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【簡単要約】なぜ人は働くのか。知っておきたいマックスヴェーバーの理論

人は働かなければならない。大人になれば、人は社会人として会社に勤めたり自営業を営んだりしてお金を稼ぎ、社会に貢献することが当たり前とされている。

そう、生物の中で人間だけが働くことを強いられる。もちろん働かないという選択肢もなくはないが、一般的にそれは怠惰であるとみなされ、世間にはニートと呼ばれる羽目になる。

人間はなぜ働かなければならないのか、それにはある起源がある。ドイツの社会学者マックスヴェーバーはこの議題に纏わる「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を出版した。

本記事はこのマックスヴェーバーの理論を平たく要約したものである。

第1章「問題」


1節―信仰と社会層分化ウェーバーは統計的な根拠に基づいて問題を採掘した。それは職業統計から近代の大商工企業における資本所有や経営、高級労働についている人にはプロテスタントが多くみられるということだ。なぜこのような結果が見られるのか。ウェーバーはそこに歴史的な理由を見出そうとしたのだ。まず一般的に想定される仮説を上げることとした。1つ目はある富裕層が住む地域にプロテスタントの改宗が起こったという仮説。しかしこれには疑問が残る。それは経済的発達した諸地域には改宗を受け入れやすい素質があったのかどうかということだ。2つ目はプロテスタントは少数派であるから政治的に地位から追い出され、その結果営利生活に向かったのだという仮説。しかし、プロテスタントは社会的地位がどんな場合でも特有の経済的合理主義に立ったが、カトリックはいかなる地位についていてもそのような態度は見せないため、この仮説は正しそうにないとした。この反論からウェーバーは、プロテスタントの外面的な歴史的政治的状況だけでなく、内面的特質にも言及する必要性をみた。3つ目はカトリシズムは非現世的であるが、プロテスタンティズムは現世的だからという仮説。しかしこれも間違いであった。プロテスタントは「現世の楽しみ」とはおよそ正反対の「非現世的、禁欲的で信仰に熱心である」という特徴を持っていたからである。このことから「非現世的、禁欲的で信仰に熱心」ということと、「資本主義的営利生活に携わる」ということは、対立する関係ではなく逆に親和関係にあるとウェーバーは考えたのだ。これが4つ目の仮説である。この仮説、つまりはプロテスタンティズムの精神と資本主義文化の間にある内面的な親和関係を認めるとすれば、それはどうして生じたのかを純粋に宗教的な特徴のうちに求めることとしたのだ。

2節―資本主義の「精神」
その前にウェーバーは資本主義の精神とはどんなものなのかを、あらゆる歴史的思想家の知恵をかりて説明した。ヤーコプフッガーは「それは商人的冒険心であり道徳とは無関係の個人的な気質である」とした。一方ベンジャミンフランクリンは「自分の資本を増加させることを自己目的と考えるのが各人の義務であると考えること」と説明した。フッガーと比べて、フランクリンは倫理的な色彩をもつ生活の原則にあるとしたのだ。さらには貨幣の獲得は職業(Beruf:神に与えられた使命)における有能さの結果であるとも考えた。この考えが非常に重要で近代資本主義を考えるうえでは外せないものであった。営利に対して利己的にふるまうのではなく、自分の職業活動の内容を義務と考えるのである。しかしこうした考え方は人間が生まれつきもっていたものではなく、教育されて身につけた考え方だろう。いったいそれは何によって教育されたのか。それこそがプロテスタントの宗教教育であったのだ。「思考の集中能力と『労働を義務とする』この上なくひたむきな態度」といった教えが資本主義の要求に意図せずして合致したのだ。資本主義時代以前の営利活動にはまったく見られなかった新しい考え方が宗教的教育の結果もたらされたのだった。