遥の花 蛇足 かぬか びびる

本来、術者は行くことができない、正確には術者がなんとなく避けてしまうよう、難しい術が一帯に施されている。避けられるかもしれない面倒ごとは、あらかじめ避けるのが賢明だ。
かぬかは駅の改札を降りて、ほっと吐息を漏らした。幸い、かぬかは無の術を少し教わっているため、結界が見逃してくれたのだろう。幸の手書きの地図を見ながら、ここまでやってきたのだ。しかし、駅からの地図はない。つまりは書いても無駄なのだ、駅前商店街魚弦の佳奈さんに案内してもらうようにとある。
かぬかはほっと息を漏らすと、少しずり落ちかけた大きなリュックを担ぎ直す。今から登山でもしようかといういで立ちだ、かぬかの財産一式だった。

「らっしゃい、らっしゃい」
威勢のいい声、前掛けに魚弦と書いた佳奈が元気に客を呼び込んでいた。かぬかは少し離れたところで、どう声をかけたものかと考える、魚を覗き込んでいる主婦三人、この人たちが買い物を終えたら、思い切って声をかけてみようか。なんだか、裸電球の灯りのせいだろうか、まるで観客席でお芝居を見ているような気分だ。
しばらく前まで、そう本家を出るまで、殺し殺される世界にいたことが嘘のようだ。
なんだか、肩の力が抜けて楽しい。
ふと、佳奈がかぬかを手まねいた、ちょっと見渡して見る、自分だ。
「かぬかちゃんだろう。おいで」
「は、はい」
かぬかが佳奈の前に立つと、にっと佳奈が笑みを浮かべた。
「幸ちゃんから電話があったよ。奥に座敷があるからさ、荷物降ろしてやすんでりゃいいよ。一時間もしたら、お客さん減るからさ、そしたら。先生んち、一緒に行こう」
「ありがとうございます、えっと」
「あたしは佳奈。幸ちゃんの友達で、姉みたいなもんだ」
「私は白澤かぬかです」
佳奈が満辺に笑みを浮かべた。
「しっかりした子だ。幸ちゃんが大事な友達って言うのわかるよ」
奥の座敷に背中の荷物を降ろした、ほっと一息漏らす。
かぬかは幸が自分を大事な友達と言ったことに驚いていた。幸は変わった奴だと思う。白澤様の敵でこの野郎と思うこともある。独善的で我こそ正義と思っているような奴だ、でも。
多分、本当は白澤かぬかである私は幸が真っ当で良い奴と思いたくないのだ、だから、これは私自身の問題である。案外、幸って良い奴だなぁなんて思いたくない、それだけのつまらない意地だ。ただ、どうしてだろう、ちょっと、幸といると楽しくはあるんだ。
いつの間にか俯いていた、見上げれば佳奈さんが声を上げてお客さんを呼び込んでいる。なんだか、手伝いたい。そうだ、手伝おう。
「佳奈さん。お手伝いします」

霧の中を歩く、佳奈の手をしっかり握る。この手だけが頼りだ。
結界が施されており、術師には辺り一面が深い霧の世界だ。佳奈が澱みなく歩く、佳奈には霧が見えておらず、普通の住宅街でしかないのだろう。かぬかは緊張した面持ちで佳奈の後ろを歩く。
余程の術師でなければ単独では歩けないだろう。
「かぬかちゃん、大丈夫かい。ふらついているけど、ちょっと休むかい」
「いいえ、大丈夫ですよ」
かぬかが霧の向こうに笑みを浮かべる、真っ白な世界だ。
次第に霧がはれてきた、青い空、日盛りも過ぎた三時頃のやわらかな空だ。
「ほら、あそこだよ」
佳奈が指さす先に、瀟洒な小さな喫茶店があった。
喫茶店の窓に珈琲を飲む男性が見える。名無し先生だとかぬかが心の中で叫んだ。
佳奈とかぬかが喫茶店に入ると、男が笑みを浮かべた。
「かぬかさん、お久しぶり。佳奈さん、ありがとうね」
男が右手で二人に座るよう促す。
「えっと」
男がカウンターに視線を向けた。
あさぎが笑みを浮かべるとすっと水を二人の前に置いた。
「佳奈さん、何にしますか」
「それじゃ、私は珈琲で」
あさぎはそっとかぬかを見つめると微笑んだ。
「初めまして。幸の姉、あさぎです、よろしく。かぬかさんは何にしますか」
すっとあさぎがメニューを差し出した。
「お勧めはハーブティーのケーキセットですよ」
「え、じゃ。あの、それで」
戸惑うようにかぬかが答えた。
「あさぎちゃん、無理やりだねぇ」
「だって、お父さんも佳奈さんも珈琲ばかりでつまんないです。せっかく、ハーブティーのブレンドを作ったのに」
「うーん。喫茶店でお茶飲んでもねぇ」
あさぎがくすぐったそうに笑った。
「困った佳奈さんです」

