意識の境界
松濤美術館で「本歌取り、東下り」を見た。
杉本博司はシャーマンっぽい。
自然界への畏怖を抱きつつ、神聖なものに近しい。
春日大社で見た藤棚や、華厳の滝を前にしてそこに神が現れたと感じたという。
メソポタミアの呪術についての記述や人の手の跡まで分かるような土偶、研ぎ澄まされた数理模型。
そういった展示一つ一つに対して、わかる、人が高次の世界と接続するためのツール。と勝手に共感していた。
展示室内を何度もグルグルし、白井晟一が書いた書の奥深さや息遣いに感動したり、昔ワタリウム美術館の禅の展示で見たジョン・ケージの「十牛図」はこんな意味だったのかと理解した(気になった)り、2階入り口近くに飾られていた光の流れやあらわれのようなものを写真に収めた。
実際目の前にするのと撮った写真とでは全然違うんだろうなと思いながら。動脈というか生命のひかりというか千住博のウォーターフォールみたいだった。暗闇にぼおっと光るエネルギー。
文章として印象に残りそれからずっと考えている展示がある。
旧石器時代の石器のキャプションに「人類の意識の起源を探ること」と書かれていた。下に続いて言語の獲得や美という概念の発見について書かれた後、「『意識の起源』『言語の起源』『アートの起源』は、世界で同時多発的に起こったのではないかと仮定している」と書かれていた。
言語の表現が文字やアートということだろうか。その言語は意識から生まれる。では意識は何から生まれているのだろう?
無意識とは何なのか?
そういうことを考えながら、一人で松濤の住宅街を歩いて帰った。どこも大きくて立派な家が立ち並び、そのひとつひとつに灯りがついていたのに道路には誰もおらず、しんと静まっていた。まっすぐ続く長い道を歩きながら、自分の輪郭が暗闇に溶け、意識だけが浮いているようだった。
暗闇にぼおっと光るエネルギー。
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