プロテスタントがもたらした今までにない独自な倫理観は、厳格な生活のしつけのもと成長し、とりわけ醒めた目でまたたゆみなく綿密に、また徹底的に物事にうちこむような人々を産んだのだ。個人の幸福からみるとまったく非合理な「事業のために人間が存在し、その逆ではない」という考え方は職業を天職、神からの使命としてみている。この見解は他のどの時代の道徳にも背反するものであるが、ではいったい何が源泉となってこのような考えが構成されるにいたったのか。ウェーバーはこの問いに答えるため天職観念に言及した。

3節―ルターの天職観念
天職としての職業を意味する「Beruf」という語はカトリックや古典時代には世俗的な職業の意味合いでは用いられていなかった。しかしプロテスタントは同様ではなかった。この語を世俗的職業の意味合いで用いたのが宗教改革の先駆者であったルターである。ルターは自らの精神を重ね合わせ旧約聖書外典を翻訳したのだった。宗教改革以後プロテスタント諸民族のあいだでこの語はその意味合いで用いられるようになったが、改革がもたらしたのはなにもこれだけではなかった。それはある1つの思想である。世俗的職業の内部における義務の遂行を道徳的実践のもつ最高の内容として重要視することである。この考えの結果、日常労働に宗教的意義を認める思想が生み出され、そうした意味で天職としての観念がもたれるようになったのだ。ルターは修道院のことも現世の義務から逃れようとする利己的な愛の欠如の産物であると批判した。彼の中で世俗的職業のもつ意義は大きかったのだ。彼は職業の遂行こそが隣人愛の外的な表れであり、それこそが神の喜ばれる道であると考えていた。しかしウェーバーは、ルターと資本主義の精神の間には内面的な親和性はないとした。彼の考え方は世俗内での労働に対して道徳的重視の度合いや宗教的褒賞をいちじるしく強めたが、これでは今までと同じように仕事をすればいいわけで伝統主義に傾いていた。では資本主義の本質を結果として気づいた思想は一体何だったのか。ウェーバーはそれをカトリックはもちろん、ルター派にまで嫌悪されたカルウィニズムにみた。ただし、カルヴィニズムが「資本主義の精神」の喚起を何らかの意味で生涯の目的にしていたと考えることは間違いである。宗教改革の文化的影響が、まったく意図されない結果、あるいはむしろ正反対のものであったからだ。
 このウェーバーの研究が指摘しているのは、独自な「世俗的」な傾向をおびた近代文化の発展のなかに、どれほどの宗教的要因が潜在していたのかを明らかにするということのみである。したがって、特定の形態の宗教的信仰と天職倫理との間に、なんらかの「選択的親和関係(Wahlverwandtschaften)」が認められるか、また認められるとすればそれはどのような点で有効かを究明することが必至であった。

第2章 禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理


1節―世俗内的禁欲の宗教基盤
ウェーバーは資本主義の精神を解くために、プロテスタンティズムの倫理を詳しく分析した。禁欲的といえるプロテスタンティズムはカルヴィニズム、敬虔派、メソジスト派、洗礼派という4つの宗派から生まれたと主張する。この4つの宗派はいくつか相似するところがあり、それらが結合することで信徒たちの禁欲的道徳実践が生まれたとした。しかしウェーバーは、それら4つの宗教基盤の相似を追い求めるだけではなく、相違を理解することもした。それぞれの派閥が持っていた基礎的な教理を理解しなければ、「当時の人々を無条件に捉えた来世観念を含んだ道徳がなければ道徳的革新は起こらなかった」ということを理解することができないからである。
カルヴァン派
