入水
こんばんは、今日もすべてにお疲れ様。
先日、あまりにも病みすぎて生への希望が無くなった(≠がっつり希死念慮)ので、死ぬかもしれない、という環境に行けば心が救われるだろうと思って、初冬の海に入ってきました。
が、その日の夜、突然考え付いて決行したものだから、めちゃくちゃな失敗をしてしまいました。
これはマジで考えなしだった故の失敗。なので、記録します。いつかのために。
それから、日記程度に後半ではそのとき考えていたことを書き残します。
これは記録でしかなく、読まなくていいものです。
入水するときに気を付けるべきこと
題の通り、入水するとき、忘れてしまいがちですが、とても気を付けなければいけないことがあります。
それは、海の潮汐です。
私はこれを考えずに行った結果、大潮の干潮の時間にぶち当たってしまいました。
私は先述の通り、海でしっかりと自殺をしたかったわけではなく、死ぬかもしれないという気持ちを味わいたくて、海に行きました。
なので、東尋坊から身投げをしたわけではなく、砂浜を歩き、波打ち際を超え、海の中にじゃぶじゃぶと入って、生きたいと思えたなら泳いで浜に戻るつもりでした。(もし沖に流されたなら、それはそれで死んでしまってもいいとは思っていましたが)
しかし、どれだけ歩いても、海がないのです。
私はこの海岸に幾度となく来たことがあり、確かに波打ち際まで出たことはあります。だからそこにある流木などのオブジェクトでわかるのです。
前来たときは確かにここに海があった、と。
それなのにどうでしょう。あの日は海がなかった。すっかり消えてしまっていた。
でも海に入ることを目的にきてしまった以上、海に入らなければ気が済まない。
私は砂浜をずんずんと進んでいきました。
いつもなら海に突き出して、波を受けている足場も、すっかり剝き出しで、それを超えてもなお、海がない。
真っ暗な砂浜の中、音だけが聞こえる海に向かっていくのは恐怖すらありました。どこにあるのかもわからなければ、もし海に入れたとして、そこが突然深い可能性もないとは言い切れませんでしたから。
もし、私が明確に衝動的に自殺する決意だったとして、あの長すぎる砂浜は、生を投げ捨てるという衝動的な気持ちには、死への恐怖を思い出させるだけの長さでした。
とはいえ、私は明確に死にに行ったわけではありませんでしたから、海に浸かるまでは帰れないという気持ちでした。なので、長すぎる砂浜に怯えながらも進むことができ、しっかりと海に浸かり、その冷たさを愛おしく思い、様々思考を巡らせることができました。
でも、自殺って結構衝動的です。きっと強く死にたいと思っていても、死に際はきれいな体でいたい、とかいってお風呂に入ったら、なんだかやる気が失せてしまいます。それぐらい、ろうそくの炎ほどの決意なのです。
死ぬほど思い詰めているのに、死にたいと思っているのに、それで海に来たのに、海がなくて死にきれないなんてやりきれないじゃないですか。
だから、私は入水するならせめて海の潮汐だけは考えた方がいいと、強く思います。
でも、こんな線香花火みたいに儚い決意は、潮汐を調べるだけで消えてしまうかもしれません。だから、簡単に考える方法を考えました。
①月を見る
これはとても大事です。大事なうえに、すぐにできます。
満月と新月が近いときはやめよう。それだけですから。
別に最期くらい夜空を眺めるのもいいでしょう。風流な心を持って死ぬのなら、なんだか素敵じゃないですか。
あれだったら、スマホにそういうアプリを入れたり、ウィジェットに表示させとくと、曇りの日でもわかると思います。
②なるべく夏を選ぶ
確かに、冬のほうが快適です。寒いけど、海のほうが温かい場合もありますし、なんていうか、死ぬぞー!って気持ちになります。気分的にも。
しかし、水というのは温かい方が膨張します。これは海も同じで、冬は水位が極端に下がりやすいのです。
なので、夏ならば大潮の干潮でも海があったところが、冬は途端に海がなくなったりします。
