分かれ道
自分の周りには色んな友達がいる。就職して仕事に励む小学校からの友達。地元の大学で実家暮らしの中学からの友達。いい大学に入った高校の友達。浪人期に出会った友達。大学で出会った友達。
それぞれの場面で出会った友達がみんな違ってすごく新鮮だった。
特に高校は頭いい友達、変わってる友達が多くて人間観察みたいな3年間だった。
けど、
やっぱり今がいちばん楽しいな
何でだろう。中学までみたいな、素の自分でいられる、話せる友達が多い。
同じ専攻の友達、ボランティアで一緒の友達は特にそう。
そんなとき思うのは、ほんとにこの道、教員を目指す道を選んで良かったなって。
自分はもともと進路選択ですでに合格が出ていた私立のMARCHの経済学部と国立の教育学部で迷っていた時期があった。
自分は、高校が進学校で学校の方針や周りに頭がいい人が多かったのもあり、勉強面でコンプレックスがずっとあった。
浪人して国立より先にMARCHの合格通知がきたとき、迷わずそっちに行こうと思った。ずっと勉強をしてきた成果がやっと結果として報われた瞬間だった。もの凄く嬉しかった。社会的認知も偏差値も高いし、周りの友達にほんの少しでも誇って顔向けできると思ったから。
でも
国立の教育学部に行くことにしたのは教員になりたいと強く思う理由があったからだ。
僕は幼い頃吃音症だった。言葉が上手く出なくて吃ってしまう症状だ。人見知りだった性格もあるのかもしれない。小、中学生の頃は特にひどく、友達との会話でも目立った。少年団のサッカーチームで全体の終わりの掛け声さえ緊張で上手く話せなかった。それでも気にせず何も言わないで付き合ってくれる友達もいたものの、外見からじゃわからない、見えない症状に揶揄してくる友だちも当然いた。言い返すにも言い返せなくて悔しかった。そんな自分を救ってくれたのが当時の担任の先生だった。僕がピアノが得意なことを知り、合唱発表会や卒業式で全体の伴奏を任してくれた。得意な部分を伸ばして、他で自分を表現する場というのをつくってくれた。
言葉が上手く出ないなら他の面で補おうと勉強も頑張った。
思っていた気持ちを発する前に一度頭で整理してゆっくり落ち着いて話す訓練も自分でやってみた。
中学生になり先生に「全校の前で校歌弾けるよ」の誘いの一言で入った生徒会で、全校の場で話す機会など、敢えて緊張する場面を作ってもらって場数を踏み、少しずつ克服することができた。
ーーその先生の気遣いに気づいたのが浪人期に自分と向き合った時間だった。将来何になりたいのか、何をしたいのかを思った時、その時の記憶がふと蘇ってきた。
僕は当時の先生たちの配慮に凄く感動した。特に自分に言及せずに遠くから僕を気にかけ、SOSを出す手前ですっと手を差し伸べてくれた教師の姿に憧れを抱いた。今思えばそれが今の自分をつくるきっかけだったのだと思った。自分もそんな先生になって、心の病気や悩みを抱える子どもに寄り添ってあげたいと強く思うようになり、それが当時の先生への恩返しにもなるとも思った。
今、自分は発達障害のことについて専攻し、勉強をしている。脳の、見えない部分での病気や悩みがある子についての勉強はかつての自分の心の悩みと、外見からではわからない、見えない点で共通し、他の人よりも理解してあげることができるのではと思ったからだ。
将来は小学校の先生になって、自分と同じように悩みを抱える生徒に寄り添える人間に、教師に、なりたいな。
こんなふうに思えるのも、
夜まで長電話して将来について語れる最高な友達に出会えたのも、
あの進路選択でこっちの道を選んだからなわけであって。
自分に正直になって選択できてよかった。
いい大学は偏差値の高さが全てじゃないって気づけた。
学びたいことを学べることに感謝できる大人になりたいな。
今のバイトもボランティアも子どもとの接し方を学べて凄く勉強になるし楽しい。
遊びや校内活動を充実させつつも頑張って勉強して、
やっぱり教員を目指す道を選んで良かったって言える4年間にしたいな。