彼は最初にカルヴィニズムに言及した。カルヴァン派は16世紀、ルターにやや遅れてスイスで宗教改革を展開したジャン・カルヴァンらの神学を基礎におく。聖書のみを信じることを徹底し、呪術的なものはすべて排除する姿勢をとった。最も重要な特徴は予定説である(P144)。予定説とは、「各人が救われるか否かは予め神によって決められており、悔い改めることはいかなる方法を使っても自力では不可能。いかなる信仰も無関係で、神の自由のよって決められる」というもの。この教説の成立には「客観的な力の働き」と「内面的孤立化」という2つの背景があったのだ。信仰心の強い人々にとっての宗教的な救いの感情は、自己の価値によってではなく「客観的な力の働き」、すなわち「神の測らべからず決断」であった。つまり救われているかどうかは感覚でしかわからず、自分ではどうすることもできないのだ。このことはルターも「キリスト者の自由」を書いた当時は体験的に強く意識していた。ルター派の教父にとっては「恩恵の喪失」と「新たな獲得」も可能とした。しかしカルヴァンは違った。彼は予定説を思索によって得たのだった。絶対的な神が我々に決意(決断)を知らしめることを善としない限りは我々はそれを理解することもできないのであるから、神の決断は絶対不変であり、拒絶された者には獲得不可である、という考え方だ。牧師も教会も救ってくれないし、聖礼典も神の栄光を高めることにしかならない。神だけが絶対である。そのため信者個人は内面的に孤立化していく。これが個人主義の根基ともなる予定説の帰結である。では、社会的な組織づくりという点で、カルヴィニズムが明らかに卓越していた事実と現世に張りめぐらされた堅い束縛(神の決断は不変)から解き放とうとする傾向とがどのようにして結びついたのだろうか。ヴェーバーはここに隣人愛との関係を見たのだった。カルヴァン派において、「隣人愛」は被造物ではなく神への奉仕でなければならなかった。神への奉仕とは、神の栄光を高めることにあり、その方法としてとられたのが職業労働であったのだ。自然法によって定められた職業という任務の遂行から「隣人愛」は現れる。カルヴァン派にとって「隣人愛」は倫理体系の特徴的な部分となっていたのだ。こうして、非人格的であるが社会的な実益に役立つ労働が神の栄光を増し聖意に適うものと考えられるようになった。しかし、栄光を高めても、自分が救われているかどうかの確証は持てない。信者たちはその疑問をもたざるえなかった。そこで2つの対応策がとられた。「誰もが救われているとあくまでも考えて、すべての疑惑を悪魔のささやきとして斥けることを無条件に義務化する」と「職業労働によってのみ、宗教上の疑惑は追放され、救われているという確信が与えられる」である。ここにも天職への従事が求められたのだった。
ルター派
 次にヴェーバーはカルヴァン派を基軸にして他宗派との比較を行なった。まずルター派との「神と人間の関係性」についての考え方を比較した。ルター派は神自身との「神秘的合一」を主張し、信仰者の霊魂に神性が入り込む感覚であるといった。しかしカルヴァン派は、神性が入り込むことは、神の絶対的超越性からしてありえないとし、行為が神の恩恵の働きによる信仰から生まれ、その行為の正しさによって信仰がまた神の働きであることが証されるとした。救済のあり方の根本的な差異は、自分を「神の力の容器」(ルター)と感じるか、「神の道具」であると考えるかによって明確に示される。
カトリック
次にカトリックとの比較を行なった。カトリックの平信徒は伝統的義務を実行することで、合理化されていない個々の行為の羅列であった。そう、教会や聖典に許しを請うのである。一方カルヴァン派は行為主義の場にたち生活態度の全体にわたって一貫した方法が形作られる。現世での生活は神の栄光を高め続けるためという合理化をはかっているのだ。カルヴィニズムが求めたのは、「個々の善き業」ではなく、組織にまで高められた行為主義であった。しかし、カトリックの修道士という観点からはウェーバーの禁欲と共通するものがある。西洋の修道士生活というのは禁欲の合理的生活を帯びている。