「おおい、珈琲を作ってくれ。台所ではインスタントじゃが、こっちならうまい珈琲が飲める」
カウンターの奥から、なよがやってきた。
「あぁ、なよ姉さん。こちらが幸から電話のあったかぬかさんです」
ふっとかぬかがなよの顔を見た、
「ひやぁ。か、かぐやのなよ竹の姫」
驚いて、かぬかが腰を浮かす、瞬間、視界が巨大化したなよの瞳で充満した。
「うまそうじゃのう」
瞳の奥から、なよの言葉が響き出す。
「ご、ごめんなさい」
「なにも謝る必要はない。その右腕、所望じゃ。うまそうじゃなぁ」
震えて、動けない。威圧されて、体が押し潰されてしまう。
「なにやってんですか、なよ母様」
すぱーんと良い音がして、小夜乃がなよの頭をスリッパで思いっきりはたいた。
「え・・・」
かぬかは目の前で起こったことが理解できなかった。

頭を抱えて、うずくまっているかぐやのなよ竹の姫、その隣りにスリッパを持った少女。
「母がいたずらをしてしまい申し訳ありません」
「母・・・」
かぬかがおうむ返しに答えた。男が少しいたずらげに笑みを浮かべた。
「なよの娘、小夜乃だよ」
「先生、それって」
「うちの次女のなよ、それと娘の小夜乃だ」
なよが頭をさすりながら立ち上がった。
「そういうことじゃ。長ったらしい名前は忘れろ、なよでよい」
ふと、なよが佳奈の持っている袋に目をやった。
「さばとイカのいいのが入って来たからね、持って来たよ」
嬉しそうに佳奈が袋を持ち上げる。
「気が利くのう、佳奈は。よし、炭火でイカを焼いて、焦がし醤油できゅっと。な、いいじゃろ、あさぎ」
あさぎが呆れたように笑った。
「ほどほどですよ、なよ姉さん」
嬉しそうにうなずき、なよは小夜乃に言った。
「小夜乃。七輪の用意じゃ」
三人が庭へと行き、落ち着いたのか、緊張が抜けて、肩を落としたかぬかの前にあさぎがケーキセットを置く。
「お疲れさま」
あさぎが楽しそうに笑った。そして、そのまま、男の隣り、かぬかの前に座った。
男が紹介する。
「この娘があさぎ、三女だよ」
「よろしくね、かぬかさん」
「白澤かぬかです。よろしくお願いします」
「白澤さん・・・」
すっとあさぎが男の顔を見た。
「白澤さん直属の弟子は白澤姓を名乗ることになっているんだよ」
男の言葉にあさぎがそっとうなずく。
綺麗な人だとかぬかは思った。
「かぬかさん、どうぞ、食べて」
「ありがとうございます」
かぬかが笑みを浮かべて頷いた。一口、ケーキを食べてみる、とっても美味しい。
かぬかが幸せそうな笑顔をふわっと浮かべた。
「とっても美味しいです、あさぎさん」

部屋に荷物を置き、広間に立った。
「お父さんは自室で寝るけど、みんなはここで寝ているんですよ」
あさぎがかぬかに説明をした。
「あの、あさぎさん。なよさんも一緒に」
あさぎが戸惑う素振りすら見せず、素直に頷くのを見て、心しか、かぬかは驚いた。元は一国の女王、それが、皆と雑魚寝なんて。
「あ、あのね。なよ姉さんは怖い時もあるんだけど、本当はね。でも、心はとっても思いやりがあって、大人としての分別もちゃんとあるし、えっとね、時々、可愛いなって思える時もあってね」
慌ててかばうあさぎを見て、かぬかは年上であろうあさぎをなんだか可愛く思った。
「あさぎさんがそうおっしゃるなら、そうなんだと思います」
照れながらもはっきりとかぬかがあさぎに言う、嬉しげにあさぎも頷いた。
かぬかが思い出す。
初めてこの家の主 無に出会ったのは、白澤様に精鋭の一人として無の術を教わりたいと申し出て、認めていただいた次の日だった。