おおよそ、11月から2月は避けるべきでしょう。溺れる前に凍死できそうで良かったですが、海がないのでは入水前に決意が揺らぎかねません。
③干潮時刻を避ける
上記二つのほうが優先度が高いので、これはもうついで程度です。でも当たり前のことではあります。
干潮では海が存在しないということに陥りがちですから。
ただし、こればかりは毎日ズレますし、調べないとわからないため、決意が揺らぎやすくなります。
なので、①②をクリアしていれば大体大丈夫でしょう。
以上が入水するときに気を付けるべき、海の潮汐を手軽に考える方法です。
私みたいな失敗例、いえ、私よりもひどい失敗がないことを祈っています。
手記
海に入る前、海に向かう間、色々考えました。
入水するとはいえ、身投げするわけでなし、もし救助なんてされたら、自殺未遂として片づけられそうだ、と。
そうして陸に戻った時、私はなにで怒られるんだろう。
自殺を図ったことなのか、朝起きられない怠惰のことなのか、実は大学に通っていないことなのか。
私は、もし救助されたとて、怒られることしか想像できませんでした。
しかし、私が受ける親からのお叱りは愛であることもまた、よく理解していました。
でも、そうであるならば、それこそ、海に入るしかありませんでした。
終わりの見えない砂浜を進む間も、考えました。
人の迷惑になることをしてはいけない、と、私たちは強く強く言われます。
もし私が自殺する気ではなかったとはいえ、このまま沖まで流されて、救助隊に救助されたとき、これを人々は迷惑だというのだと。
ですが、彼らはそれが仕事なのだから、それに対して私が申し訳なく思う道理はあるのでしょうか。
彼らの仕事を増やしたことは確かですが、彼らはそれを理解し、納得してこの道を選んでいるのではないのか、と。
まあ、でもわかります。死にたがりはそのまま殺してしまえばいいというのも。どうせ救助してもしても、きりがないのなら、殺してしまえ、と。
でも、そのくせにこの世界は優しくはありません。生きることも死ぬことも、多くは許されませんから。
海の中にいるとき、一度だけ、後方からライトがあてられた気がしました。
ただし、別に、その相手はなにも声はかけませんでしたし、警察を呼ぶわけでもなく、気づいたらいなくなっていました。
思えば、そもそもソレが存在していた記憶なのか、なんなのかも、よくわかりません。
ただ、何もしてくれなかった、と、感じたとき、確かに私は理解をしました。
つまり、そう、私は誰かに助けてもらいたかった。なにか、救済を求めていた。
それは、知らない人の声でも、警察の制止でも、救助隊の力でも、死でも、なんでもいい、ただ、純粋なまでの、救済。
それに気づいてからは酷く悩みました。悩みながら、沖に向かって歩いていきました。
今の世の中では、自殺未遂やら自傷行為は、かまってちゃんに見られ、嫌煙されがちです。
しかし、かまってほしいと願うことはそこまで大きな罪なのでしょうか。
私も確かに、思いました。もし、今から自殺をするような、海に沈む道中を実況したのなら、ああ、きっとかまってほしいんだと、思われて、嫌われてしまう。
だけれど、このかまってちゃんを極度に嫌煙する世界は、本当に救われたいと、そう願う人すら蜘蛛の糸から遠ざけているのではないでしょうか。
自殺をした人がいると、どうして相談しなかったんだ。そんな素振りはなかった。なんてよく聞きますが、そうさせない状況を作っていたのは、よほど周りの環境で、今の現代社会の世論でしょうに。
結局、ひどく冷えてしまった世界では、もう救いなんてないのでしょうか。
病んだ人の心の吐露は周囲を巻き込む毒の煙です。
毒は、死んだほうがいいと思うのは、間違いなのでしょうか。
今の私は、誰にもきっと答えも救済も求めていないし、今後も、私を救ってくれるのは、物言わぬ死であってほしいと願い続けることでしょう。
死は確かに、生物に与えられた、とても大きな救済システムで、なによりあたたかな愛情でした。
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