自分を普段の自己審査と倫理的意義の熟慮の場に置くことを目的としているからだ。そうした能動的な自己統御はまさにカルヴァンの派の求めた禁欲のあり方で、ピュウリタニズムの実践生活における決定的に重要な理想であった(P201)。ではカトリックの修道士生活とカルヴィニズムの世俗内禁欲の間の対立はいかにして生まれたのか。連続性とはいかなるものであったのか。カトリック修道士の禁欲的生活に、カルヴァン派は世俗内的職業生活において信仰を確証することが必要という思想付け加えたのだ。カルヴィニズムにおいては「福音的勧告」がなくなり、禁欲が修道士にのみ限られていた。これにより禁欲的生活態度の確固たる基盤は、聖書から与えられるものになった。ここで重要なのは旧約聖書にかかれている律法や処世訓の影響を受けているということである。だが、旧約の合理主義がもつ伝統主義的色彩を考えれば、カルヴィニズムの固有の禁欲的な根本性格それ自身が、旧約から自己との同質性だけを抜き出して、それを自己に同化させたと言うべきである(P212)。キリスト教が生活全体に浸透したのは、このようにカルヴィニズムが倫理的な生活態度に押し付けた方法意識の帰結であったということを念頭におかねばならない。そうした生活の変革はまさしく禁欲的プロテスタンティズムの産物であるのだ。
敬虔派
 続いては敬虔派との比較である、敬虔派とはピューリタニズムの代表的な教派であり、神との交わりの喜びを味わうことを願うというルター派の神秘的合一と類似している。つまり、来世のための禁欲ではなく、現世の喜びを味わうことを願っているのだ。宗教の感情的側面が強化されることとなった。ここまでみるとカルヴァン派とは正反対な特徴を示している。しかし、帰結からいえば、「予定説」は「敬虔主義」の出発点となったのだ。そのため、この運動が教会内に収まっている限りにおいてはカルヴァン派信徒との違いはほとんどなかった。ただし、「敬虔の実践」があまりにも強調されたため、正統の教義は背後に退けられた。よって神学の知識があっても、それは選びの確証にはならないと考えられるようになった。敬虔派の信徒たちは教会には所属したものの、神学者たちの影響下にある教会に不信感を抱き、俗世から離れた「敬虔の実践」の信奉者だけの集会を作り出したのだ(P225)。そうした「小教会」は禁欲の強化によって、地上にありながら神との交わりの悦びを味わうことを願った。こうした傾向はルター派の「神秘的合一」と内面的に類似する部分がある。したがって、一般的な改革派信徒にくらべて宗教の感情的側面が一層強められたことが敬虔派の決定的な特徴であるのだ。来世への確証よりも、現世での悦びを優先するのである。この感情の高揚は、カルヴァン派信徒の理性的な人格による「抑制」が弱めたという結果をもたらした(P 226)。ただし、救いの確証を得ようと努める限りにおいてはむしろ職業生活の禁欲的統御が一層厳格となり、職業道徳の宗教的基礎づけが一層強固になるという方向に現れた(P227)
細かく見てみると、ツィンツェンドルフを代表とするドイツ敬虔派が出てくる。ドイツ敬虔派とは予定説から離れ、自己の聖潔な生活が完全へ近づくほど恩恵の地位に値する証拠であるとする思想をもち、働くものは神の摂理であるため職業労働は禁欲的手段とされた。予定説ではなく「期日説」(恩恵は生涯の特定の期間に一回きり与えられるだけという考え)という独自の教説をもっている。
ツィンツェンドルフは宗教的ディレッタントと呼ばれ、自らを「パウロ的・ルター的方向」の代表者とし律法に固着する敬虔派的・ヤコブ的方向と対立した。ピューリタン的禁欲的聖潔傾向が増大するのを阻止し、ルター派的行為による救いの主張を排除した。信仰の反合理的、感情的要素が強く働くこととなったのだ。その根底には「すでにこの現在において救いの悦びを感情的に味あわせようとする」幸福主義的な理想に相応する考えがあった。その目的において、キリスト者としての生活とそこに関連する職業労働に決定的な価値が置かれたため、「有用性という観点から生活を実際に合理化していく」ということがツィンツェンドルフにとってきわめて重要な点となった。