「私は晩の九時には自宅に戻り晩御飯を食べるつもりです。ですから、教えたことは一度で理解してください。二度も三度も説明しなければならないようでは、時間もかかりますし、なんだか面倒臭くて教えるのが嫌になってしまいます」
男は十人の精鋭を前に言い放った。
「では、皆さん。まずは自然体で立ってください」
かぬかが慌てて、足を肩幅に広げ、姿勢を崩さない、ギリギリのところで、肩や上半身の力を抜く。
え・・・、思わずかぬかは声を上げそうになった。精鋭九人、驚くようなだらけた姿で立っている、いや、一人はしゃがんですらいる。男性六人、女性四人、女性が互いにお喋りを始めた。
「なるほど。見事な自然体ですね」
男が嬉しそうに笑った。
「あんた。本当に無なのか」
中央の二メートル近くはあるだろうか、がたいの大きい男が言った。
「さあね」
「ああ、なんだと」
「私は自分で無だなんて名乗ったことはないんですよ。他人は私のことをそう呼んでいるみたいだけどね。だってさ、無 とかさ、気取っているようで気恥ずかしいじゃないか」
男は平気な顔をして笑うと、見上げた。こめかみにひきったような血管を浮かび上がらせた顔が男を見下ろす。
「あれ。ひょっとして、私がお気に召さないとか」
「もっと、凄い奴がやって来ると思っていたのに、そこらに転がっているおっさんがやって来たとはな」
吐き捨てるように言う。他の八人もシラケた目で男を見る。
「それは白澤さんの説明不足だ。後で言っておくよ。中肉中背、最近、ダイエットした方がいいかなと悩んでいるおっさんだってね」
「あ。あの、皆さん。早く練習を始めましょう」
かぬかが思い切って声を上げた。
ふいと男はかぬかの後ろに立つと、自然体に立つかぬかの背中少し下辺りを軽く叩く。瞬間、かぬかの頭の中にきらめきのような衝撃が走った。
「体が真上に浮かぶようだろう、これが本来の立つということだよ。忘れないように十分間、この感覚を味わいなさい」

男は九人に振り返るとにぃぃと笑った。
「そこの大将を潰して、他の八人を恐怖で稽古をさせるという手もあるんだけどね、でもさ、弱い者いじめをするのもなぁ、なんだか、格好悪いからねぇ、どうしたものかなぁ」
「悩むことはないさ。俺がどれほどあんたが強いのかを判断してやるよ」
巨体がじわりと、男に向かって構えた。
「それは無理だよ。だってね、歩き方を覚えたばかりの小さな子供が武術のね、口はばったいけどさ、達人の動きを読めるかい。残念ながら、君に私の動きを判断するような実力は無いよ」
「つまりは俺がガキだと言いたいわけだ」
怒気を含んだ巨体の言葉が終わりきる前に彼の右回し蹴りが男の喉元を貫くように疾走する。
すいと男は上半身を微かに引き、大したことでもないようにその爪先に右手を添えると、ふわりと押し出した。
「うぉおおっ」
巨体が軽々と宙に飛び、背中から思いっきり落下した。
「申し訳ないね。受け身くらいしてくれると思ったんだけどね」
巨体は口を開けたまま、白目をむいていた。
男は八人の顔をゆっくり見渡すと、笑みを浮かべて言った。
「次は誰が遊んでくれるのかい。まだ、私は遊びありないんだけどね」

