パースの起点ではなく画像上の情報がゼロに近づくという意味での消失点と、そこから伸びてくる情報の量と質の流れというパース
先日、酔った勢いで思いついたことがあり、ツイッターに表題と同じ事を書き込んでいました。
この言葉を思いついて、それがだからどうしたというような事なのですが、
僕は最近、写真を撮るときにテーマや内容をちゃんと決めようと考えていたところなので、こういう考え方で写真を撮ったり現像したらどうなるかな、と考えました。
2月16日が日曜日なのに仕事的にぽっかりと予定が空いた日で、前日に「ゆる簿:明日写真撮るか何かしに行ける人」とつぶやいたところ、有難いことに江の島写真部部長の五月さんが興味ありますと声を掛けてくれて、新宿御苑で一緒に歩きながら撮影をしてきました。
最近は出不精でなかなかちゃんと写真を撮りに行けていなかったので、この機に酔って思いついた言葉をテーマとして写真を撮ってみたらどうなるかなと思い、表題の言葉をテーマにしながら撮影しました。
「パースの起点ではなく画像上の情報がゼロに近づくという意味での消失点と、そこから伸びてくる情報の量と質の流れというパース」
という言葉を念頭に置いて撮った写真です。
(LEICA M9, Summicron35mmで撮影、LRで現像)
テーマの言葉を念頭に置いていましたが、撮影している時も、現像している時も、やっていて結局は「空気遠近法とか、被写界深度のボケで視線誘導するとか、そういう事でしょ」と思っていたのですが、現像が終わってみて出来た写真を見てみて思ったのは「そうじゃねえな」でした。
酔っていた時に浮かんだ当初のイメージは、視線誘導の逆だったのです。
視線誘導的なものは、なんとなく消失点"に向かって"視線が動いてゆくものというイメージなのですが、今回のこれは消失点"からこちらへ向かって"情報がやってくる、という言葉なので、動きとしては反対なのでした。
なので、今回現像した写真はテーマに合致出来ておらず、上手く撮れたとは言えません。
情報の消失点からこちらへ情報が流れてくるという方向の視線の流れを作る、という事を目指すとなると、今回のやり方ではなく、もう少し撮影対象や方法について考える必要がありそうです。
実際にやってみると、分かることがあって面白いですね。
なので今回の写真は普通に「視線をどう向けるか」を試したみたいな写真になりました。
でも「情報の消失点」については挑戦しようとした痕跡はありました。
この4枚目なんかは「情報の消失点」を考えるならピントは手前に合っていた方が良かったのでしょう。光に包まれて淡くなりつつボケている奥の葉からだんだんと露出が良い感じになりつつピンが合っている手前の葉に向かってくる、みたいなのが正解の方向なのかなと。
それにしても今回使ったLeicaM9というカメラは、撮っている時は「テンション上がる写真が撮れたぞ!」という感覚には一切ならないのですが、家に帰ってみると「意外といいぞ」という事が多々あって、憎むに憎めないやつです。
帰り際に雨の新宿でちょっとだけスナップして帰りました。
今回のこのテーマについてはまた考えてみたいと思います。
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