つまり、ドイツ敬虔派の禁欲に対する宗教基盤は不安定であり、カルヴァン派のような合理的職業倫理の樹立はなし得なかったが、天職であるなら労働に励むべきという思想により内面的な準備の1枝をなしたのだった。敬虔派はルター派のような伝統主義的に神の言に執着することに比べれば、生活に宗教を浸透させることに適していたのもまた事実であろう。

メソジスト派
 メソジスト派は救いの確かさを獲得するための生活の「方法的」組織化を進める方法派のことである。激情的性格を帯び、恩恵のうちにあるものが抱く、純粋に感情的な、直接的な聖霊の証を救いの確かさであることを基礎とすると考える。大陸における敬虔派のイギリスと。それに対するメソジスト派のアメリカという位置付けで敬虔派との類似点がみられる。それは、救いの確かさを得るための方法がとくに「回心」という感情的行為の誘致にまで持ち込まれるという点に見られる。メソジスト派独自の伝統的性格はある種の中世的な「覚醒」のための説教方法が再形成され復活し、それが敬虔派的形態と結びついたものであった。そこから合理的生活の烙印をはっきり押された禁欲的倫理との独特な結合を起こすに至ったのだ。感情的要素をすべて排除するカルヴァン派とは反対に、「恩恵のうちにあるものが抱く、純粋に感情的な、直接的な聖霊の証から生じる絶対的な確信」を確実な基礎とした。ウェスレーの教説によれば、真の回心者は自分の罪が自分を支配していないことをもって、自己と他人の前に自分が回心者であることを示さなければならず、この感情の自己証明が決定的な意味をもつ。その一方で律法を基準とする生活が樹立したのだという。普段の行いが明瞭な再生の印としたのは「ヨハネの第一の手紙」より基礎付けられたのだった。そして自分は恩恵を受けた人間であると思う感情が救いの確かさとなる、この点でメソジスト派もまた予定説を受け入れる側面があったのだ。しかし、感情に救いの確かさを求めるあまり、反カルヴァン的傾向を一層強め、さらに救いのための外的手段(聖典など)の意味も小さくなっていった。そのためメソジスト派は敬虔派と同じく倫理の基礎が不安定に揺れ動くこととなった。だがしかし、「より高潔な生涯」や「第二の祝福」への努力が、予定説の一種の代用品として役立った。そしてメソジスト派の覚醒された感情は直ちに合理的な努力という方向に向けられた点で、ドイツ敬虔派風の内面的感情的キリスト教とはちがっていた。天職観念に新しい貢献はなさなかったものの、真の回心を確かめるための「条件」として行動という標識を不可欠とする点はカルヴァン派と似た思想をもっていた。
(再)洗礼派
 プロテスタント的禁欲の要因の1つが再洗礼派である。再洗礼派はバプテスト、メノナイト、クエーカーという教派に分かれている。カルヴァン派と似て救いの手段としての一切の聖礼典を無価値なものとし、宗教における現世の「呪術からの解放」を成し遂げたのだった。もともとは初代キリスト教徒の生活を模範とするという意味での厳格な聖書主義と結びついて生まれたが、それは不変ではなかった。予定説を排除し、聖霊の働きに対する「待望」という思想に根拠をおく。人間の衝動的で非合理的な主観的な傾向を克服することが目的である。行為を熟考し個人的吟味を促す教育を意味する宗派となっていった。呪術からの解放は内面的に世俗内禁欲に向かうしかないとし、さらには政治行為にも関係をもつまいとする諸教団に関しては外面的にも禁欲的諸特性が職業労働の内部に浸透するという結果を生む出すことになった。そこから非政治的な職業生活が方向付けられ職業への経済的関心が強められることにもなったのだ。クエーカー派の世俗内的禁欲の中には「正直は最良の商略」という資本主義倫理の重要原則の実践的確証も含まれていた。教会の統制は権威的性格を帯びるため、資本主義倫理を弱体化させるが、反対に教会ではなく信団(ゼクテ)を組織したことは禁欲の強化につながったのだった。
