デキるおじさんほど老害になる2つの理由
はじめに
さぬき市にある津田地区に約2キロにわたる長い海岸と、映画の撮影の舞台に使われるほど壮大な松原の国立公園があります。
昔は漁師町で栄え、鮮魚の加工業が根強く残る町です。縁があって、この歴史ある古い港町が進化していく姿をずっと見てきました。ちょい大げさですが初めてまちづくり的なものに少しだけ関わった町。
いつ来ても居心地のよい場所です。
"人としての在り方"が美しい人たちがどんどん集まってる。
お互いに連鎖反応を繰り返して、少しずつ点が面になって、まちづくりを進めている印象ですね。
いろいろと調整は大変なんだろうけれど、いろんなキャラクターが登場していて、立場問わず老若男女が共存してるイメージですね。あちらこちらで移住者も地元の方も若者も年配も入り混じってごちゃごちゃやってますね。
あ、そうか君も移住やったんやなぁなんてw
郷にいれば従えなんて言葉を忘れてしまう。
オープンネスでカオス。田舎なんやけどこの混沌とした感じは都会的だよなぁ。と感想。
デキるおじさん
この海を眺めながら思ったのですが、
最近、この歳でわかったのは、私たちおじさんに価値があるとするならば、"合理的で優秀"じゃなくて"在り方"じゃないか。
在り方とは美学とか意識レベルのこと。
人ならば、視座、視野、熱意、姿勢みたいなこと。
人生は何を得るか?ではなく何をのこすか?だと教わってきた。
人の価値で言い換えれば、自分が何を学んで得てきたかより、他者に何を与えているか?だと思う。
それはスキルとか技術論ではなくて、人としての在り方に近いのだと問う。
何故ならば、人は人から学びまた人に継いでいくから。
スキルは自分で勉強し学べるが、"人としての在り方"は人でしか学べない。
判断基準が「合理的」「優秀さ」の人は一見、できる凄い人のようだけど果たしてどうだろうか。
自分が優位になる場所を作って戦って勝ち、もしくは自分の理屈が評価されやすい、"得意な場所"に論点を持ってくる。そうして何事も他者との勝ち負けで人の優劣をつくる。またそういう人は自分自身も他者評価を気にしている。
老害の本質
周りの評価ばかりを気にする人では少し寂しい。
自分の心と向き合うことを後回しに、目先の他者評価や優劣ばかり気にしてる。
自分勝手にするだけなら良いけれど、八方美人なだけに他者評価が高く信頼されたりする。
そんな他人軸の人間がそのまま歳を重ねて先輩になっちゃって、若い人たちに持論の"合理性と優秀さ論"だけが、あたかも世の中の勝ち筋だと思わせるような説法で影響を与える。
これが若者の成長の足を引っ張る、"本当の老害"だと思う。
【若い人たちへ】
①自分の土俵でしか勝負しない人の価値観
②土俵のルールは"合理性と優秀さ"
この2つは、若い人も違和感を感じにくいし納得せざる得ないですよね。実は話が長いとか、昔話するとか、そんなことよりも"隠れ老害"の本質があるような気がします。気をつけてください。
【隠れ老害のおじさんたちへ】
他者からの賞賛はそこそこにして、自分が勝てるかどうかより本当にやりたいことで勝負しているか。
他者にとやかくする前に
まずは自分はどうなのか?
自分が自分と戦えているか?
そこを棚にあげて、自分は土俵からは出ず、勝負してる他者の土俵ばかりを小馬鹿に評価する。
それは流石にすこしダサいよなw
自分はそーじゃねよ、と思ったら周りのおじさんを見てください。
お前、誰の土俵で勝負してんだい?
負けたとしても勝負してる人は美しい。と思う。
他人軸からの脱却
他者に対して
「優秀かどうか、合理性があるかどうか」だけで判断していないか。そんな極論の人間がこれからの若い未来派野郎たちに"勝ち負け承認欲求マインド"を植え付けてどうするのか。
その人の存在そのものを認めてみる。
それができるようになると"勝ち負け好きな承認欲求おじさん"たちは、次のステージに進めるような気がするな。
合理性とか優秀さとかを超越した価値が人にはあって、自分が人に与える"その価値"が何なのか?探求していくことこそ、私たちおじさんの歳を老いてからの営みの真理ではないだろうか。と思うのです。