生まれておいで生きておいで
会社の半休を取り、15時頃に東博へ向かう。
久しぶりの内藤礼の大規模な展示。東博の建物が近づき、風を受ける旗が見えた時から緊張していた。
第一展示室。
水戸や金沢であったような、暗い部屋がまず迎える。といってもグレーに近い気がする。グレーの部屋に色とりどりの毛糸のボンボンが浮いている。壁掛けの上に乗っている。ただそこにある。
置かれている白い球体の端に、小さな丸い球体を見つける。そして壁掛けの縁に鈴を見つける。手元の説明文なしで気がつくと、何だか通じ合っている気がして嬉しい。
こちら側の部屋の照度が暗いので、作品と展示を区切るためのガラスに外の通路の明るさが反射して見えた。そこに映る人たちが生の世界のようで、私は死の世界からその様子を見ている感覚になった。これは金沢でも感じたことだ。そしてなぜか、とても落ち着く。自分がそこでぼおっと浮いているような。生と死の間の淡い。
また、ガラスが通路ではなく展示室を向いている方では、同じ部屋にいる人たちが映っていた。
もうひとつの世界のようだと思った。もうひとつの世界の人たち、そこにいる自分。
第二展示室へ。明るく、ひらけた空間。
そこでは人々が思い思いに開けた頭上を見上げたり、しゃがんで足元の作品を見つめていた。そしてそれぞれの考えの中に深く潜っていく。
私も同じようにひとつひとつ座ってじっくり作品を見たり、壁にかけられている絵を見て、そしてまた空間に浮いている小さなガラスを見たりしながらゆっくりゆっくり進んだ。
内藤礼がやりたいこと、わかる。わかるよと心の中で勝手に思っていた。
何も描いていないように見える絵。光を当てて、少しかがんでみたり、角度をずらしてみると色や筆の跡が浮かび上がってくる。それは描こうとして生まれたものではなく、自然とそこに現れたようだった。
白く小さな骨や、縄文時代というはるか昔に人が自然から作り出したもの。とても前の出来事なのに、なぜか懐かしささえ感じる。
とてつもなく昔と、今ここ東博の建物の空間。「広さ以上に広さを感じる」。普遍的で変わらないもの。こと。事象。いのち。死。存在を超えた大きなもの。
座って見ていた、小さな足形。そして白い丸。きらきらしていた。ふと顔を上げると、夕方の光がまっすぐ差し込んできていた。こんなに光っていたんだ、と驚く。窓からさしていた暖かな明るさが、映画の最後のシーンみたいに会場を照らしていた。懐かしい光がガラスを通過する。赤ん坊の鳴き声が響く。
なんて満たされた空間なんだろう。
その後ももう一周し、端で座ってぼんやりとしていた。空間に馴染んでくるのを感じた。
第三展示室。
1日に同じ道を行ったり来たりしていた。時間があったらゆっくり見てもよかった。
以前東博に訪れたときに惹かれていた空間だった。壁の鏡をすぐに見つける。反対側にも同じ鏡がある。
鏡を覗き込むことによってその空間を区切り、離れることによってまた無限が生まれる。
展示室の中央に、水がギリギリまで張られた瓶が置いてあり、その下に空瓶が重なっている。
命だ、と思った。満たされた水と、空白。
そしてその空白に無限がある。
人が前を通る。足音が遠ざかっていく。水面が揺れる。蝉が鳴いている。
最後、惹かれるようにふたたび第二展示室へ。
おもむくままに作品を見て、また座ってぼんやりとしていると、いつの間にか人が少なくなっていた。
17時の閉館が近づいていた。
最終的に、私と、もう1人のおじさまだけになった。
それと、黒い服に身を包んだ学芸員の方達。
不思議な空間だった。意識が自分の枠を超えて、遠く離れた空間と、今ここの展示室を通して繋がっている。それを感じることができた。
外で蝉が鳴いていた。
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