まとめ
 以上で見てきたようにピュウリタニズムの天職観念は恩恵の地位という観点と強く結びついており、生活を方法的に禁欲生活に方向付け、浸透させようとする起動力となっていったのだ。「来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化」こそが天職観念がもたらした最大の産物であった。そしてこのプロテスタント的禁欲は生活の内部にその方法意識を浸透させ、それを世俗内的な合理的生活に改造しようとしたのだ。

2節―禁欲と資本主義精神
ウェーバーは禁欲的プロテスタンティズムの宗教観念基盤と経済的日常生活の原則の間に存在する観念を理解するために、霊的司牧の実践の説明の必要性を主張する。霊的司牧の実践とは教会規律の説教などで、それこそが当時のキリスト教徒の社会的な地位を左右したからである。その影響力は現代の我々の想像を超えており、そのような宗教的諸力が「国民性」の形成者となったのだ。

リチャード・バックスター
霊的司牧の実践を解くために、数あるピュウリタニズムの代表名著から一頭地を抜く人物であるリチャード・バックスターを挙げた。内面的には革命や分派精神を嫌悪していたが、外面的には反対者に対しても公平な立場でいた人物である。議論の中心として、長老派の「キリスト教指針」「聖徒の永遠の憩い」(P290.292)をおき、その比較対象として敬虔派の「神学的考察」、クエーカーの「弁証」を扱い、ひもといていく。(P290)
バックスターは富に関する見解を示した。特に新約聖書に見られるエビオン派的要素を強調している。エビオン派とは初期キリスト教の禁欲的な一派である。「富はそれ自体きわめて危険なもので、その誘惑はやむときがなく、その追求は神の国の大きな重要性に比べて無意味であるどころか、道徳的にもいかがわしいことだ」としている。(P292)この教えはカルヴァンのいう地上の財の獲得こそが神の声望を高めることと一見反対し、マモン的な教えにも反対している。マモンとは「強欲の神」で「富」を意味するもの(マタイ6章24節、ルカ16章13節)。そうした「反マモン的な」教説にも関わらず、こうした禁欲的宗教意識が経済的合理主義を生み出すことになったのはなぜなのか。それは、禁欲に発する合理的起動力を刺激したものがそうした「反マモン的」教説だったからである。このことこそがウェーバーの研究の中心的な存在である(P294注1)。ウェーバーはこの倫理上の意味をさらに詳しいところまで踏み込んだ。「道徳的に真に排斥すべきは獲得した富のうえで休息することで、富の享楽によって怠惰や肉の欲、なかんずく「聖潔な」生活への努力から離れるような結果がもたらされること」という点は非常に重要である。富が否定されていたのは、こういった危険性を伴っているという理由だけであったのだ。神の栄光を増すためには「行為」のみが意味を持つ。怠惰という時間の浪費は神の栄光を高める労働の時間を奪うこととなり、罪とされたのだ(P293)。そこでバックスターは労働の必要性を説いたのだ。労働は禁欲の手段で、一切の誘惑からの防止策であると評価し、「宗教上の懐疑」に打ち勝つだけでなく、あらゆる性的誘惑に打ち勝つためにも「おまえの天職である職業労働にはげめ」(P301)との教えを説いたのだった。しかし、ウェーバーは労働はそれ以上に意味を持ったと主張している。労働とは「神の定め給うた生活の自己目的である」というのだ。つまり、労働意欲のないことは恩恵の地位を喪失した兆候であるということだ。
・パウロの命題
