄ると、その首に刃を当てた。
「動かば斬る」
津崎が鬼を睨み言い放った。
「父上」
漣が転がるように長へ駆け寄り、座敷牢の閂を引き抜き、扉を開けた。
「漣。中には入るな、お前程度なら金縛りにあって動けなくなるぞ。長よ、それに白澤。自力で出てくれ」
幸が満足そうに両腕を組み、笑った。
出て来た白澤に幸は近寄ると言った。
「もういいだろう。血統を残したいのなら、あいつの子供が大奥に何人かいたはずだ、まともなのを一人選んで教育しなおせや」
ついと転がったままの当主を見る、気絶したままだ。
「腐っても当主だ。引退させて、蟄居させればいい」
白澤が絞り出すように言った。
「助かった。ありがとう、幸」
白澤の言葉に幸が驚いた。
「なんと返せばいいのかな。ま・・・、どういたしまして」
そして、幸は長に笑いかけた。
「あんたの希望は娘の安全なんだろう。ただ、娘はお前を支えたいと考えている。私は娘の思いを優先させた。それなりに術も心構えも教えたつもりだ」
幸が振り返ると津崎が鬼に猿轡を噛まし、繋がった紐を鬼の足指に結び付け、海老反りの姿に仕上げていた。
幸は鬼に近寄ると、その額に触れる、根元から、すっと角が落ちた。そして、その角を踏み潰す。
「こいつは白澤に任せよう。津崎さん、構わないかい」
「ここは本家だ。本家内のことは白澤さんに任せればいい。わしは何も見なかったし、わしの弟子も何も見なかった」
幸は頷くと、白澤に声をかけた。
「ま、そういうことだ。そうだ、白澤、かぬかを、当分、預かる、いいだろう、な」
「ああ、よろしく頼む」
幸がにっと笑った。
「漣。私を姉と思え。そして困った時は呼べ、助けてやる」
そのまま、何事もなかったように幸と津崎は天守閣を後にした。
四階に戻ると、たくさんの城人が雑巾や箒を手に掃除をしていた。あかねも柱を雑巾でしっかりと拭きあげていた。
「お帰りなさい、幸姉さん。いかがでしたか」
「無事済んだよ」
「なんと。あかねお嬢様、そんな、雑巾がけなど」
驚いて津崎が言った。
「私はなんのお役にも立てません。せめて、お掃除くらいはさせてくださいな」
あかねが柔らかに笑みを浮かべる。
「できたお嬢様です、感服致しましたぞ」
かぬかが幸に駆け寄って来た。
「精鋭を呼び戻した。すぐにここにもやってくる」
九人の精鋭、頭ひとつ分は確実に背の高い男女が幸を無視して駆け抜けた。
「あいつら・・・」
かぬかが呟いた。
「愛想された方が気色悪いや。漣と長には護髪を結んである、妙なことはさせないさ。そうだ、かぬか」
「ん」
「白澤とは話をつけた。よろしく頼むということだ。ということで、かぬかは今から幸の弟子。師匠を敬えよ」
「お前が師匠ってか」
かぬかが溜息をついた。
「師匠に似て、性格が悪くなってしまわないか、それが不安だ」
かぬかの言葉に嬉しそうに幸が笑った。
「幸とあかねちゃんは二人でしばらく旅に出るから、かぬか、これから荷物を纏めて、うちに向かってくれ。父さんもいるし、黒たちもいる」
「黒に白に三毛。懐かしいな。それは楽しみだ」
幸とあかねは城を出ると、湖の畔までやって来た。
「幸姉さん、旅って」
不思議そうに幸を見上げた。
「ん」
幸がふふと笑みを浮かべた。
「いまはとっても賑やかで楽しい。でも、なんて云うのかな、父さんが仕事に出掛けて、あかねちゃんと二人で留守番していた頃が、なんだか懐かしい。そう思ったらね、あかねちゃんと二人で旅をするのっていいなぁってさ。一週間くらい、うろうろしよう。あかねちゃん、いいかな」
あかねが思い切って幸の手を握った、自然と幸がその手を握り返す。
「幸姉さん、楽しみです」
あかねが満辺の笑みを浮かべた。
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