「有頂天家族」がとても良かった【アニメ感想】

※1期・2期のネタバレを含みます

アニメ「有頂天家族」がとても良かった。

美しい世界観・美しい問答の中で描かれる、互いを慮る優しさ。そして、面白おかしく生きるという作中の命題が、見ているこちらをも楽しく・前向きな気持ちにしてくれたようにも感じる。

本作のジャンルは、言うなれば「日常系妖術ファンタジー」といったところだろうか。
人や物に化ける力を持つタヌキたちと、タヌキよりも上位の存在であり様々な神通力を操る天狗、それらが人間の生活に溶け込み、それぞれ関わり合いながらどんちゃん騒ぎな日常を過ごすというのが本作の主な流れである。

タヌキである主人公「矢三郎」は、かつて京都のタヌキ界を束ねた偉大なる大狸の三番目の息子にあたる。父亡き後、残された四兄弟(矢一郎・矢次郎・矢三郎・矢四郎)と、その母の5人の家族が中心となって物語は進んでいくのだが、それぞれの「弱さ」と、その弱さを慮り、支え合う家族愛の描かれ方が本当に素晴らしかった。
それぞれの弱さを分かったうえで、それを言葉で指摘することもなく受容し、慮り、みなで支え合っている。

化けるのが苦手な弟が尻尾を出せば無言で尻尾を押し込んでやるし、雷雲が近づけば、雷が苦手で化け術が解けてしまう母の元へみな一目散に駆けつける。
父を死なせてしまったことは矢次郎の本意ではないことなど言葉を交わさずとも明らかであり、矢次郎自身の心境が痛いほど察せられるからこそ、誰も矢次郎を責めはしない。合わせる顔がないと避け続けた母を前に何も言えない矢次郎に、母は全てを受け止めて優しく声をかける。
生真面目さ故に頭の硬い長兄を、時に謀りながらも兄のできないやり方で矢三郎は助け、弟の阿呆さ故の危なかしさに兄は行動と信頼で応える。
父と叔父がなぜいがみ合うのかと嘆く母に、あなたの存在こそが原因であったなどと矢三郎は決して口にはしない。

無粋に説明が入れられることはなく、交わされる言葉は多くはない。しかし言葉にせずともお互いわかっているのだということが、少ない言葉からありありと伝わってくる。そういう美しい問答がとても心地よく、思わず見入ってしまった。
鮮やかな京都の情景と、少し古風で丁寧な言葉遣いもまたこれらの問答を引き立てており、美しく温かい世界観をつくるのに一役買っていたように思える。

またこういったやりとりは家族の中に限った話ではなく、家族以外とやりとりにも多い。

偉そうな天狗、赤玉先生を下鴨家の納涼船にお誘いする際、矢三郎の誘いに対して赤玉先生は「毛玉たちの船に便乗するなど」と一蹴してしまう。しかしそれはタヌキを無碍にしているわけでも、ましてや矢三郎たちを嫌っているわけでもなく、ただの強がりと沽券から来る回答だと、矢三郎は分かっている。当日、”たまたま”納涼船の近くを散歩している赤玉先生が、矢三郎の誘いに「そう言えばそうであった」ととぼけながらも船に乗ってくれることを、矢三郎は分かった上で先生を迎えに行くのだ。

また作中で描かれる問答としては、やはり矢三郎と弁天様の問答も印象的だろう。
自由奔放で妖艶な女性である弁天は、赤玉先生の弟子であり、人間でありながら様々な神通力を操る。その大きな力と我儘な性格から多くのタヌキに恐れられる彼女だが、かつては純粋な女子高生であり、彼女に惚れた赤玉先生に連れ去られ、天狗の道を歩むこととなった過去を持つ。
矢三郎との屋上散歩のシーンでは、彼女の本音が少しずつ溢れ、彼女自身でも整理できずにいる複雑な心境が見え隠れする。月夜の情景も相まって魅惑的でありながら、それとは対照的に弁天をぐっと人間らしく感じるシーンだった。

その後の矢三郎と弁天の、互いをよく理解しているからこそ織りなされる歪な問答には、心地よくもどこか本当の意味では噛み合っていないのではないかという一縷の不安を覚えてしまう。
弁天の孤独を理解しながらも、一介の毛玉である矢三郎はそれを埋める人物にはなり得ない。そのことを薄々感じつつも、弁天と接することをやめず、事を面白おかしくしてしまうのは阿呆の血のしからしむるところかそれとも。

そうして人と人との関係が美しい問答を通して描かれる本作だが、主人公は人間ではなく、あくまでタヌキであるという点は忘れてはならない。
湿っぽい心情を含みながらも、面白おかしく生きることこそがタヌキである矢三郎の、ひいては本作の大きな命題なのだ。

複雑な心境や、ドロドロとしたタヌキ界の政治的謀略が渦巻く中、作中で一貫して大切にされているのは、何より面白く・おかしく・それでいて家族仲良く生きるということである。
「面白きことは良きことなり」という作中の言葉が表す通り、困難の多い人生であっても、面白さを求める心を決して忘れてはならないということが作品全体を通して説かれていた。

これは人ではなくタヌキであるが故の楽観から来る価値観であるとも取れる。しかしこれらが人間社会のしがらみと対比して描かれる事で、人もタヌキもなく生物の根本にあるべき大切なものを改めて教えられたようにも感じる。人生における多くの些事に振り回されるうちに、面白おかしく、大切な人たちと仲良く生きるという根源の命題を忘れてはならないのだ。

どんちゃん騒ぎの末、問題は綺麗に収まりみな仲良く暮らすという大団円にはある種の爽快感があり、面白おかしく生きる生き方を、この結末をもって肯定してくれているようにも感じる。
私自身も、人生の進捗だの自他の欠点だのに拘泥してばかりではなく、面白おかしく・前向きに生きていきたいものだ。

さて、アニメ2期まで放送が終わっている有頂天家族シリーズだが、森見登美彦氏の原作小説もまた三部作の二部までで発売が止まっており、三部はまだ発表されていないらしい。
アニメ視聴で昂った感情から原作を読まずして書き殴ってしまったこの感想であったが、三部はぜひ、二部までの原作を読んだ上で書籍でいち早く触れたい所存である。

発表を楽しみにしております。

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