キリスト教を大成したパウロの命題の1つである「働こうとしないものは食べることもしてはならない」。この解釈をトマス・アクイーナスは「労働は個人と全体の生活の維持のため」であるとした。しかし、これでは働かなくても生活できるものには適用しない命題となってしまう。そうした抜け道をプロテスタント派は作らなかった。「神の摂理によって、富があろうがなかろうが差別なく1つの天職がそなえられていて、人々はそれにおいて働かねばならない」と解釈したのだ(P304)。バックスターもまた「財産のあるものも労働せずに食ってはならない」とし、「神の栄光のために働け」という個々人に対する誡命を呈した(P306)。
・経済的秩序の発展との関係性
さらにこのことは、経済秩序の摂理的解釈のその後における発展にも関係したという。アクイナスは社会における分業や職業編制は「神の世界計画の直接発現」であり、そこへの人々の編入は自然的で偶発的であるとした。ルッターのいう歴史的秩序にしたがって編制され「そこに固く止まることが宗教的義務」であるとしたこととつながる部分がある。しかし、バックスターは実業主義的な解釈を示したのだ。天職である職業に特化した人間は、「そうでない人がたえず乱雑で、その仕事時間も場所もはっきりしないのとは違って、規律正しく仕事する。」それは熟練労働者の誕生につながり、公共の福祉への貢献ともなるのだという。逆に天職である職業をもたないものの生活には、世俗的禁欲が要求する組織的・方法的な性格が欠如しているのだ。つまりここでバックスターが言いたかったのは、労働そのものではなく、合理的な職業労働こそが神の求めるものである。また、この考えに沿えば、職業の変更も神にいっそう喜ばれる =有益な職業選びであれば可能である(P309−10)ということだ。神に喜ばれるものを決定したのは、第一に道徳的基準、次に生産する財の「全体」に対する重要性、第三に最も実践的には重要な「収益性」であった(P310)。神のために労働し、その結果裕福になることは良いことであるとし、貧しいことを願うのは行為主義として排斥すべきもので、神の栄光を害することにもなるとしたのだ。
・旧約と禁欲的プロテスタンティズム
利潤獲得の機会を摂理として説明することは、実業家たちに倫理的な光輝を与えた。ピュウリタニズムにおいては、旧約聖書のなかでも「形式的合法性」を神に喜ばれる行動の特徴として讃えられている個所が重要視された(P318)。特にカルヴィニズムの思想と一致する「ヨブ記」が強い影響を与え、プロテスタンティズムの合法性の精神を旧約道徳に見られる幾多の類似した特徴によって強化する方向に、大きく道を開いたのだった。しかし、同じ聖典をもつユダヤ教と比べても、資本主義のエートスの発展における両者の位置付けに関わる特徴をみるとかけ離れていた。ピュウリタニズムがユダヤ教の倫理から、合理的で市民的な経営と労働の合理的組織という適合的なものだけを採用した結果である。神の選民思想を復活させた(P324)。それが資本主義の英雄時代の形式主義的に正しい強靭な性格を生み出す原因となったのだ。
・禁欲が排除した娯楽
 ピュウリタニズムは禁欲を徹底するために感覚芸術などの文化財も敵視した。装飾品や呪術、儀式などを被造物神化であるとして拒否し、生活様式の画一化と生産の規格化へ務めた。しかし、決してピュウリタニズムの生活思想のなかに文化を軽蔑する俗物根性があったわけではない。ピュウリタン運動の代表者のなかにはルネッサンス文化に深い理解のあるものが多く、また神学上の論争でも博学を決して軽んじていなかった。敵視の意味とは、純粋に芸術や遊戯のための文化財の悦楽には何の支出もしてはならないとした。これは神の栄光のためではなく自分の享楽のために支出となり、少なくとも危険なことであるからである。人間は委託された財産に対して義務を負っており、管理する僕、まさしく「営利機械」として財産を奉仕するものとならねばならないという思想は、生活に冷ややかな圧力を与えていたのだった。そして財産が大きいほど神の栄光のためにそれを維持し、さらには増やさなければならないという責任感も与えた。このことは、伝統主義からの解放の助けも担うこととなった。利潤の追求を合法化し、神の意志に添うものという考えをもたらしたからである。禁欲は有産者に対して苦行を強いたのではなく、必要で実践上有用なものごとに所有物を使用することを求めたのだった。