「みんな。頑張って練習してる」
白澤が気のよい老婦人姿でやって来た。
九人が見事に並んで、真面目に自在を振っていた。
「あら、びっくり。本当に練習しているわ」
男は白澤に気づくと、軽く会釈をした。
「皆さん。真面目な子達で楽をさせてもらっています」
ふっと白澤は歯を食いしばって真面目に自在を振る巨体を眺めた。
「刃向かうと思ったんだけどねぇ」
白澤がふと辺りを見渡した。離れたところで、かぬかが一人、自然体から幾分、腰を落とした姿勢で立ち続けていた。
白澤はかぬかに近づくと、かぬかの肩に手を乗せ、ぐっと下向きに力を込める。崩れないかぬかの姿勢に小さく頷いた。
「どうして、かぬかを一緒に練習させてくれないの」
「九人の中に入れば大怪我しますよ。大サービスでこの子には、この基本の後、一時間、補習してあげます」
男はあっさりと答えると、先程とは打って変わって熱心に練習をする精鋭達に近づいた。
一人が自在をすりあげ、相手の上段に構えた自在を打つ。それだけの単純な動きだ。九人が組になり、一人の構えた自在を、次々と八人が打ち下ろして行く。
小柄な女が、自在をすりあげた。男はすっと近づくと、打ち下ろすのに合わせて、女の肩を軽く押す。女の自在が目にもとまらない速さで走り、受け手が自在を持ったまま押し潰され、ひっくり返ってしまった。ひっくりかえったまま、受け手をしていた二メートルはあろうか云う男は今の動きが信じられないかのように呆然としていた。
「術というほどでもない。ちょっとしたこつでね、うまく体が連動すればこれくらいの芸当はできるのさ」
男が女に言う。
「今の感触をどうすれば再現できるか考えなさい。自分で、考えて見つければ、それは自分の動きになる。いいね」
「は、はいっ」
興奮覚めやらぬ思いで、女が叫ぶように返事をした。男は倒れた男を片手で引き上げてやると愉快に笑った。
「しっかり受け身の練習をしてくれ。でないと体がもたないよ」
「いまのは」
「私は彼女の肩を少し押して、力や方向のずれを直しただけだよ。それだけでも、随分変わるだろう。私は手取り足取りは教えない。ただ、手順と見本は見せてあげるよ。あとは自分の頭で考えなさい。自分で考えたことしか、身にはつかないんだからね」
巨漢はいきなり男に向かって土下座した。
「失礼の数々、申し訳ありません」
「顔をあげなさい」
恐る恐る上げた顔は涙に泣き濡れていた。
「どんなときでも、どんな相手にも自分の首の後ろを見せるな。これはこの世界の基本だ」
男はふっと笑うと、言葉を継いだ。
「面白い奴だなぁ、君は」
男はひとつ息を漏らすと、ぱんと手を叩いた。
「さて、九時だ。帰って飯食って風呂入って、しっかり寝なさい。寝ることで、今日練習したことが脳に刻み込まれる、徹夜で一人練習なんかするなよ。さぁ、解散、帰れ、帰れ」
男は九人を追い出すと、かぬかと白澤の前に立った。
「君。名前は」
「か・・・、かぬかです」
「かぬか。そうか、白澤さんの血で蘇ったというのは君か。道理で動きは素人なのに、才能が桁違いにあるというのは白澤さんの血の影響か」
白澤がにんまりと笑った。
「お前の娘がこの子を体二つに斬ったのよ。責任は取ってもらわなくちゃね」
「何、言ってんですか。白澤さんが幸の攻撃を素直に受けてその体、上下の二つになっていれば、この子は何事もなく助かっていたのですよ」
「まっ、なんてこというのでしょうね」

かぬかは冷や汗をかいていた。本家の実力者で当主に次ぐ立場にあり、様々な呪術を繰り出す白澤は畏敬の念と同時に恐怖の対象でもあったのだ。そんな白澤に悪態をつき、それを白澤が嬉しそうに受け止めている。

男はふぃっと少し短めの木の杖をかぬかに手渡した。
「君には丁寧に教えよう。それは枇杷の木で作った杖だ。元々は軽くて柔らかい木だけれど、術をかけて折れなくしてある。これが自由に扱えるようになれば、自在を教えよう」

「おおい、かぬかさん」
気づくと、あさぎが心配げにかぬかの顔をのぞき込んでいた。いつの間にか、かぬかは座り込み、ぼぉっと庭を眺めたまま、まろどんでいたのだ。
「え、どうして。私」
「敵意がないんですよ、この風景は。だから、厳しい修行をしてきた人は反動で最初はぼぉっとしてしまう、幸の受け売りですけど」
いきなり、ドタバタと足音が響いた、息せききって、三毛が学校から、全速力で走って帰ってきたのだ。
「お、お久しぶりです、かぬかさん」
息もたえだえに、しかし、顔を上げて嬉しそうに笑った。
「あ、白澤様の孫だった」
驚いて、かぬかが声を上げた。
「今はここの娘、三毛です」
三毛はかぬかに走り寄ると、ぎゅっとかぬかを抱き締めた。
「かぬかさん。毎晩、御飯を分けてくれたこと覚えています。なのに、急に姿を消してしまってごめんなさい」
「ううん、残り物をなんでも入れてさ、四人で鍋囲むの楽しかったよ」
小さな子供のように、声を上げて三毛が泣き出した。
「これからは一緒です、一緒ですよ」
三毛が嗚咽しながら、言うのを、あさぎは驚いて、見ていたが、やがて、笑みを浮かべた。
そして、ちょっと思う。鯖を焼くのは明日にして、今日はお鍋にしようと。


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