・禁欲的節約強制による資本形成
 消費の圧殺と営利の解放とを1つに結びつけてみるなら、その外面的結果は禁欲的節約を強制による資本形成であった。利得したものを消費に使わないためには、投下資本としての使用を促さずにはいられなかった。しかし、ピュウリタニズムの生活思想は、富の「誘惑」に全く無力であったのだ。もっとも純粋な信仰者は小市民層や借地農民層にみられるのが普通であったが、その中の「恵まれた裕な人々」はクエイカーの間でさえ、旧い理想の否定に傾いていた。それは、中世修道院の禁欲が繰り返し陥ってきた運命と同じである。メソジスト派の始祖ウェスリーは、「宗教はどうしても勤労と節約を生み出すことになり、この2つは富をもたらす。しかし、富が増すほどに高ぶりや怒り、現世への愛着を増すことにもなる。こうして宗教の形は残れど、精神は消えていく。」と嘆いている。宗教的な熱狂が徐々に失われ、宗教的根幹が生命を失い、功利主義的現世主義に代わって孤立的経済人が姿をあらわすことになるのだ。合法的な形式で行われる限りでの貨幣利得に関する恐ろしく正しい良心が残され、独自な市民的な職業のエートスが生まれた。宗教的禁欲の力は冷静で良心的ですぐれた能力をもち神の喜びを給う生活目的として労働に精励し、さらには現世における財の配分の不平等が神の特別な摂理のわざであり神はこの差別をとおして恩恵の予定によってなし給うのと同じに、われわれのあずかり知らぬ、神しか知らない秘密の目的をなしとげ給うのだという、安心すべき保証を与えた。
・禁欲の発展
この禁欲は企業家の営利をも「天職」と解して、それによりこの独自な労働意欲の搾取をも合法化した。この上で、資本主義的な意味での労働の生産性を強く促進した。そして今日では、資本主義の基礎は固まり、来世という観念なしでも我々に労働意欲を強制することが可能となったのだ。自己の能力と創意にもとづく合理的かつ合法的な営利への個人主義的起動力は、政府の権力に頼らない、部分的にはむしろそれに抵抗して生まれつつあった産業の建設に助力を与えた。
 ここまでの考察から、ウェーバーは第1章第2節で引用したフランクリンの小論に立ち戻る。「資本主義の精神」とよばれた「心情の本質的要素が、さきにピュウリタンの天職意識に由来する職業的禁欲の内容として析出したものと同じであって、ただフランクリンの場合には、宗教的基礎づけがすでに生命を失って欠落しているにすぎない」と論じる。ここにおいて、本論文の主題である「プロテスタンティズムの倫理」と資本主義の精神」の間の選択的親和関係が説明されたこととなる。
・天職観念
 さらにウェーバーは以上の帰結を「ピュウリタンは天職人たらんと欲したーわれわれは天職人たらざるをえない」(P364)という有名な指摘から考察した。禁欲が修道士の小部屋から職業生活に浸透し、世俗内生活の道徳を支配しはじめるとともに、今度は機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代経済秩序を作り上げるのに力を貸すことになったのだ。この圧倒的な力をもった秩序は直接経済営利にたずさわる人々だけでなく一切の諸個人の生活スタイルを決定しており、将来もなおそうであろうとウェーバーは主張する(P365)。その過程のなかで、ウェスリーが悲観していたとおり、今日では禁欲の精神はこの鉄の檻から抜け出してしまい、職業義務の思想が亡霊のように残ることとなった。資本主義は、もうそのような支柱を必要としなくなったのだ(P365)と論じられる。営利ももっとも自由なアメリカ合衆国では、営利活動に宗教的・倫理的な意味合いは取り去られ、今では純粋な競争であり、スポーツの性格を帯びることも稀ではなくなったのだ(P366)。


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